四章
夜も更けた頃、由羅は忉利寺の一番上の屋根に座ったままいつの間にか深い眠りについていた。その眠りの中で過去の夢を見ていた。真っ暗闇の中に一人で立つ幼い頃の自分の姿。その姿を見つめる今の自分がいた。幼い頃の自分の目はただぼーっと一点を見つめていた。今の自分が目の前にいるのに幼い頃の自分は目を合わそうとはしない。まるで、今の自分が見えていないかのようであった。よく見ると、幼い頃の自分の目から沢山の涙が零れ落ちていた。今の自分はその姿を見ても顔色を変えることもなく見つめていた。驚くこともなく、ただ見つめていた。
『また・・・この夢か・・・・』
今の自分は小さく息を吐くように言った。
『どうして・・・私はここにいるの?』
幼い自分は涙を流したまま表情も目線も変えることなく聞いた。その言い方も落ち着きすぎていた。ただ質問をしている。そんな感じであった。
『私は捨てられたからだよ。』
『どうして・・・捨てられたの?いらないから?』
『真戒が言うには、命欲しさに差し出したらしい。』
『どうして命欲しさに差し出したの?』
『私の命と引き換えに自分の命を守る為だろう・・・』
『自分の子供を差し出してまで、生きたいから差し出したの?』
涙を流しているのに、幼い自分が淡々と投げかけてくる質問。今の由羅は苛立ちながら答えていた。
『自分の子供を差し出してまで生きたいから差し出したからここにいる。』
『じゃあ・・・私はいらない子なんだね。』
由羅は幼い自分が淡々と投げかけた言葉に思わず俯いてしまった。体が震えているのはわかっていた。
『そうよ・・・・。だから何だというの・・・・。』
『・・・寂しいの?』
『っ・・・寂しくなど・・・ない。』
『そうなんだ。じゃあ・・・・何故、泣いてるの?』
幼い自分の言葉に由羅は顔を上げて目を見開き幼い自分を見た。すると突然自分の足元が宙に浮いた間隔を覚えた。足元を見てすぐに幼い自分を見ると、幼い自分はどんどん上に昇っていく。いや違う。自分が堕ちているのだ。何故か右手を幼い自分に向けて伸ばした。
「由羅様!由羅様!!」
聞きなれた声が聞こえた瞬間、由羅は目を開けた。開けたと同時に思わず足元を見た。慌てた様子で目の前にいる人を見て腕を掴んだ。目の前にいたのは鋭史であった。鋭史は震える由羅の両腕をしっかりと握っていた。
「由羅様。大丈夫ですか・・・?」
心配そうに見つめる鋭史を見て由羅は動揺した自分を必死におさえた。しかし、自分の瞳から涙が沢山流れていたのに気づくと、すぐにその涙を両手でぬぐった。
「・・・何でも・・ない。」
そう言って俯いた由羅を鋭史は見つめた。まだ体が小刻みに震えていた。
「・・・また、夢を見られたのですか?」
鋭史が聞いても由羅は俯いたままであった。
「本当に・・・なんでもない。」
「しかし・・・」
顔を合わそうとしない由羅を見て、鋭史は小さく息を吐いた。
「すまないが・・・・私はもう少しここで一人でいたい。お前は休みなさい。」
「・・・・わかりました。では、私は下におります。何かありましたらいつでもお呼びください。」
鋭史はため息をつきそう言うと、由羅を気にしながらも屋根から降りていった。
「・・・寂しくなど・・・・ない。」
小さい声で夢の中の幼い自分に言うと、夜空を見上げた。
鋭史は下に降りると下で待つ妻を見た。妻は心配そうに鋭史を見つめていた。
「華香はもう寝たのか?」
「ええ。もう寝ました。」
「・・・そうか。」
鋭史は大きく息を吐いた。その顔を見て妻は鋭史に歩み寄り鋭史の頬にそっと右手をあてた。
「由羅様のご様子はいかがだったのですか・・・?」
「・・・夢を見ていたようだ。」
鋭史が複雑な顔をしているのを見た妻も辛そうに鋭史を見つめた。
「そう・・・でしたか。」
「泣いておられた。・・・・私は、どう言葉をかければいいのか・・・」
「・・・・私たちは、何があろうとお側で微笑んでおりましょう。何があってもお側にいる。貴方がそのようなお顔をしていては、由羅様も笑えません。」
妻はそう言って優しく微笑んでくれた。そんな妻に鋭史は心から感謝していた。その妻と子を救ってくれた由羅に心から感謝していた。
「もう死ぬしか道がないと思っていた私たちを、由羅様が救ってくれました。希望などなかった私たちは、今こうして笑っている。だから必ず、由羅様も笑える日が来ます。そう、信じましょう。」
その言葉に鋭史もそっと笑みを浮かべた。
「ああ。そうだな。」
朝日が上がる頃、暗かった地上が徐々に太陽の光に覆われ始めた。暗闇の中をひたすら走っていた曹伯にとって、朝日はまさに安心を与えるものであった。しかし、馬で駆けて約一日。その距離を子供である自分が頑張って走っても先は長かった。もう足ももつれかかっている。
「情けないや・・・。こんなんじゃ誰も救えない・・・」
