そうして僕らの夏は終わる
ライトなノベル界の鉄拳(?)を目指しております。
文学フリマに遅刻作品(涙)
いらっしゃいませ。ここは管理人『掌』の書いた小説を集めたサイトです。
根気のない管理人は掌編しか書けませんが、皆様の感想を糧に精進したいと思っております。
管理人が厳選した(つもりの)この夏お薦めの三篇を用意させていただきました。
暇つぶしになった、涙腺の掃除にはなった、安っぽいホームドラマだった、何でも結構でございます。
メールで感想などいただければ大変喜びます。お時間の無い方は左下の『拍手』をぽちっとな。
それでは、よろしくお願いいたします。
一. 金曜日はカレーライス
ボクはいらない子供。
泣かない子供が涙を流す時……。
二. 月に吼える
キスしたことある?
蒼い月の下、幼馴染が言った……。
三. リアルな俺と親父のリアル
俺の家にやってきた変なおっさん。
お袋のやつ、再婚するつもりなんだ。
一. 金曜日はカレーライス
「小鉄、おいで」
達也の声に、わん、と一吠え、白い固まりが跳ねた。達也は小学三年生。飼犬の小鉄と家出中である。
タイガースのマーク入りの野球帽、生成のタンクトップにブルーのハーフパンツ。背中のリュックが達也の動きに合わせて上下する。
小鉄は白の柴で、でも血統書なんてないミックス犬だ。少年と犬の組み合わせは、夏休みに入った街ではありふれた光景といえた。
太陽が真上にきて、達也は空腹を覚えた。逃げるように歩き続けてきたから、市街地に入りほっとしたせいもあるだろう。
達也は建物の日陰を探して座り込んだ。小鉄が傍で丸くなる。帽子を取り、汗を手の甲でぐいっと拭い、背中のリュックからアルミホイルに包まれたサンドイッチと、水のペットボトルを取り出した。サンドイッチは奈央子さんが今朝作ってくれたもので、それを見た途端、達也は今まで考えまいとしていた家のことを思い出してしまった。
「でも、ダメなんだ」
言い聞かせるように呟いた。
奈央子さんは、本当のお母さんじゃないから。良太郎さんも、本当のお父さんじゃないから。
汗とも涙ともつかない滴が頬を伝う。
達也は一年前、児童施設から朝倉良太郎・奈央子夫婦の養子として引き取られて来た。
小鉄は、達也が来て間もなく朝倉家へとやってきた。口数の少ない達也の遊び相手となるために。
「小鉄、お腹空いたろ? たくさん歩いたからね。ちょっと待ってね」
達也はリュックから小鉄のえさ入れを取り出してペットボトルから水を注ぎ、小鉄の前に置いた。
小鉄がムクリと起き上がり、ぴちゃぴちゃと音を立てて水を飲み始める。それを見て達也もペットボトルから水を飲んだ。そしてアルミホイルを広げて、サンドイッチを小鉄と半分に分けて食べた。
建物の間を縫って一陣の風が吹き抜けた。
風に頬を撫でられて、達也は奈央子さんの長い髪を思い出した。こんなふうに風が吹くと髪がなびいて、いい香りがした。
奈央子は午前中のみのパートに出ているが、金曜日だけは夕方まで帰ってこない。
達也は奈央子の帰りが遅くなる日を待って家を出てきた。今日はその金曜日。金曜日は、こうやってお昼を用意してくれていた。
サンドイッチを食べながら、もう一緒に食事をすることはないのだと思うと小さな胸は悲しみでいっぱいになった。
でも、と達也は思った。
秋には新しい家族が増えるんだ。自分がいてはいけないのだ。
奈央子さんに赤ちゃんができたらしい。
それを知った時、達也はさびしいというよりもお兄ちゃんになるという喜びのほうが強かった。けれど、二人は何故かきちんと話してくれない。
ボクは邪魔なのかな。いないほうがいいのかな。そう考えた。それを認めることはとても苦しいことだった。
でも、がまんしなきゃ。ふたりともボクにやさしくしてくれたから。そう、思った。
思ったけれど家を出る決心は中々つかなくて、ぐずぐずしていた。
だが昨夜、二人が話しているのを達也は聞いてしまったのだ。
――子供二人は経済的に厳しいなあ――
――大丈夫よ、何とかなるって――
