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嵐の中の案山子  作者: IOTA
第三章 修羅
9/16

3



「で、全体どこの馬の骨よ、お前は」

 ブロンドの髪を短く刈りあげた白人の男が、ネイティブとなんら遜色ない流暢な日本語で問うてくる。

 その感情を宿しやすい彫の深い顔立ちは、船酔いで半分正体を失っていた兵吾でさえ一時気分の悪さを忘れて怯んでしまうほど、明確な敵意を孕んでいた。三白眼とさえいえそうな眼光だ。

 答えに窮して朱袮に視線を投げかける。それが更に白人の男の気に障ったにみえて歪めた唇を開こうとするが、先んじて朱袮が助け舟を出した。

「ミカエル。説明したでしょう? 彼は兵吾くん。私がリクルートした仲間よ」

「知ってるよ。俺はこいつの口から直接聞きたいんだ」

 しかし白人の男、ミカエルは引き下がらない。幅の広い肩をいからせるようにして兵吾の目前にまで詰め寄ると、見下ろしてくる。

 目算でも二メートルは超えていそうな亭々たる長躯のミカエル。兵吾とて線は細いが決して小柄なほうではないはずだが、それでも大人と子供のような体格差があった。

 撃ちおろし。高低差とさえ言えそうな目の高さに圧倒的な不利を感じてそんな言葉を思いうかべたが、しかし兵吾は物怖じせず、果敢に鋭い眼差しで応射した。

 なんだったら殴り合いを始めても構わない。そんな思いだった。たとえそれが身に憶えのない敵愾心を向けてくる手合いであるにしても、初対面の人間に敵意を返すとは、数時間前、高久を撃ち殺して羊の柵を脱する前までは考えられない、強気な態度だ。

 まだ慣れない、腰の後ろのヒップホルスターの圧迫感が後押ししているのかもしれないし、単に気が大きくなっているだけなのかもしれない。もっとも、それでもその見あげるかたちの眦に反抗的な子供以上の迫力があるかはそこはかとなく懐疑的だったけれど。

 ふん、と。ミカエルは薄い唇を歪め、酷く面白くなさそうに鼻で笑った。

「強気なのは結構だがね。俺は誰何してんだよ。手前の名前も喋れねえのか、日本人」

「……兵吾。犀川兵吾だ」

「素性は?」

「素性って……。今は無職で、語れるほどの素性はないけど」

「元軍人って聞いたぞ」

「軍人って言うか、自衛隊なんだけど」

 兵吾は言いさして、思わず失笑してしまった。自嘲に近い。

 朱袮がどのように自分を紹介したにせよ、一年足らずで辞した身で元自衛隊の肩書を名乗っていいものなのかと。それに軍隊ではなく、あくまでも自衛隊なのだが、それをまるで脆弱であることの言い訳のように説明するのはそこはかとなく馬鹿らしく感じた。

「まあ、そうだ。元軍人だよ」

 ミカエルはもう一度鼻を鳴らす。今度は少しばかり面白そうだった。強烈な皮肉の色を孕んではいたが。

「馬鹿にすんなよ。日本は長いんだ。軍隊と自衛隊の違いぐらいわかる。だがお前さんの言うとおり、そんなのは外国人からしたら与り知らぬことだ。ナチスドイツのSSも自衛軍って名乗ってたぐらいだからな」

「……えっと」

 会話の意図が読めず、返答に戸惑う兵吾。

 得体の知れぬ白人船頭はむっつりとした無表情のままぷいと踵を返し、大きな身体を窮屈そうに屈めながら操舵室に戻っていった。船尾では朱袮が苦笑いをうかべてなで肩を竦めた。

 兵吾と朱袮は高久を射殺したその足で海に向かった。死体を処理するとだけ聞いていた兵吾は海上に遺棄するつもりなのだろうとおぼろげに察したが、一時間ほどかけて到着した港ではミカエルと名乗る大男が漁船のような小型の船舶を用意して待っていた。

