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海月

作者: かぶとむし

 高梨くんはよくわからない男だった。

 彼がこの工房で働き始めたのは、今年の二月。社長の牧田さんの知人の紹介で来たという彼は、初めは定時の勤務ではなく、社長の指定した時だけ雑用を手伝う、いわばパートタイムのアルバイトだった。だから常時いっしょに仕事をするわけでもなく、仕事以外の話をしたことはほとんどない。昼休みは、休憩室のテーブルで一人頬杖をついているか、煙草を吸わないのに裏口の外にある喫煙所のベンチでぼんやりしているかといった具合で、他の社員ともさほど口を利いていないように見えた。


 そんなふうにあまり社交的ではない高梨くんだが、仕事はてきぱきとこなし、ひょろりとした外見とは裏腹に意外に怪力で、力の要る作業では重宝されているようだった。飲み込みも早く、手先の器用さもあってやがて製作の手伝いもするようになった。そうしてその才覚を認めた牧田さんが、正式採用したのが七月のことだった。


 私の働く家具工房は、都心から西に私鉄で三十分ほどの場所にある。十五人ほどの作業員で賄う小さな町工場といったところだ。駅からは歩いて十五分と少し遠いが、五つほど都心寄りの駅から通っている私はラッシュに巻き込まれることもないので通勤は快適だ。工房は一階が作業場と資材置き場、社員が食事などもする休憩室。二階が社長の牧田さん夫婦の住居となっている。たまに休日に仕事が入ることもあるが、客商売というわけではないので普通の会社と同じように土日は休みということになっている。


 工房では家具の販売会社の依頼に応じて、椅子やラックなど小型の木製家具や、いわゆる雑貨というような木工製品を作っている。たまに個人からの依頼もあるが、オーダーメイドの高級家具というわけではない。安いわけではないが比較的無難な値段で質はいいということで、ほどほどの需要は続いているようだ。社員の中には何人か家具や大工の仕事をかじった人もいるが、ほとんどはここで仕事を覚えた人たちだ。それでも品質が保たれているのは、社長の牧田さんの腕の良さと指導の賜物である。


 七年前に美大の工芸科を卒業して入社した私は数少ない大卒社員だ。美大出といっても、元来が芸術家肌というわけではなく、ただの工作好きだったので、この仕事は性に合っている。女子社員は私より七歳上で独身の絢子さん、四十代半ばで三人の息子がいるベテランの弘美さんと私の三人だ。ちなみに工房では女子は名字ではなく名前で呼ぶのが慣例になっている。「結婚しても呼び方に戸惑わなくていいだろ」という牧田さんの提唱したルールだが、弘美さんも結婚してからここに来たと聞いたので、これまでのところそうした事例はない。


 梅雨明けが宣言された七月半ば、晴れて正式採用となった高梨くんのために歓迎会が催されることとなった。言い出しっぺは、話好きで世話好きの絢子さんである。


「ねえ、高梨くんって寡黙だけど、なんかちょっとよくない?」

「そうですか? 口数も少ないけど、なんだか表情も乏しくて、何考えてるかわかんない感じですけど。案外危ない人だったりして」


 まさか絢子さんは若い高梨くんを狙っているんだろうか。絢子さんはけっこう美人だし明るい人なのでみんなに人気はあるのだが、なぜか男っ気がない。


「そう? でも話してみると全然まともよ。確かにそんなに面白いこと言うわけじゃないけど、なかなか好青年よ。アユミちゃんはあまり話したことないの?」


 気付かなかったが、愛煙家の絢子さんは喫煙所や休憩室で高梨くんとけっこう会話を交わしているのだろう。

 絢子さんは詮索好きでもあるので、工房でも一番の事情通で、スタッフのプライベートな事情にも精通している。同性で独身の私のことは同志のように思っているらしく、特によく気にかけてくれる。私の近況をあれこれ聞き出して、「そっかぁ、じゃこうするといいんじゃない」と、別に悩みを打ち明けたわけでもないのに勝手に相談に乗ってくれたり、「昨日Eテレでやってたのよ」と、頼みもしない料理レシピのメモをくれたりして、時々鬱陶しく感じることもあるが、何かと頼りになる先輩なのである。