長い間、朝倉夫婦は子供に恵まれなかった。
それで達也を施設から引き取ったのだ。
朝倉家へ来る前に引き取られた家でも、達也が来るとすぐに赤ん坊ができた。それまで達也を猫可愛がりしていた養親は、達也に見向きもしなくなり、正式な養子縁組をしていなくてよかったとさえ言われた。そして物を返すように施設へと戻されたのだった。
ずいぶんと小さな時の記憶なのに、今でも思い出す度に胸が痛んだ。
それからだ。達也が感情を表に出さない子供になってしまったのは。涙を見せない子供になってしまったのは。嬉しいことも悲しいことも自分の脇を素通りして行く。
そう決めつけることで自分を守ろうとした。
でも、朝倉の家は変わった家だった。跡取りとしての子供ではなく、純粋に『子供』を欲しがって達也を選んでくれたから。
くすりと、あどけない笑みが達也の顔に浮かぶ。小鉄の耳がぴくっと動いた。
介護施設で働いている良太郎さんは、お腹周りをちょっぴり気にする、陽気で楽しい人だったし、奈央子さんは歯科衛生士のくせにお菓子が大好きな少女みたいな人だった。
ボクが来て、嬉しいと言ってくれた。みんなで食べるご飯がおいしいって。キャッチボールや水泳やキャンプに魚釣り。いろんなこと、教えてくれた。
ね、小鉄、と達也は小鉄に話しかける。
参観日の前なんて大騒動なんだ。
『良ちゃん、参観日だって。私、どうしよう。何着て行こうかな』
『ばーか。奈央のことなんて誰も見てねえよ。俺も行きたいぞ、参観日。あちゃあ、何で水曜日! 有休もらう、絶対』
良太郎さんは着なれないスーツ着て、ネクタイ締めて、汗いっぱいかいて。奈央子さんは水色のワンピース着て。きれいなお母さんだねって、隣の席の子が言ったんだ。
もう、会えないけど……
達也は、ぎらぎら照りつける太陽を振り仰いだ。分厚い入道雲がもこもこと空を覆い、蒸し暑い午後だ。施設の住所は年賀状で調べておいた。小鉄がいるからバスには乗れない。達也はこっそりと地図で施設までの道を確かめ、何度も何度も頭の中でなぞってみた。そして奈央子がパートに出るとすぐ、サンドイッチをリュックに入れ、小鉄を連れて家を出たのだ。
頑張ろう、小鉄。ボクたちの帰るところは、あそこしかないからね。達也は小鉄の頭を撫でる。小鉄は喉を鳴らして応えた。
小鉄、良太郎さんはボクにこう言ったんだ。
『達也。無理せずに、いこうや。俺たちは初めて親なんてものになるし、達也も俺たちの初めての子供になるんだろ? な、だからお父さん、お母さんなんて無理して呼ばなくていい。形なんてものは後からついてくる』
ボク、いい人にもらわれてよかったと思ってる。だから、奈央子さんに赤ちゃんができて、ボクに遠慮している二人を見ているのはとってもつらいんだ。小鉄はわかるよね?
わん、と小鉄が勢いよく吠えた。
さ、行こうと、達也は立ち上がった。
小鉄を連れて来ちゃったこと、良太郎さんは怒るかな。
でも、いいよね。
だって、ボク、一人では、さびしいよ。
とっても、さびしいよ。
施設では、何を考えているのかわからない子だと言われた。子供たちを見にきた里親からは強情そうな子だと言われた。
普通はもっと年齢の低い子供を欲しがるのに。良太郎さんはボクなんかの一体どこがよかったんだろう。
小鉄はわかる? しかし、小鉄は達也を見上げて尻尾を振るだけだ。
達也はどきどきしていた。
ずっと歩いているのに、暗記しておいた町名にたどり着けないからだ。
おかしいな。道を間違えちゃったのかな。
歩く速度がどんどん落ちていく。
小鉄も不安げに達也を見上げてくる。
ついに横断歩道の手前で立ち止まってしまった。小鉄が脇にちょこんと控える。
何度も何度も、信号は赤になったり青になったりした。それでも達也は動けなかった。
いつのまにかあたりは夜でもないのに薄暗くなり、風はうわん、うわんとうねって街路樹の葉を揺らし、容赦なく吹き付けてくる。
リードを握る手が震えた。
息も出来ないくらい湿気を含んで厚くなった風の壁は、ただでさえ折れそうな気持ちをますますなぶって大声をあげて泣きたくなる。