曹伯は昨日話していた泉翠軍の将軍達の話を思い出した。早く天に祈りを捧げてこのことを知らせなければ。今の自分にはそれしかできない。そんな自分が情けなくなり、自然と涙がこぼれ落ちていた。曹伯は流れる涙を何度も何度も拭いながらそれでも走った。
「天よ・・・。どうか母上を・・・みんなをお守りください。僕はどうなっても構いません。だからどうか・・・・」
曹伯はそういい続けながら走っていた。
まだ忉利寺の屋根の上にいた由羅はやはり自分を呼ぶ声が気になった。
「鋭史!」
由羅は下にいる鋭史を呼んだ。鋭史はすぐに屋根へと昇って来た。
「いかがなさいましたか?」
「ずっと声が聞こえる。幼い男の子の声が・・・」
由羅はそう言うと声が聞こえた方を見た。鋭史もその方角を見た。
「行ってみましょうか。」
鋭史が言うと、由羅は鋭史を見てゆっくりと頷いた。
太陽が傾きかけた頃、黒い雲が少しずつ増えて来ていた。曹伯は疲れきった足を精一杯動かしながら影になってきた大地に気づいて空を見上げた。
「・・・雨・・・降るかな・・・」
かろうじて笑みを浮かべてまた前を見てとにかく進んで行った。約一日半程走りっぱなしであった曹伯の体はもう限界を超えていた。疲れきった体に鞭を打つかのように一歩、また一歩足を前に踏み出していた。心の中で何度も何度も祈りを捧げながら。黒い雲が太陽の光を遮り薄暗くなった大地に雨が降り出した。疲れた体に雨はとても気持ちがよかったが、その雨が次第に強さを増し曹伯の全てを濡らした。濡れた髪に濡れた服。濡れた大地は曹伯の足を更に重いものにしていった。それでも曹伯は立ち止まらずに足を前へ前へと踏み出した。それからどれくらい経ったのだろうか、暗い大地は更に暗くなった。夜になったのだろうか。時の感覚もわからなかった。降り続く雨に次第に体温を奪われていった。体が寒さで震えているのだ。そんな中、曹伯は自分の心と戦っていた。
『祈りは、届くのかな・・・。こんな僕の祈りを、天は聞き入れてくれるのだろうか。母上や村の人達を救ってくれるのだろうか・・・こんな僕の命を差し出したくらいで、天は沢山の命を救ってくれるのだろうか。そんな価値なんて、僕には・・・ないかも知れない・・・』
そう心の中で迷いに蝕まれた瞬間、足がもつれて倒れこんでしまった。起き上がりたくても体が動かない。大きく震える体を抑えることもできなかった。
「・・・母上・・・」
曹伯は眠りそうになっていた。しかし、歩かなければと自分に言い聞かせ起き上がろうと腕を地面につけて体を起こそうと力を入れるが、腕に力も入らなかった。
「父上・・・。どうか・・・僕に力をください・・・。」
そう祈った時、近づく馬の足音が聞こえた。その音は雨の音と混じっていたが、地面に倒れている自分の耳にははっきりと聞こえていた。起き上がることができない曹伯は顔を音のする方へと向けた。それは自分が向かっていた方角からであった。馬に乗る黒い布を全身に纏った二人が目に映った。見たことがない格好に曹伯は怯えた。しかし立ち上がることができない。よく見ると、その二頭の馬に乗る二人の横に、白く大きな犬のような獣がいた。見たことがない大きさであった。その者たちは自分の倒れている場所より少し離れた所で止まると、その二人は馬から降りてこちらに歩み寄った。必死に曹伯は前を歩く黒装束の何者かの顔の付近を見た。するとその顔は大人の女性であった。
「お前か・・・私を呼んでいたのは・・・」
その女性が小さな声で言うと、曹伯は眉を細めた。
「貴方は・・・」
「忉利寺から・・・迎えに来た者だ。」
女性の言葉に曹伯は驚いた。あまりの嬉しさに曹伯は大きな声で泣いてしまった。もう一人の黒装束の者が泣きじゃくる曹伯をそっと抱きかかえてくれた。大泣きする曹伯にその抱きかかえてくれた者の顔を見る余裕もなかった。
「もう、大丈夫だ。」
抱きかかえてくれている者の声は男であった。とても優しい口調であった。二人は曹伯を抱えてまた馬に乗ると来た道を戻るように走らせて行った。しばらく馬を走らせると、次第に子供の泣き声が聞こえなくなってきた。曹伯は安堵し、眠りについてしまっていた。
「こんな体で・・・ずっと走って来たのでしょうか・・・」
鋭史は曹伯を見つめて言った。
「わかるのか・・・?」
「・・・はい。足に沢山の擦り傷があります。この幼い体で・・・もう限界を超えていたはずです。」
「立てずに倒れていたみたいだな。」
「そうまでして忉利寺に一人で向かう程の事情があったのでしょう。」
「・・・声が聞こえた。」
「何と聞こえたのですか・・・?」
「母上を、みんなをお守りください。僕はどうなっても構いません。と・・・」
「・・・そうでしたか。」
「聞こえてしまった以上、これは天のお導き。起きたら事情を聞いてみるか。」
由羅はそう言うと大きく息を吐いたのであった。