 仕事が終った金曜の夕方、駅近くの居酒屋の座敷に集まったのは、牧田さん夫婦も含めて十人ほど。歓迎会といっても、主賓の高梨くんも既に半年近く工房に通っているので別に緊張した様子もなく、彼が簡潔な挨拶をしたあと宴は始まった。何しろ絢子さんが場を仕切っているから自然に盛り上がる。高梨くんも誰かに話しかけられれば屈託なく受け答えしているし、鉄仮面かと思っていたが、時折笑みを浮かべたりしている。なんだ、割と普通じゃないか、絢子さんの言った通りかもしれない。


 ほとんどのメンバーが二次会のカラオケにも残り、その場も絢子さんを中心に盛り上がって、二時間ほどみんなで歌って歓迎会はお開きとなった。しかし、絢子さんが独身組で三次会に行こうと言い出し、高梨くんと私が連れ出された。店は前にも何度か絢子さんに連れて行ってもらったバーだ。洗練されてはいないが、客も特に気取らず気楽にビールを注文できるような店で、居心地は悪くない。カウンターの他に四人掛けのテーブル席も二つあって、私たちはその一つに陣取った。


 二次会までは、ほとんど話す機会のなかった高梨くんだったが、三人になると必然的に話をすることになる。もっとも一番話しているのは絢子さんなわけで、人数が減っても場を賑わせてくれる。高梨くんは自分から何か聞いたり、話題を持ち出したりということはほとんどしないが、こちらが何か聞くと、何でもスラスラと答えた。淡々としているがもったいぶらず、無駄なことも言わず、何か隠しているふうでもなく、いかに正直に答えていると感じられる話し方だった。しかし、その席で私は思いがけない事実を知ることになる。なんと高梨くんは私より二つ年上だったのだ。バイトだったし、若くも見えたので、ずっと年下だと思い込んでいた。もう半年近くも「くん」付けで呼んできたので、今さら敬称で呼ぶのもへんな気がして、ちょっと生意気な気もしたが、私はこれまで通り呼ぶことを決意した。


「あ、やばい、もう終電終ってる」と、店内の時計を目にした絢子さんが声をあげた。

「アユミちゃんも電車ないよ」

「そんな時間だったんだ」

「そうだ、高梨くんちに泊めてもらおう。家、この近くだよね」

 そうだったのか。相変わらず絢子さんは何でも知っている。

「それはさすがに悪いですよ」と私は言ったが、「別にいいですよ」と、高梨くんは表情も変えずに言った。


 高梨くんの家は、駅と工房の丁度中間ぐらい、私の通勤路からちょっと道を入った先にあった。こんな近くに住んでいたのか。

「ここ」と言って高梨くんが立ち止まった家を見て、絢子さんと私は一瞬絶句した。

「けっこう広い家だって聞いてたけど、すごいな、豪邸じゃんこれ」


 少し間をおいて、絢子さんが興奮気味に声を挙げた。都心から離れているとはいえ、普通の人が住む家ではない。無論、外観にたがわず中も広い。優に二十畳はあるリビングには大きなソファーが置かれ、私たちはそこで休ませてもらうことになった。


「悪いね。電車が動く時間になったら私たちとっとと帰るから」と、絢子さんは携帯のアラームをセットしている。

「この時期だから寒いことはないと思うけど」と、タオルケットを二つ持ってきてくれた高梨くんは、「それじゃ、おやすみなさい」と言って寝室があるらしい二階に昇って行った。

 ほどなくして絢子さんは寝息を立て始めたが、私はちょっと興奮して眠れなかった。高梨くんって何者なんだろう、家の人は何をしている人なんだろう。当てのない想像はどこにも向かわず頭の中をぐるぐる回るばかりだ。ふと目を開くと、暗闇の中の青い光に気づいた。リビングの隣の部屋の締め切っていないドアから漏れている。起き出してドアの隙間から覗いてみると、部屋の奥には水を湛えた水槽が二つ置いてあり、それを照らす明かりが光源だった。そっとドアを半分ほど開き、部屋に入って水槽に近づいてみると、そこにいたのは奇妙な生き物だった。

「クラゲ?」

 青い光の中でたゆたうクラゲは不思議に美しく、私はしばし見入ってしまった。クラゲをこんなにまじまじと見たことはなかったが、見ているとなぜか心が落ち着いて、無心のような境地になる。さっきまでの興奮も冷めて、眠れそうな気がしてきた。


 少しは打ち解けたつもりだったが、週明けに仕事が始まると、高梨くんは相変わらず休憩時間は一人でぼんやり過ごしていた。やっぱり何を考えているかわからないやつだ。そこで水曜の昼休み、喫煙所のベンチにいた高梨くんに思い切って声を掛けた。