奈央子さんの優しい手を思った。たっちゃん、ほら、と言って達也のほっぺたについたご飯粒を取ってくれる。甘い卵焼きをねだれば作ってくれる、柔らかくて優しい手。
小鉄! ボク、帰りたいよ。
リードを引き寄せて、達也は小鉄を抱き締めた。
良太郎さんのゴツゴツした大きな手を思った。男同士、裸の付き合いだと言って一緒にお風呂に入りたがった。湯船でタオルを使って風船を作ったり、シャンプーでソフトクリームを作ったり、遊んでばっかりいるんだ。
でも、とっても、楽しかったよ、ボク。
小鉄にしがみつく達也を、小鉄はぺろぺろと舐めた。ぼくがいるよと言わんばかりに。
その時だった。
頭の上から声が降ってきた。
「どうした、坊」
顔を上げると知らない男の人が達也をのぞきこんでいる。
「迷子か?」
「……」
「連れて行ってあげるよ。どこまで行くんだい?」
それを聞いて達也はぴしっと背筋を伸ばした。人の良さそうな顔をして。良太郎さんみたいな少し垂れ気味の目尻も愛嬌があるのに。
ついて行っちゃダメだ。本能的にそう思った。
「迷子じゃありません」
言い捨てると小鉄のリードを引いてあてずっぽうに歩き始めた。知らない男の人は達也の前に出て通せんぼをするので、仕方なく路地を曲がる。こんどは後をついてくる。
「困ってるようじゃないか。おじさんが送ってあげるよ」
男はそれからも通せんぼをしたり横に並んで話しかけてきたりする。
ついに達也は全速力で走り始めた。
誘拐犯だ、あいつ。
けれど男はもう追いかけてはこなかった。
走りながらちらりと後を見ると、男は立ち止まってニコニコしながら手を振っている。
変なおじさん。
あれじゃあ、まるで見送ってくれているみたいだ。そして二回目に振り返った時には男の姿は消えていた。
しばらくして達也は走るのをやめた。目に入った住宅表示が目指す町名だったから。
雨がぽつぽつとアスファルトにシミをつけ始めるころ、施設の建物が小さく見えてきた。
小鉄と寄り添うように歩いていた達也だったが、きりっとリードを持ち直すと胸を張って風の中を歩き始めた。
ボクはいらない子なんかじゃない、ボクがあんな家いらないって出てきたんだ。
そうなんだ。だから、ボクは堂々としていればいいんだ。そう考えて。
施設の建物が大きく見えてくるにつれて、門扉の前に一人の男が立っているのに達也は気付いた。達也を睨んで、立っている。
風で髪が逆立ち、仁王様のように見える。
良太郎さんだった。達也は回れ右をして今来た道を引き返したかったが、小鉄は大喜びで良太郎さんへと突進して行く。
小鉄に引っ張られた達也が良太郎さんの目の前に立つのと、達也の頬が鳴るのとは同時だった。
頬を打たれた衝撃で尻もちをついた達也を抱き起こすと、良太郎さんはその小さな肩にむしゃぶりついたまま大きな声で泣き始めた。
おうおうおうと、辺り憚ることなく。
でっかい熊が泣いているようだと達也は思った。
通行人が足を止め、施設の人たちも出てきて何事かと集まってくる。
良太郎さんの涙と密着した体が熱い。頬に擦りつけられた固いごわごわした髪の毛が痛い。きつく握りしめられた体が苦しい。
でも、どうしてだろう、きもちいいな。
恥ずかしいような、もったいないような、くすぐったいような妙な気持ちになり、悲しかったことや悔しかったことや我慢して言い出せなかったいろんな思いが嵐の速さで達也の心を通り過ぎて行った。
その後から、温かいものが静かに達也の中へと流れ込んできた。
うっとりとするほど懐かしい、抱擁にも似たそれは空っぽになった達也をゆっくりと満たしていく。
ボク、話したいことがいっぱいあるんだよ。
そう達也は思った。
どうやって歩いて来たかとか、どんな計画をたてて家出をしたかとか、あの変なおじさんのこととか。もう少しで誘拐されるところだったんだから。
いっぱい話したいことがあるんだよ。
達也は、良太郎さんのシャツの袖をぎゅっと握りしめた。
家へと帰る車の中で、良太郎さんは