 予期せぬ第三者の介入に戸惑った兵吾。その白人男が露骨な敵意を向けてくるのだから、当惑は加速するばかりだ。

「彼はミカエル。仲間よ。もちろん堅気じゃない。話は通してあるから大丈夫」

 朱袮に大丈夫だと言われた以上、兵吾からすればそれは言外に言及を禁じているようなものだった。ミカエルに恨まれなければならない説明にはなっていないのだが、それについては脛に疵を持つ人間特有の警戒なのだろうと思いなすことにした。

 兵吾は縁に手をかけ、水平線を見ようと努めた。船酔いないし乗り物酔いには遠望が効果的だと何かで読んだのを思い出したのだ。だが月明かりだけが頼りの夜の海は幻想的なばかりで、現実的な船酔いにはいささかの効果ももたらしてはくれなかった。

 おそらく兵吾への気遣いもなく、あるいは船酔いを知ったうえでの嫌がらせかもしれないが、ミカエルの繰る小型船舶は海上を跳ねるように猛スピードで進んでいた。よせてはかえす船の揺れが、そのまま胃袋の上下運動となって兵吾を苛む。

 高久を撃ち殺した直後からの、呆然自失として何も考えられなかった意識はいつの間にかはっきりと覚醒し、今や気持ち悪さに苦心するばかりだった。殺人の罪悪感は船酔いに負けてしまう程度のものなのかと、思うところがないでもないけれど、少なくとも兵吾にとってはそうだった。

「大丈夫?」朱袮が隣に立ち、顔を覗きこんでくる。「車では平気そうだったから、兵吾くんは乗り物酔いしないたちだと思ったんだけど」

「うん、車は慣れてるけど、船はほとんど乗ったことがなくて。……それに海は好きじゃないんだ」

 続きを促すよう、興味深げに柳眉を持ち上げる朱袮。

 兵吾は苦笑いで一往復だけかぶりを振り、暗黒の海面を見つめる。

「別にドラマチックなトラウマとかはないんだけどね。ほら、海中って何が棲んでいるのかわからないような気がして。陸上からは見えない、違う世界みたいなイメージがあってさ。子供の頃から好きになれなかった」

 泳ぎが下手なわけではない。学校の授業での水泳では如才なく泳げた。だが二十五メートルのプールと海は違う。子供の時分に海水浴に出かけても、大海原を臨んで兵吾が抱くのは海中に潜む得体の知れない怪物が虎視眈々と狙っているような、そんなイメージだった。スキューバダイビングなんて気が知れない。それが夜になれば尚更だ。

「人間は見えないものに恐怖するものだからね」兵吾の視線の先を追うように、海中に潜む何かを捜すようにして、朱袮も海面を見遣っていた。「だけど一度潜ってしまえば、そこには何もいないと知れる。人外魔境の未知の世界じゃなくて、何の変哲もない日常の一部になる」

 兵吾はまじまじと朱袮の横顔を見る。暗に羊の柵と狼の外界のことを言っているのだと思った。

「これ、兵吾くん」

 朱袮はおもむろに財布から一枚のカードを取り出し、手渡してきた。操舵室の微かな明かりを頼りにそれを見た兵吾は目を剥いた。それは運転免許証だった。顔写真は兵吾のものだ。だが、名義は聞いたこともない別人のものだった。

「狼だって職務質問されるし、運転だってしなくちゃね」

「でもこれ、警察に提示して通用するものなの?」

「もちろん見せないで済むならそのほうがいいけど、問題ないはずだよ。国にはさ、超法規的な場合に備えた偽造身分証のストックがあってね。それを売って私腹を肥やす輩もいるわけ。いわゆる本物の偽物だよ。わかる?」

 兵吾は曖昧に頷いた。製作のバックボーンに国が絡んだ偽物という意味なのだろう。確かに本物の偽物だった。だが、如何ほど金がかかるものなのか、見当もつかなかった。安くないことは間違いない。それに顔写真など撮られた記憶はない。

「元軍人でしょ」朱袮は薄い唇をにやりと持ち上げ、つけ加えた。「ちょっとアングラなネットの使い方ができれば、顔写真なんていくらでも手に入る。国家特別公務員となれば尚更簡単だよ」