「クラゲ飼ってるんだね」

「あ、見たの」

「ドアがちょっと開いてたから」

高梨くんは咎めるふうではなかったが、つい言い訳のような答え方になった。

「別にいいよ。秘密ってわけじゃないし」

「あの、今度また見に行ってもいいかな。もっとじっくり見たかったし、ちょっとクラゲに興味が湧いたの」

 思わずそんな申し出をしてしまったが、高梨くんはためらうこともなく即座に承諾してくれた。休日で自分が家にいる時間ならいいとのことで、翌週の土曜の午後に再訪することになった。


 明るい時間に見る高梨邸は、夜とはまた違って見事なものだった。ただ、豪奢ということはなく、機能美を感じさせる佇まいである。門から玄関まではさほど距離はないが、玄関は北側で、ちょうどその反対側になるリビングに面して広い庭があった。リビングの前は一面に緑の芝生が敷かれ、一方、庭の左側半分には何種類もの低木や花が植えられ、鉢も幾つかあった。その一角には温室らしきものもある。庭の右半分と左半分はだいぶ感じが違って、なんかちぐはぐで妙な印象だ。


「この前は深夜でご家族に挨拶もできなかったから、これはお世話になったお礼とご挨拶を兼ねて・・」

 私が菓子折りを差し出すと、高梨くんはちょっと驚いたような顔をした。

「あ、ありがと。でも家族はいないよ」

「どこか出掛けてるの?」

「いや、ここ俺だけ」

「え、一人でここに住んでるの?!」

高梨くんはこくんと頷いた。えーっ、どういうことだ、益々わからなくなる。

「クラゲ見に来たんだよね?」

 疑問ばかり増えて少々混乱している私を高梨くんは例の部屋に招き入れ、「お茶淹れて来るから、好きに見てて」と言って部屋を出て行った。


 リビングと並んで庭に面した十畳ほどの部屋は日当たりがよく、窓の正面にはリビングとは違う植物園のような風景が見えた。窓にはレースのカーテンが掛けられ、部屋の奥にはそのまま庭に出られるらしいドアもあった。窓側には横に広い机があって、ノートパソコンとミニコンポが置かれ、何冊かの本とノートやメモ用紙が散らばっている。二つの水槽は窓に向って左手、東側の壁に沿って置かれた腰ほどの高さの頑丈そうなキャビネットの上に並べられている。この前は気づかなかったが、窓と反対側には据え付けの大きな書棚があって、ぎっしり本が並んでいた。難しそうな本もあるが、どうやらほとんどが動植物に関する本のようだ。ここで寝ることもあるのか、水槽の反対の壁側にパイプベッドがあり、小さなテーブルとスツールもあったので、私はそのスツールを水槽の前に運んで腰かけ、クラゲを眺めることにした。

 しばらくすると、ティーカップを二つ乗せた盆をもって高梨くんが戻ってきた。

「そのテーブル、真ん中に出してくれる?」

 私がテーブルを引っ張ってくると、高梨くんは盆をその上に置き、机の前にあったワークチェアをくるりと回して腰かけ「どうぞ」と言うように右手を差し出した。「いただきます」とカップを口に運んで、私はまた驚いた。

「何これ?こんな美味しい紅茶飲んだことないよ」

「お袋が好きでちょっと仕込まれたんだ」

「喫茶店やったら流行るんじゃない?」

高梨くんは、それには答えず逆に「クラゲ面白い?」と聞いてきた。

「うん、面白いし、見てるとなんていうか気

持ちが落ち着く。心の中にあるごちゃごちゃしたものが溶けてなくなっていくような感じ」

「ふーん」

「高梨くんはクラゲのどんなところが好きなの?」

「何考えてるかわかんないところかな。顔もないわけだし」

 高梨くんは顔があるのに何を考えているかよくわからない。

「高梨くんもクラゲみたいだよ」と、うっかり思ったことを口にしてしまった。高梨くんは一瞬、えっ、という顔をしていたが、ちょっと顔をほころばせて、「そっか」と呟いた。

 「クラゲみたい」って褒め言葉だったか?褒めたんじゃないよと言おうと思ったが、珍しく嬉しそうな顔をしているので、その言葉は飲み込んだ。

「それと、のんびり宇宙を彷徨ってる宇宙船みたいな風情がいい」と、高梨くんはさっきの答えに付け加えた。

 彷徨っている宇宙船に風情があるかどうかはよくわからないが、確かに現実の日常とはちょっと違う世界の風情は私も感じていた。その造形と動きには、人間には決して創り出せない神秘的な美しさがある。