「遠出をしたら道に迷ってしまったということにする」と、達也に言った。
「うん」
と、達也は神妙に頷いた。
「うおっ、降ってきたぞ」
フロントガラスにバチバチと音を立てて、大粒の雨が落ちてきた。
「それに」
と、良太郎さんも神妙な顔になる。
「今日は金曜日だから、カレーライスの日だ。奈央子のカレー、好きだろ、達也」
「……、お父さんも好きだよね、……お母さんのカレー」
「うん好きだ、大好きだ」
そう言うと、良太郎さんはでっかい手で目をガシガシと擦り、達也の頭をぐりぐりと撫で回した。
小鉄が、わん、わんと吠えながら座席の間を跳ねまわる。
ワイパーがグイン、グインと喜びの唸りを上げて忙しく雨を絡め取り、カレーを作って二人を待つ人の元へとボロ車は疾走していく。
良太郎さんはずるいや、と達也は思った。
あんなに手放しで泣かれたら達也が泣けないからだ。
達也は窓ガラスに額を付けて外を見た。
でもボクは泣いたりなんかしないと達也は思った。
だが、すぐに視界はぐにゃりと歪んで景色がぼやけ、そのまま横殴りの雨の中へとシンクロしていった。
二. 月に吼える
親というものは有難いがうっとうしい。
オレは、担任の先生と並んで前を歩く親父の背中を見ながらそう思った。
「お兄さんは弁護士ですか。ご立派ですなあ。朝倉君も、もう少しやる気を出してくれればなあと思っているんです。やればできるんですから」
この手の話は何度も聞かされて、オレの耳にはタコやら何やらがたくさんひっついている。
九つも年の離れた兄貴は両親にとっては自慢の息子だったが、オレにとっては煙たい存在だった。いつも冷静で、やることなすこと完璧だったから。何をさせても中途半端なオレとは対照的だったから。
オレ、朝倉 葉月。中学三年。本当は秋に生まれるはずが二か月も早くこの世に出てきたせっかちなやつ。
八月生まれだから葉月。よかったぜ。十月なら『かんな』になってたところだ。
そんなくだらないことを考えていたら、親父が振り向いた。ついでに拳固をくらった。
「好きにしろと言ったが進学しないとはどういうことだ、お母さんに心配かけるんじゃない。先生の手を煩わすな、馬鹿者」
「一度にたくさん言うなよ、父さん」
進路希望調査の紙に就職と書いて出したのがそんなに悪いのか。悪かったんだろうなと、オレはうそぶく。だからこうして父親が学校に呼ばれている。
オレは開襟シャツのボタンを一つはずして、胸元を開け、再提出と渡された用紙を畳んでパタパタと扇いだ。
今日の夕飯の時に家族会議だ、きっと。
兄貴が、親父が、お袋が、オレを責めるんだ。もう、うんざりだ。
蝉はミンミンうるさいし、暑いし、勝手に受験生なんてものにされてるし。
出来の良い兄貴がいればいいじゃないか。オレのことなんて放っとけよ、と親父に聞こえないようにその背中に悪態をついた。
オレはスニーカーの先っぽで小石を蹴とばした。面白くない。全くもって面白くない。
夏休み前の悪ふざけが災いして、進学塾の夏期講習へと放り込まれたのだ。
歩道の上を乾いた音を立てて、小石は転がっていく。隣を歩くミドリがちらりとオレに目をやり口を尖がらせた。
兄貴の卒業した高校を受験する。心を入れ替えて勉強する。宗教のお題目みたいに繰り返すオレの言葉を逆手にとって父親がセッティングしたのだ。ミドリという監視もつけて。
ミドリとは幼稚園からの付き合いで、いわゆる幼馴染というやつだ。あまりに近過ぎて、あまりに知り過ぎた相手であり、恋愛の対象はおろか、こうして仲良く夏期講習に通うはめになろうとは考えたこともなかった。
「ねえ、はぁくん」
ミドリが少し上からオレに言う。ほんのちょびっとばかし、ミドリの方が背が高いんだ。 子供の時の呼び方を嫌ってオレは早足になったが、ミドリはゆったりと追いつくと、しゃあしゃあと言ってのけた。
「今日で講習も終わりだね。買い物に行くから付き合ってね!」
「勝手に予定を組むなよ。やっと終わったんだぜ。家に帰るわ、オレ。トルネコとデートの約束があるからさ」
