第十三話 胸やけがしそうだ
二人がいる部屋の、当てどころのない感情の渦が収まったころ、リクはぼそりと呟いた。
「そりゃ、俺を殺してでもこの話を無かったことにしたかったわけだ」
「……何かあったんですか?」
ヴィンセントが怪訝な顔で窺ってくる。
「あぁ、独り言だ」
リクは軽く手を振った。カレンの事を言う気はなかった。
自らの主人を思ってのことだろう。あの決闘の後に焦点の合っていない目をしていたが、その時に決断したんだろう、とリクは思った。
全ての責任をひっかぶるつもりだったと思うと、あの時のカレンの泣き顔が頭に浮かぶ。かしましい位がカレンには合っていると思っているリクにとって、見たくはない表情だった。
「けっ、公都を土くれに還してやりたい気分だな」
「……その時は僕も一緒に連れて行ってください」
リクが苦々し気に吐き捨てた言葉に、ヴィンセントから思いもよらない返事があった。リクが驚きの視線を送れば、目を細めたヴィンセントが「僕だって許せない事なんです、これは」と呟く。端正な美形な顔を歪め、ヴィンセントが歯を食いしばっていた。
「顔に似合わず、結構な事を言うじゃねえか」
リクが、意外な台詞きいた、と書いてる顔で呟くとヴィンセントが「エリナの為ならば」と言い切った。
「婚約者ってだけで、そこまでやるもんなのか?」
リクが疑問に思い、ヴィンセントに尋ねた。
「……僕とエリナの婚約が決まったのって、八年前なんですよ」
ヴィンセントはぽつりと話し出した。
「僕が十歳、エリナが六歳の時です。親同士の話し合いで決まった縁談なんですけどね。初めて会った時、素朴でなんの邪念を持っていないような笑顔と、小さいながらも一生懸命レディであろうとする頑張りに、やられました。一目ぼれってヤツです」
その時を思い出しているのか、ヴィンセントの口もとが緩んでいる。
「それからずっと、エリナの為に自分を磨きました。エリナは一人娘でファコム家には男がおらず、僕が婿入りすることが決まっていましたから。辺境伯の仕事には国境の森の巡回も含まれているんです。だから僕は強くなるべく剣の腕を磨きました」
森を切り開き、自らの領地としてきたファコム領の中心の街リジイラは国境に一番近い街だ。国境の町の義務として、森の巡回は大公からの命ぜられた仕事だった。エリナの父はその時に怪我をし、命を落としたのだ。
ヴィンセントは強くなるために剣豪と呼ばれる人物を招き、教えを乞うていた。彼がリクに決闘を申し込んだのも、ヤケからではなく勝算があってのことだった。
「僕、これでも事業を抱えてて、結構忙しいんです。あはは、全部エリナの為、なんですけどね。エリナも凄いねって褒めてくれてました」
ヴィンセントは夢を語る若者という表情で、嬉しそうに語り続ける。もっともその夢は破れかけてしまっているのだが。
「彼女の父が亡くなってからは、週に一回はリジイラに顔を出すようにしていました。両親を失ったエリナはふさぎがちになってしまいましたから。でも僕が行くとエリナは嬉しそうに微笑んでくれるんです」
エリナの事を話しているヴィンセントの表情は明るかった。彼女の事を想うこと自体が幸せなのかもしれない。
惚気話を聞いている身にもなれと思わなくもないリクだったが。
「そうか、二人の仲を裂いて悪かったな。って俺がどうこうできる問題でもなかったがな」
「あ、いえ。何も聞かされていなかったリクさんは悪くは無いと思います」
ヴィンセントが慌てて取り繕うが、リクは苦笑した。
「さて、そろそろ話はしまいとしようや。惚気話の砂糖で胸焼けしそうだ」
「え、えぇ、そう、です、ね」
リクがわざとらしく胸を押さえるとヴィンセントがふいっと視線を泳がした。弄られるのは慣れていないらしい。
「……俺は一旦お嬢ちゃんの領地に行く。結婚てのは成人しないとできないはずだ。ってことはまだ時間はあるってことだ。いい方法を探させてくれ」