「私も飼ってみようかな」

「いいと思うけど、けっこう面倒くさいよ。それとクラゲはそんなに長くは生きられないから、それは覚悟しないと」

「じゃ、少し勉強してから考えてみようかな。いろいろ教えてくれない?」

「いいけど、俺も飼い始めてそんなに長くはないから、わかる範囲でなら。それと、ここには参考になる本もいろいろあるはずだから、見たい本があったら持って行ってもいいよ」

「ここの本、すごいね」

「元々は親父の部屋なんだ。ほとんど親父の蔵書」

「へえー」

 それからしばらくの間、クラゲを眺めたり本を物色したりして、私は海洋生物図鑑のクラゲが入っている巻と、一般向けに書かれたクラゲの生態についての本を借りて帰ることにした。


 そうして私は月に二、三度、週末に高梨邸を訪ねるようになった。高梨くんの淹れる紅茶を飲みながらクラゲを見て、それまでに読んだ本でわからないことを彼に聞いて、また新しい本を借りて帰るというのが恒例となった。たいていは二時間ほどを、クラゲの部屋で過ごした。高梨くんは相変わらず自分からはあまり話さず、私が居ても特に構うこともせず、自分の時間を過ごしているようだった。パソコンを操作したり、本を読んだり、時には本を抱えて庭に出ていくこともあった。話をしないからといって気まずいとか、居心地が悪いということはなかった。本は自由に見ていいと言われていたし、クラゲと共に静かに流れる時間は私には心地よいものに感じられた。それにまったく無視しているわけでもない。カップのお茶がなくなると「何か飲?」と聞くこともあるし、私が聞いたことには、何でも丁寧に答えてくれる。そんな中で、高梨くん自身のことや家族のことも少しずつ知って行くことになった。


 高梨くんは大学を出て、しばらくは会社勤めをしていたらしい。父親は生物学者で、特に植物ケータイ学とやらの権威なのだという。私は海洋生物の本ばかりに目が行って初めは気づかなかったが、クラゲ部屋の書棚の中には高梨くんのお父さんが書いた植物の本がたくさんあった。

「植物バカっていうのかな。人間にはほとんど興味がなくて、だからお袋とも見合い。当然、家庭にも興味はなくて、家のことは全部お袋任せで世界中あちこち飛び回ってたよ」

 この家は母親の名義で建てられ、どんな家にするかもすべて母親が決めたらしい。その中で父親が希望したのは、庭に面した自室、つまりこのクラゲ部屋と庭の半分を自由に使わせて欲しいというものだった。それが庭半分の植物園の由来である。

「家族に冷淡なお父さんなの?」

「そういうわけでもないよ。世事に疎くてまるで子どもみたいだけど、案外面白い人なんだ。でも自分の子どもたちの人生に関わるような話は一切しない」

「人生に関わる話って?」

「進路の事とかさ。で、唐突に生物の話を始めるんだけど、その話はとても面白くて俺も姉貴も昔から大好きだった」

 子どもを楽しませる話をする生物学者は、専門書以外にも子ども向けや一般向けに植物関係の科学読み物やエッセイなどを書いていて、それがなかなか評判がよくて、印税もかなり入って来たのだという。それでこんな家が建ったわけなのだ。

 話の中に出てきた「姉貴」というのは、高梨くんより三歳年上で、「私は遺産は要らんから、父さんと母さんのことは任せたぞ」と言ってアメリカに渡り、向こうの人と結婚したのだという。お嬢様育ちという母親は、娘に本格的にピアノを仕込もうとしたらしく、一度見せてもらった「姉貴」が使っていたという二階の部屋にはスタンウェイのグランドピアノが置いてあった。おそらく一千万以上はする代物だ。

「お袋はクラシックをさせたかったみたいだけど、姉貴は高校生の時にグレるというか、覚醒してしまって、すっかりジャズにハマって、今はジャズピアニストになってる。お袋としては裏切られた気分だったかもしれないけど、姉貴は自分がジャズピアニストになれたのは母さんのおかげだって感謝してるよ」