「何それ、誰それ。どうせ二次元のひとでしょ。いつまでも子供ねっ。わかった。私ひとりで行くから。きっと不良に絡まれたりするんだから。ヘンなおじさんに捕まって香港に売り飛ばされても知らないからねっ。葉月は後悔すればいい。何でひとりで行かせたかなって」
「不良だって相手選ぶぞ! それに海外旅行は燃油サーチャージで割高、って、こらぁ、人の話は最後まで聞け」
だがミドリはオレを無視して背中をみせた。
そして迷いもせずに歩いて行く。
そのほっそりとした後姿を見ていたら、オレは子供の頃を思い出した。男の子とも平気でチャンバラごっこをし、草野球をし、自転車で遠出した。膝小僧は傷だらけだったな。 好奇心が旺盛なくせに怖がりで、オレより身長が高いことを鼻にかけ大人ぶる幼馴染。
はあっと、溜息をひとつ。オレはミドリの後を追いかけた。
夏期講習が終わって一週間ほど経った夜のことだ。ミドリはオレの家へ回覧板を持ってきて、そのまま二階のオレの部屋へと上がってきた。
「勉強してたんだ」
「一応」
今日も一日暑かったねと、ミドリは近所のおばさんみたいなことを言う。オレも『夏だからな』などと至極当たりさわりのない返答をする。この好奇心の固まりは何か良からぬことを企んでいるに違いないと思ったからだ。
案の定、去年まで騒いでいた高校野球に話を振ってみたがミドリは乗ってこない。
「みんなでお祭りに行こうって話してるんだけど、葉月も来るよね。鳥居の前に七時集合だよ。私、浴衣着るんだ」
「へー、そう」
「葉月と私以外はみんなカップルなんだよ」「へー、そう」
「中学最後の夏なんだよ」
「あー、そう」
ミドリのポニーテールがいやいやをするように揺れる。
「へー、へーって、ほんっと、葉月って子供だねっ」
「何だよ、子供、子供って。中学最後の夏だから何だってんだ? カップルにならないとタタリでもあるのか? カップルにならないと浅間山が噴火でもするのか? お前、携帯小説の読み過ぎ。自重しろ、自重」
「へー、へー。大人な人は言うことが違うんですね。何よ、チビ」
「五ミリしか違わねえ。何しに来たんだ、お前」
言ってからオレの胸は少しドキドキし始めた。ミドリの苛立ちというか、オレに求めるものというか、願望というか、そんなものがアウトラインステッチのように何となくわかってきたからだった。
冷房嫌いのオレの部屋は窓が大きく開け放してあり、昇ったばかりの半月から蒼白い光が射し込んでいる。月の光に照らされたミドリの顔は水底で眠っているように白い。
オレは自分が息を止めていることに気付いた。ちいちいとどこかで虫の声がする。
ミドリが大きな瞳を向けてきた。
葉月、と唇が動いた。
オレはミドリの唇ばかりを見ている。
……、ある?
葉月はキスしたことある?
……。
これは実験よ。好きとかじゃないの。
うん実験。
そう。実験。わかった?
わかった。
オレはミドリの唇に操られたように、ふらふらとミドリの前に立った。
やっぱ、背、低い。
関係ねーじゃん、そんなこと。
きっと魔法の国では背が高くて、イケメンで優しくて情熱的で、リアルでは絶対ありえないようなミドリだけの王子様がキスをしてくれるのだろう。
だけどオレはそうじゃない。
早く済ませようと勢いのまま顔を近づけたら、見当が外れてミドリの鼻とオレの前歯がぶつかった。
難しいもんだと思わず独り言が漏れそうになる。ほらな。何やらせてもまともにできた試しがない。劣等感の固まりなんだ。
だけど、今だけは王子様になってやらなきゃ、と思う。
真面目にやろう、ミドリのために。
オレは息を吸い込んだ。
今度はきちんと向い合って立ち、オレは腕を伸ばすとミドリの肩をつかんだ。
ゆっくりと顔を寄せて行く。
果実の甘い香りがした。
ミドリの肩をつかむ指に力が入り、柔らかいものがオレの唇に触れた。
だが、その感触を楽しむ間もなくオレは突き飛ばされた。
ぽろんと涙がミドリの目からこぼれる。
刹那、ミドリの手が翻ってオレの頬が鳴った。
「痛えっ!」