 よくよく見れば、そこに映った兵吾はぼうず頭だった。自衛隊時代のものなのだろう。それでもまだ疑問だらけだったが、何を質問すればいいのかもわからず、それに多くを問うべきではないと思い、兵吾は頭を下げて礼を言うにとどめた。

 犀川兵吾という人間は社会的にもう存在しない。首尾よく関高久を行方不明にすることができたとしても、怨恨を疑われる犀川兵吾で生活を続けるのはどう考えてもまずい。関高久を行方不明にする以上、犀川兵吾もまた行方不明にならなくてはならない。殺害計画を聞かされた時、朱袮から説明を受けていた。つまり、実家には帰れない、家族にも会えない、と。

 実際に事が済んで、今の兵吾が思うのは、行方知れずなら、まあ、姉貴の結婚式は滞りなくおこなわれるだろうと、そんなことだった。家族に迷惑が及ばないのなら問題ないだろうと。まだそれについて悲しみに暮れる段に至っていないのかもしれない。兵吾はそう自己分析する。

 そして羊の柵を脱した兵吾にとって、もうここは恐怖すべき未知の世界ではない。郊外の家屋の前で処女を切ったあの瞬間、水面へと飛びこんで、分水嶺を踏み越えて、得体の知れない怪物が跋扈するこちら側が自分にとっての日常になったのだ。

 ほどなくすると船が停まり、運転席の脇に設えられた小型の荷置場からブルーシートに包まれた高久の遺体が運び出された。兵吾と朱袮、二人がかりでやっと運びこんだそれを、ミカエルは軽々と肩に担いで船尾に放り投げた。力自慢の船乗りよろしく、ただの重い荷物を扱っているような無造作さだった。

 シートが剥がされ、遺体が露わになる。

 兵吾は顔を背けようとはせず、もう執拗に見入ろうともせず、他の二人と同じように無感情に大きな弾痕が穿たれた土色の顔面を見下ろしていた。二者を倣うように意識的に努めているとはいえ、そんなことに意識を割けるあたり、自分の感情はさほど粟立っていないのだろうと兵吾は思った。

 ボタンを弾けさせるように強引に遺体の腹部を晒したミカエル。そこにはぽつりと穿たれた二つの弾痕の他にも、目を引くものがあった。ネックレスだ。薄い金色のプレートはかまぼこのような上半月の形をしている。

 兵吾は眉根を寄せる。高久がそのようなネックレスをしているとはついぞ知らなかった。だが、そのシンプルな形状には見覚えがあった。それは最近世間を騒がせている、エレクシオ真理教団のシンボルだった。

 チェーンを引き千切るようにして遺体の首からそれを取り上げたミカエルは、朱袮に向き直ると満足そうに鼻息を吐いた。

「一人目だな」

 意味がわからず、兵吾も朱袮を見ると、朱袮は無表情でミカエルを見返していた。

 付き合いは短く、彼女の乏しい表情から窺える感情をすべて理解しているとは言い難い兵吾ではあるが、それでも察した。朱袮は今、ミカエルに対して怒っている。まじろぎもしない硬質な面持ちは、兵吾が初めて見る明確な怒気を帯びていた。

 ミカエルも訝ったようでたじろぐようにしていたが、ちらりと兵吾に目配せをして何か気取ったようで、すぐに足許の遺体へと視線を戻した。薄く笑って、誤魔化すように口を開く。

「それにしても相変わらず見事な手際だな。モザンビーク、流石だよ。だが大口径だな。.45口径フォーティファイブか。お前の趣味じゃないだろ」

「私じゃないもの」朱袮はどこかぶっきらぼうに答える。「やったのは兵吾くん」

「こいつが? これを? そうだったのか……」

 誤魔化すために口にした言葉でさらに意表をつかれたようで、ミカエルは気まずそうに目を泳がせると、そそくさと荷置場に引き返していった。途中でネックレスを海に投げ棄てる。

 どこか縮こまるミカエルの背中から朱袮に視線を戻す兵吾。彼女は高久の死体に視線を固定していた。兵吾を見返そうとしない。それは努めて目を合わせないようにしているようだった。