 なんだかすごい家族だ。そのお母さんもお嬢様育ちだからか、あるいはお嬢様の割にはというべきか、趣味がいいと感じられた。家は実に機能的に設計されているし、広くはあるが無駄を感じさせないすっきりとした内装で、調度類も贅沢さはなくシンプルなものばかり。お姉さんのグランドピアノにも表れるように、本当に必要と思うものにはお金をかけるが、それ以外は必要最小限でいいという潔い生活観が窺えた。芝生だけの庭にはお母さんの気性が、いろんなものを詰め込んだ植物園にはお父さんの頭の中が表れているようで、自ずと二人の人となりが想像される。


 そんな家族に事件が起こったのが去年の事だった。なんと生物学者の父親が、息子とたいして歳の変わらぬ若い女性と駆け落ちしたのである。

「じゃ、お父さん、今はどこに居るの?」

「知らない」

「探さなかったの?」

「親父には親父の人生があるだろうし」

 そういうもんなのか。

「だって、ちょっとひどくない?」

「確かにお袋は多少ショックは受けたと思うけど、元々家に居つく人じゃなかったし、不仲ということはないけど、それほど強い絆で結ばれた夫婦でもなかったから。姉貴にも伝えたけど『相変わらず身勝手な人ね』と呆れてはいたけど、特に動揺はしてないみたいだったよ」

 何なのだろう、この家族の大らかさは。

 家土地は初めから母親の名義だったし、父親も母親のその後を考えてかなりまとまった額の金を残して行ったらしい。それに何冊かの本の印税は直接母親の口座に振り込まれるようになっていて、少なくとも経済的な動揺はなかったのだという。でも、精神的にはどうだったのだろう。

「不謹慎な話かもしれないけど、俺ちょっと嬉しい面もあったんだ。駆け落ちしたってことは、あの親父が人間に興味を持ったわけだから」


 しかし、高梨家の波乱はそれで終わりではなかった。父親が行方を晦ましてひと月ほど経ったころ母親に癌が見つかり、その二カ月後には亡くなってしまったのである。これは流石に高梨くんも堪えたようだ。もっともそれは彼の話の文面がそうなのであって、話しぶりは相変わらず他人事のように淡々したものだった。

「人が死ぬ時ってこんなにあっけないものなのかって思ったよ。それに、死んだ後がまた大変」

 三か月前に姿を晦ました父親は、葬儀にも現れず、母方の親族はかんかんだったらしい。タイミングも悪かった。実際、癌は父親がいなくなる前から進行していたらしいが、死んだのは失踪した夫のせいだと周りが考えるのも無理はない状況だった。母方の親族たちは高梨くんやお姉さんに同情しつつも、お父さんのことを散々罵ったらしい。

「確かに親父が悪いんだけど、肉親の悪口を聞かされ続けるのも精神的に疲れるよ。父方の親族は親父の弟の叔父だけだったけど、ひたすら謝り続けて気の毒だった」

 そんなことがあって、しばらく人に会いたくないと思い、そのまま会社を辞めたのだという。葬儀も終わりひと段落すると、姉は公約通り相続放棄してすぐにアメリカに戻ってしまった。父親が母親に遺したものをそっくり引き継いだのだから、慌てて仕事を探す必要もなかったのだろう。

「お母さんの財産を相続したんなら、仕事しなくていいくらいじゃないの?」

「そうはいかないよ。相続税をごっそり持っていかれたから、お金はそんなにたくさん残っていないし、あるだけで金の掛かるこの家もどうしようかと思ってる」

 そうして半年ほどブラブラしていた甥を心配して、母方の親族に謝り続けたという叔父さんが釣り仲間だったうちの社長に頼み、工房で働くようになったというわけである。


「その後、高梨くんとはどう?」

 久しぶりに行った垢抜けないバーのカウンターで絢子さんが聞いた。絢子さんには高梨邸通いのことは、だいぶ前に言っていた。どうせいつかは嗅ぎつけるだろうし、後になって知れるとあれこれ勘ぐられて面倒だと思ったからだ。

「どうって、特に変わりなく、ですけど」

「なんかドラマチックな展開はないわけ?」

「クラゲ見てるだけですから」

「なんだか、よくわかんないなぁ、あんたたち」

 私まで「よくわかんない」存在になったのは、高梨くんの影響だろうか。


 季節はすっかり秋になり、陽が暮れるのもだいぶ早くなった。高梨くんは明るい時間、以前よりも頻繁に庭に出るようになった。聞くとお父さんの植物園の手入れをしているのだという。