そして頬を押さえたオレをおいて、バタバタとミドリは物凄い勢いで階段を下りて行ってしまった。
ぽかんとしていると、ガタン、バタンと玄関ドアを乱暴に開け閉めする音がして、それから血相を変えた親父がオレの部屋へ飛び込んできた。
「ミドリちゃん、泣いてたぞ。葉月っ! 何したんだ。返答によっては許さんぞ!」
「あ、え、あの、その」
しどろもどろになりながら、オレは『ちょっとした悪ふざけ』と答えた。
「バカ野郎!」
大声で怒鳴ると親父はオレを力任せに殴った。鈍い音がして体が吹っ飛び、クズカゴやら、扇風機やらが派手な音と共に転がった。
口の中に鉄の味が広がってくる。
「ミドリが、ミドリが……、く、そ……バカ親父! 何も知らねえくせにっ」
オレはミドリと同じように階段を駆け下りると自転車を引き出し、夜の街へと走り出した。
汗が滴り落ちて、Tシャツが背中にはりつく。国道をひたすら東へと走った。
小さな駅を見つけオレは自転車を止めた。全身汗とほこりで気持ちが悪い。膝はがくがくして尻はサドルの固さに負けて皮が剥けたようだった。トイレの水道で顔と手を洗うと、手の平もマメができてつぶれており、水がじんじん浸みる。
ひょこひょこと自転車に戻り、月を仰いで、これからどうしようと思った。
携帯も財布も持って来なかった。家は今頃大騒動になっているだろう。
「おい、坊」
突然、足元から声がしてオレは飛び上がった。
「そんなに驚かんでもいいだろ」
ホームレスとおぼしきオッサンは地面に段ボールを敷いて寝っ転がっているのだった。
「こんな辺鄙な田舎に家出とは風流だな」
オッサンは自分の隣のスペースをぱんぱんと叩いてオレを誘う。来いというのだ。
ガニ股のへっぴり腰でオレが段ボールの端に座ると、オッサンは満足気に目を細めた。
もともと垂れ気味の目がさらに下がってきた。さっきオレを殴った親父に似てなくもない。
「家出は夏に限る。冬はやめたほうがいい。とにかく寒い。里心がつく」
オレもオッサンの真似をして段ボールに寝っ転がると夜空を見上げた。南の空から頭上を通り天の川、夏の大三角が広がる。
「おい、坊。高校生か?」
「中学です。三年、です」
「ほうほう。勉強しろと言われて親とケンカでもしたか」
言われてオレはそもそもこんな所にいる原因に思いを馳せた。
「人間関係の軋轢です」
オッサンはそれを聞くとひゃあひゃあと喉を鳴らして笑った。
「それは御苦労なことだな。酒を一献、といきたいところだがそうもいかない」
そう言うとオッサンは段ボールの上に座り直してズボンをごそごそ探ると何かを掴み出した。
「どうせ何も持たずに家を出てきたんだろ?」
オッサンの手の平には十円玉や五円玉の硬貨が十数枚乗っていた。駅舎から漏れてくる常夜灯の淡い明かりの中で、硬貨は恥ずかしそうに身を寄せている。
「帰る家があるというのなら、そこへお帰り。心配してくれる人は大事にな」
オッサンに借りた金でオレは、駅の公衆電話から兄貴の携帯に連絡した。もっともらしい理由は、兄貴の車が四輪駆動車で自転車を積んで帰れるからというのがあったが、本当の所は一番声を掛けやすい相手だったからだ。
なぜなら、兄貴はオレから一番遠い所にいる人だったから。
「兄貴、こっち、こっち。あれ?」
「葉月、金を貸してくれた人は? お礼ぐらい言わないと」
「さっきまでそこにいたのに。どこ行っちゃったんだろ。おじさーん、おじさーん」
オッサンはどこに行ってしまったのか。二人であたりを探してみたが姿がなくなっていた。
「これ、ムダになったな」
兄貴は笑いながら缶ビールをワンカートン、ぶら下げて見せた。こんな気配りすらオレには癪に障る。兄貴は笑いながらぽろりと言う。
「盆に帰ってきた仏様かもしれないな」
「弁護士のくせにオカルト信じてるわけ?」
「まあな。そのおじさんて親父みたいな垂れ目じゃなかったか?」
「そうそう、笑うと余計に目尻が下がる」
「やっぱり」
「やっぱりってなんだよ。兄貴も見たの? そのオバケ」
「ずーっと小さい頃にな。そっか、葉月も会ったんだ」