 今の意味深な会話から何も察しないほど、兵吾も鈍くはなかった。二人は明らかに何かを隠している。連絡に不行き届きがあったのか、ミカエルが口走ってしまい。それを朱袮が眼差しで咎めたのだ。では何を隠しているというのか。

 一人目。ミカエルはそう言っていた。それはつまり二人目、三人目と、今後も続くことを意味しているのではないか。そしてその言葉は同時に、朱袮とミカエル、少なくともこの二人が関高久の殺害をかねてから目的にしていたことを示唆しているのではないか。たったそれだけの言葉で断じてしまうのは性急だが、何かしらの底意があるのは間違いない。単に兵吾に同情した殺害の助勢以上の何かが。

 そう、そもそも同情だけでここまでのことをしてくれるはずがない。死体の遺棄まで含めた周到な計画を立案して、凶器を貸与し、あまつさえ今後のための偽装身分まで用意してくれるなど、ましてや無償でおこなってくれるなど、それはあまりにも現実的ではない。

 それに、朱袮から殺害計画を聞かされた時には恐ろしい手際だと感心した兵吾だが、ある程度の期間を要した統計がものをいう素行調査を三日足らずで済ませるなど、冷静に考えれば土台無理な話だった。かねてからあった計画に急遽兵吾が組みこまれたのか、あるいは当初より手を汚すことを辞さない第三者の存在が不可欠だったのか、そう考えたほうが自然だ。

 薄暗い街路。高久を射殺した直後、朱袮が両手保持で照準した減音器付き拳銃の深淵のような銃口が、兵吾の脳裡を過った。兵吾は知らず凝視していた朱袮の顔から慌てて視線を外し、彼女が見下ろす死体に目を落とす。

 そしてこの男、関高久。兵吾にとっては、殺意を抱くに値する悪辣な上司ではあるが、それでもただの壮年の男でしかなかった彼だが、その実は怨恨ではない理由で命を狙われるほどの何かを腹に秘めた、徒者ではない何者かだったのかもしれない。そしてそこには、エレクシオ真理教団が関係しているのかもしれない。

「………」

 すべて憶測でしかない。何もわからなかった。ショックがないと言えば嘘になる。だがそれはほんの些細なものだった。偶然バーで出会った楠朱袮と名乗る彼女。兵吾に親近感を抱かせる彼女が、その実は徒者でない、狼の世界の住人であり、兵吾の思いに同調して手を貸してくれたなど、それはあまりに楽観的だ。何か思惑があるのは明らかだった。

 朱袮の正体以上に彼女の心算については考慮しなかった兵吾だが、今こうして露骨に底意の存在を臭わされて抱く感想は、得心だった。胸にストンと収まる、腑に落ちる話だった。だからやはり、決意は変わらなかった。朱袮から話してくれるのを待とうと、自ら問おうとはしなかった。

 そんな兵吾の思考を察したように、朱袮は微笑をうかべて嘆息した。目を瞑り、やがて観念したように口を開く。

「何も訊かないんだね。本当に凄いよ、兵吾くんは」

「朱袮さんが話してくれるなら聞くけど」

「……ごめんね。今はまだ多くを話せない。だけど、そうだな……。三つだけ言わせて」

 顔を起こすと、朱袮はまっすぐに兵吾を見つめていた。毅然とした決意めいたものが見え隠れする、真剣な表情だった。

「一つは、兵吾くんと出逢ったのは偶然よ。こちらの世界に引きこんだのは私の独断。二つ、ある大きな仕事があってね。一人ではきつくて、人手が要るのよ。それを手伝って欲しいんだ。そして最後に、悪いようにはしないから……信じてくれる?」

「うん、わかった。手伝うし、信じるよ」

 兵吾は即答した。

 朱袮は面食らったようにぱちくりと瞬きをしていた。信じてくれるかと問うた彼女のほうが、逆に信じられぬと言いたげな面持ちだ。だが兵吾からすれば、ただ単に他に選択の余地がない話なのだ。