「そうあって欲しいです。僕はまだ希望を捨ててはいません。エリナを諦めることはできませんから」
リクが立ち上がると、ヴィンセントも立ち上がる。
「悪いが、ちと協力してもらうぞ」
「あくまでエリナの為、ですけども」
ヴィンセントの表情は硬い。
「あぁ、それでいい」
リクは満足げにニヤリと笑った。
リクは慣れない屋敷での食事を断り、一人でニブラの街をぶらついていた。貴族の食事作法などリクは知らないし、自分がいない方がエリナもホッとするだろうという考えもあった。
「なかなか旨かったな」
リクは適当な酒場に入り、地元の料理というものを食べた。リクが食事を断ったのもこれが理由だ。リクは公国の北方に来たことは無い。この地方の郷土料理なるものを食べたかったのである。
ただの食いしん坊だ。
ニブラの大通りには適度な間隔で篝火があり、歩くことができた。もっとも横にそれて裏通りを見ればそこには篝火は無く、建物から洩れる光だけが灯りであった。
リクは大通りに転がっている適当な木箱に腰かけた。食事をとったことで火照った体を涼しい秋風が冷やしていく。リクは天を仰ぎ、はぁとため息を漏らした。見上げた夜空には、ここが定位置と言わんばかりに月が黄色く鎮座していた。
「さて、これからどうすっかな」
ヴィンセントの屋敷に帰ってからの事ではない。リクの今後についてだ。リクが何らかの監視されるであろうことは疑いようもなかった。ということは、リクが逃げ出そうものなら直ぐに追手がつくということだ。それに逃げればエリナも罰せられるだろう。護りたかった自分の領地を奪われるのだ。
「そんなことは、したかねえぁな」
リクは呟いて地面を見た。エリナのことを心配する義理などない。だが本当の事情を知ってしまうと、放っておくことは酷だと感じていた。
まったくお人よしだな、と自嘲気味に笑う。
リク自身は追手を撃退することなど簡単だと思っている。リクの能力はそれほど異質なのだ。
だがいつまでも逃げ回っていては落ち着かないし、いつかは疲れ果ててしまう。だからと言ってこのままでも軍に戻れる事は無い。
軍はリクにとって唯一の居場所だ。孤児だったリクに家は無く、帰るところと言えば軍の宿舎だった。そこに帰ることができなければ、まさに路頭に迷うということになる。
「……まぁ、これしかねえだろうなぁ」
リクが大きくため息をついた時、目の前を影が覆った。薄い茶色の上着を羽織り同じく茶色の脛までのスカートが目に入り、更に視線をあげると、心配そうにリクを見つめる女性の顔があった。暗くてはっきりはしないが、亜麻色の髪の若い女性だ。
「あの、気分が悪いようですけど、大丈夫ですか?」
鈴の鳴る様な声とはこんな声なのか、とリクが思うくらいの綺麗な声が掛けられた。リクは一瞬惚けた顔をするが、すぐに眉を顰めた。
「いや、大丈夫だ」
「とても疲れているように見えましたが……」
リクが手を振って問題ないとアピールするが、その女性はリクを心配しているようだった。リクに向かって手を伸ばし「近くに休めるところがありますよ」と優しく語り掛けてくる。だがリクはその差し出された手を掴んだ。
「で、あんたは誰だ?」
リクは無表情で問うた。
「私はただ介抱しようと」
目の前の女性が何をするんだという目でリク見てくるが、リクは手を離さない。リクがその女性を睨み付けた時、脇から声がかかった。
「リク! あんた、何やってんのよ!」
リクが目だけ向ければ、そこには外套をはおり、肩で息をしているカレンを見えた。
「ちょっと、その手を、離しなさいよ!」
カレンが大股で近づいてくるのを見たリクは掴んでいたその手を離した。亜麻色の髪の若い女はカレンの方とは逆に駆けだし、直ぐに暗闇と同化してしまう。その姿は忽然と消えた。
「え、あれ?」
てっきり自分の方に逃げて来るものと思っていたのか、カレンが素っ頓狂な声を上げた。