帰りの車の中で兄貴が呟いた。
「ミドリちゃんは葉月が好きなのかな」
「違うだろ」
「じゃあなんで、あんなこと頼んだんだろ」
「一番手近だったからじゃねえの?」
「手近……、わからんなあ」
オレは思わず兄貴の顔を見た。
「兄貴もわからないワケ?」
「さっぱり、わからん」
オレは少しばかり嬉しくなってきた。
「兄貴でもわからないこと、あるんだ」
「わからないことだらけだよ」
そして二人で同時に言った。
「女心は特に」
うひゃひゃひゃと、オレと兄貴はバカ笑いをし、顔を見合わせまた笑って、今度は口々に叫んだ。アホみたいに、でっかい声で。
「わかんねええぇぇぇ」
「誰か教えろおおおお」
何度も何度も、オレたちは叫び、大笑いした。
フロントガラスの遥か先で、半月がクシャリと苦笑いしたように見えた。
三. リアルな俺と親父のリアル
夏といえばオバケだけど、達也は会ったことあるか? オバケに。
怖いかって? 怖くなんかないさ。父さんが会ったのは親父のオバケだったから。つまり、達也と葉月のおじいちゃんだ。父さん垂れ目だろ? それって親父そっくりなんだ。古ぼけた写真じゃあんまりよくわからなかったけど。達也、寝ちまったのか? 無理もないな。今日はプールへ行って思いっきり遊んだもんな。そうか、寝ちまったか。
夏になるとさ、思い出すことがあるんだ。
俺は眠っている赤ん坊の葉月をひざに乗せ、同じように俺にもたれて眠ってしまった達也の体を抱きしめた。
「やあ、こんにちは、良太郎くん」
西日の中でにこにこして立っていたのは、知らないおっさんだった。
「まにあってます」
俺が玄関ドアを閉めようとしたら、おっさんは慌てて靴をねじ込んできた。
「新聞の勧誘じゃないってば」
俺はおっさんの靴をゲシゲシと蹴飛ばしながら言った。
「じゃ、マルサだな。ウチは母子家庭だけど所得税も住民税もきっちり払ってますからご心配なく」
「僕はキミのお父さんだよ!」
「親父は十五年前に他界しております。寝言は寝て言え。それでは、ごきげんよう」
「静さんがキミのこと心配して元気ないからさ。静さんには早く良くなって欲しいし。で、僕の出番、あーっ、良太郎くーん、ドア開けてー」
お袋は看護師だ。こともあろうに勤める病院の階段でずっこけて背骨を圧迫骨折してしまったのは一週間前のことだった。看護師長として勤めている病院に入院している。たまには患者さんの立場になってみないと良い医療はできないからね。そう言って。
「粗茶ですが」
俺は近所のパチンコ屋が開業祝いに配った大きな湯呑をおっさんの前に置いた。
「きれいにしているんだね」
おっさんはぐるりと部屋の中を見回して言う。俺はキッとおっさんを睨んで言った。
「無駄! なものは置きたくないもので」
「ははっ、キツイね」
皮肉はわかるようだ。
「それと冗談も嫌いです」
おっさんは途端に不安そうな顔になった。
「良太郎くん、静さんから聞いてない?」
「静さんが俺のお袋であるならば聞いておりませんが、それが何か」
「僕は怪しいものじゃない」
「怪しい人は皆さんそう仰います」
「いや、困ったな」
困ることは何もない。あんたがさっさと出て行けば。
おっさんは頭をポリポリ掻くと情けなさそうに呟いた。
「でも僕は静さんが大好きなんだ」
どきり、と胸が震えた。
「夕飯の前に風呂に入りたいなあ」
「どうぞご自分の家で」
「おおー、今日は肉ジャガかあ。甘めにしてね。焼き鳥の缶詰を使うとまた違うおいしさがあるから。今度試してみてよ」
おっさんは晩飯の支度をする俺のそばから離れようとしない。
そして色々と聞いてくる。
「ねえねえ、良太郎くん。彼女いる?」
「個人情報ですので、ピーです」
「そーかー、悪いこと聞いちゃったね、許してよ」
「おい、こら! 残念な人みたいに言うな」
「僕と静さんは、僕がバイクで転んで足の骨を折って入院した病院で知り合ったのさ。静さんは美人で優しくて。すっごい人気者だったんだ。まあ、僕のものになったけどね」
何気に自慢になってませんか。
