鏡
情景を詩にしたものをベースにした掌小説です。※ちよくちょく、改稿するかもしれません。
私は笑うと八重歯が出る。
小さい時はそれが、オトナには愛嬌に映ったのか、よく可愛がられたものだ。
彼氏にも君は笑うと八重歯が出てお茶目でかわいいと言われた。そんな事をふとした瞬間に、言われるものだから私はあたふたとして、「え?え?そんなことないよ」と言うのだが、内心、頭に血がのぼって今にも倒れてしまうんじゃないかと思った。そんな私だから最終的にはただ黙って俯くしか出来なかった。そんな私の頭を彼はただ優しく撫ででくれて、ようやく頭で煮えたぎっていた血が心臓に戻って冷静になる。そして、さめざめと思うのだ。私はやっぱり、カレが好きだと。
そして、今日、私は彼氏に振られた。
「ごめん、他に好きな娘が出来た」と。
とてもシンプルな言葉で、困ったような顔でカレは私にそう告げた。
だからこそ余計に何も言えなくなった。
恨みとか罵倒とか、そんな類いの言葉を言われる事も、カレはもう受け入れているのだ。
だからこそ余計に何も言えなくなる。
私は「そっかじゃあ、仕方ないよね」とただ笑って応えるしかない。
八重歯、ちゃんと出てるかな?
カレが好きだと、可愛いと褒めてくれた笑顔が出来てるだろうか?
別れる。
そんな間際になっても私はまだカレに好きでいてもらいたいのだ。
家に帰ると、私はすぐに洗面所に駆け込んだ。湯温を熱湯に設定して、蛇口を限界まで捻った。私は何度も何度も嘔吐した。
ようやく、嘔吐感が収まって、ふと鏡を見ると、そこには私がいた。無理矢理にでも笑ってみる。彼が好きだと言ってくれた笑顔。
愛敬があると、カレが誉めてくれた八重歯。
そうしている間にも蛇口から流れる熱湯からは湯気が出ていて、洗面所中に立ち込めていた。お湯を受けていた洗面器はすでに満杯となり、お湯はドンドンと溢れ出す。
モクモクと洗面所全体が、湯気に包まれている。
鏡ももう完全に曇ってしまっていて、ボンヤリとした輪郭すら映さない。
今私はどんな顔をしているのだろう?
笑っているのだろうか?
上手く笑えているのだろうか?
私は倒れこむように洗面所の床に座り込んだ。ザァザァと蛇口からお湯が流れている。
洗面所のドアの向うから母の声が聴こえる。
きっと「水道流しっぱなしにしないで。勿体無いでしょ」とかそんな類の叱咤。わたしは「は〜い」と生返事をした。
でも、今しばらくはこうやって流れる音に紛れていたい。
あしたは上手く笑える様に。
読んで下さり、ありがとうございました。