「ここに帰って来るかもわからないけど、もし帰ってきて植物園が荒れていたらがっかりすると思うから」

 その小さな植物園には、けっこう珍しい種もあるらしく、高梨くんはそれを守ろうと本で調べながら世話をしていたのだ。

「家を処分するかもって言ってたけど」

「それはしばらく考えないことにした。お袋には親孝行らしいことはできなかったし、これは自己満足かもしれないけど、親父への孝行のつもり」なのだそうだ。涼しくなって広い家はいよいよ寒々としてきたが、

ここには高梨くんの家族の痕跡がたくさん残っているのだ。


 どうして職場の休憩時間にぼんやりしているのかも聞いてみた。

「ぼーっとしてるぐらいなら、本でも読んでいればいいのに。家では熱心に読んでるじゃない」

「クラゲ部屋じゃないと、落ち着かないし集中できないんだ」

「高梨くんもクラゲといると落ち着くの?」

「もちろん。仕事中は集中してるけど、自由な時間ができるとあれこれ考えて落ち着かなくなるんだ。だから休憩時間は自分がクラゲになったつもりで心を落ち着かせるわけ。一種の瞑想みたいなもんだよ」

「誰かと話をするとかじゃだめなの?」

「話すって何を話すの?」

 こういうところはちょっとお父さん似なんじゃないだろうか。高梨くんは他人への関心が薄いし、私も自分のことはほとんど聞かれたことがない。でも、「クラゲになったつもり」というのを聞いて、「クラゲみたい」と言った時に笑った訳がわかった気がした。


 私もクラゲや幾つかの海洋生物についてだいぶ詳しくなった。クラゲ部屋の二つの水槽には、それぞれ違う種類のクラゲが数匹ずついる。左側がミズクラゲで右がギヤマンクラゲであることも、自分で調べて知った。ミズクラゲはなんだか愛嬌のある風貌でいかにも平和そうに水中を漂っているし、ギヤマンクラゲはその名の通り、繊細なフォルムで優雅に浮遊している。

 しかし、クラゲがプランクトンであることは、高梨くんに教えられた。

「えっ、こんなに大きいのに?プランクトンって顕微鏡で見るやつじゃないの?」

「大きさは関係ないよ。水中で浮遊生活している生物をプランクトンっていうんだ」

「へえ、そうなんだ」

「クラゲは自分の意志でどこかに泳いでいくことはないし、水の流れに任せて浮遊しているだけだから」

「なんだか自立性がないね」

「俺も似たようなもんだな。お袋が死んで、その後のゴタゴタもあって気が滅入って会社辞めて、クラゲ飼い始めて、叔父さんに今の仕事紹介されて……。でも、周りの人間や起こっていることに流されて気がつい

たらそこにいたみたいな事って、誰しもあるんじゃない?」

「そういう成り行きを悲観する?」

「全然。むしろ自然じゃない?抗おうとする方が辛いんじゃないかな。それに今の仕事は気に入っているし、アユミさんとも会えたわけだし」

 ドキッとしたのは、初めて名前を呼ばれたこともあるが、その文脈も聞き捨てならないものがあったからだ。


 この一年、実はかなりヘビーだったのだと高梨くんは漏らした。誰かを捕まえて身の上話をするようなたちでもないし、自分から話を切り出すのも苦手だし。でも、自分から話すのが苦手でも、聞かれたことには素直に答えるのが高梨くんの流儀だ。それで私が少しずついろいろ聞くので、話していくうちに気持ちが楽になったのだという。だから、感謝してるんだとも高梨くんは言った。


 最近、暗くなるのが早くなっただけでなく、高梨邸の滞在時間が長くなっている。以前より二人の会話も増えたような気がする。私も高梨くんと過ごす時間は心地よかったのだ。そんな時間が増えるのも自然な成り行きなんだろうか。いっしょにいると心が落ち着くのは、高梨くんもクラゲもいっしょだ。やっぱり「クラゲみたい」は褒め言葉だったんだ。


「山形にさ」と、高梨くんが唐突に言う。

「クラゲの水族館があるんだ」

「へえー」

「今度の連休に行こうと思うんだけど、よかったらいっしょに行かない?」

 例によって素っ気ない口ぶりだったけれど、これまでには考えられない意想外の申し出だった。

「いいよ」

 高梨くんに倣って、私はためらうことなく素直にそう答えた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 高橋くんのキャラクター性が愛しく感じる。 おせっかいオバサン(年齢ついて言及されてないが)こと絢子さんも愛すべきキャラクター性。 台詞が必要最低限で読みやすかったです。 さくさく話が進ん…
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