「良太郎くんはあんまり静さんに似てないですねえ。お父さん似かな?」
「そんなことより、まだ帰らないのかよ、あんた」
静さんと約束したからねっと、おっさんはやっぱりにこにこして言った。
少し垂れ気味の目元は愛嬌がある。だが、愛嬌なら俺だって負けているとは思えない。 そうこうするうち、茄子の煮びたし、冷奴、肉じゃがが食卓に並び、いただきますと俺は手を合わせた。おっさんが悲愴な声を上げる。
「良太郎くーーーん、僕もお腹空いてんだけどなあ。はっきりしてるねー、きみ」
風呂から出て、食卓の上にコーラを見つけ、俺は少し幸せな気分になった。おっさんの誠意らしい。
あのあと冷ごはんでおっさんに炒飯を作ってやったら、物凄い勢いで食っていた。こんなにうまい炒飯は初めてだと言って。
お世辞だろうけど、おっさんの口は本当に『うまい、うまい』って言っているようだった。だから、一番風呂を譲ってやったんだ。 でも、おっさんはいったいどこへ行ってしまったんだろう。バスタオルで頭を拭きながら、俺はおっさんを探した。
おっさんは濡れ縁に座ってビールを飲んでいた。貸してやった俺のスウェットがダブダブで笑える。
「コーラ、ありがとうございます」
「僕の方こそ。ほら、良太郎くん、花火を買ってきたんだ。今日は送り火だろう? やらないか」
すっかり忘れていた。ごそごそと下駄をつっかけると、おっさんは狭い庭へ下りた。
「はい、ここ持って」
「線香花火ですか。お袋が好きなんだな」
最後の火玉がじゅんと音を立てて落ちるまで、揺らさないよう一心に握っているんだ。
だってね、火玉が落ちるまでに、五回、お願いを言うことができたらかなうんだって。
「そう言ってました」
「静さんらしい」
おっさんは柔らかく微笑した。
「良太郎くんなら、何を願う?」
「俺ですか? やっぱり受験のことかな。浪人なんてできないんで。それに国立しか受けれないから、背水の陣です」
「それじゃ二人で合格祈願をしようじゃないか」
濡れ縁に蚊遣りを置いて、俺とおっさんは線香花火に夢中になった。
大学に合格しますように。
お袋が早く良くなりますように。
俺に彼女ができますように。
宝くじが当たりますように。
家族みんなが健康で仲良く過ごせますように。
庭の夾竹桃や百日紅のピンクの花の色がかすむほど煙が漂い、火薬の匂いが立ち込めた。
おっさんは一本の缶ビールで上機嫌になり、俺は受験の苦しさを一時忘れてはしゃいだ。
「ちょっと顔を洗ってきます。煙で目が痛くて」
俺が立ち上がると、おっさんは良太郎くん、と俺を呼び止めた。
「今日は楽しかった。炒飯もうまかった。ありがとう」
「また、来てくださいよ」
「わかった、わかった」
そう言って、おっさんはとびきりの笑顔を見せた。
「親父だったんだ、そのおっさん」
俺は眠っている二人に話しかけた。
全く、オバケになっても怖くないって、どういうオバケだ?
顔を洗って戻ってきたら、親父はいなかった。俺は親父のことなんか覚えてない。たった三つで死に別れたもんな。思い出がないかわりに悲しみもなかった。
でもな、胸が苦しいんだ。
何でパチンコ屋の湯呑、出しちまったかなあ。
何で肉ジャガ、食わせてやらなかったかなあ。
何で。
何で、気付かなかったんだろうって。
親父は俺のこと心配して来てくれたのに。
お袋のこと心配して来てくれたのに。
何で気が付かなかったんだろうって。
親父、とっても悲しかったんじゃないかって。さびしかったんじゃないかって。
悪いこと、したなって。ずっと後悔してきた。
ずっと謝りたいって思ってきた。
だから、夏になると蚊遣りを置いて、線香花火をする。
かすんだ煙の向こうに、垂れ目の笑顔を見つけたくて。
管理人プロフ
名前 掌八月十四日生まれ。B型。本名は生まれ月の異名。十六歳。高校一年。
好きな季節 夏
好きな食べ物 レンコンの天ぷら、焼肉、カレー
好きなこと 野球、ぼーっとする
大切なもの 友達、家族
根拠はないけれど信じている言葉
人生に無駄なものはない。