「だってさ、正直、関を殺したあとのことなんて何も考えていなかったから。新しい身分を与えられて、はいさよならじゃあ、俺路頭に迷うしかないし。あと、ほら、厚かましいかも知れないけど、アパートの解約を指示された時に、じゃあ今後も世話してもらえるのかなぁって」

 弁明するように言う兵吾。それは手伝う理由にはなっているかもしれないが、信じる理由にはなっていない。後者の理由たる朱袮への正体のない妄信は、本人に向けて口にすべきことではない程度のわきまえはあった。

「それもそうだね」朱袮は可笑しそうにくすりと笑った。

 そこにミカエルが戻ってきた。その姿を見て、兵吾はぎょっとする。ミカエルは薄手のビニール手袋をはめ、その先には鉈と出刃包丁がそれぞれ握られていた。

 両の手に刃物を携えた大柄の男の姿はあまりにも剣呑過ぎて、思わずヒップホルスターに手を伸ばしかけたが、朱袮にそっと肘を押さえられる。

「その反応は素晴らしいけど、大丈夫だよ」

「何が素晴らしいもんか。手前が拵えた死体を代わりに捌いてやるってのに、撃ち殺されちゃたまらんぜ」

 ミカエルは恨みがましい眼差しで兵吾を瞥見すると、刃物を置き、小脇に抱えていたゴーグルをかけ、黒いレインコートに袖を通す。

「えっと、ごめん。……捌くって?」

「死体の腹を切り裂くんだよ。十文字にな。そうしないと腐乱ガスで腹の脹れた死体がキューバ難民よろしく海の上を何マイルも漂流することになる」

「へえ……。そうなんだ」

「そうなんだ? 感想はそれだけか? お礼は? この国の人間は礼節を重んじるんじゃなかったのか? なんだったらお前がやるか?」

 袖を通しかけたレインコートとわざわざ手袋までを脱いで兵吾に差し出すミカエル。白い歯を覗かせ意地悪な笑顔をうかべた。

 子供じゃないんだから、と朱袮に言い咎められ、不貞腐れたように唇を突き出して再び準備に取りかかろうとするミカエルだったが、兵吾はそのレインコートを掴んだ。

「やるよ。俺がやる」

「ちょっと、兵吾くんもむきにならないでよ」

「いや、むきとかじゃなくて。朱袮さんもやったことあるんでしょ?」

「それは……まあ、あるけれど」

「朱袮や俺はもっとエグイことしてるっつーの」ミカエルが面白がってはやし立てる。「バラバラにして、ミキサーでドロドロにして排水口に流すとかな」

 朱袮はきっとミカエルを睨んで黙らせてから、兵吾に顔を向けふるふるとかぶりを振った。

「兵吾くん。私と彼は訓練を受けてるから、無理に競うことないのよ」

「訓練?」

「ええ。非合法軍事訓練キャンプっていうか。そういうところがあるの」

「ジョブキラーカレッジだな。死体の解体からIEDの作り方まで、平和の国の国防軍では教えてくれないことを教えてくれるのさ。卒業式にはみんなでラクダの糞臭いターバンを放り投げ、卒業証書のマーダーライセンスは暴力世界で無期限有効だよ」

 ミカエルッ、と語勢を荒げる朱袮。ミカエルは嘆息混じりに天を仰いでぎょろりと目を回す。小馬鹿にした態度を改めようとはしない。

 兵吾はそんな二人をよそに手袋をはめ、レインコートを羽織り、出刃包丁を手に取った。

「訓練か。俺もその内参加したいな。でも、訓練を受けても最初はやっぱり辛かったでしょ?」

「……ええ。まあ、それはね」

「だったら慣れないと。俺ももうこっち側の人間なんだから」

 兵吾の頑固な態度は、熱意を根ざしたものだった。これからこういった凄惨な所業を生業にする上で、早く憶えて慣れなければという熱意。ある男から欠けていると痛罵された仕事への熱意。兵吾の足許で死体となって横臥するその男の死体でそれを証明しようというのだから、因果なものだと、兵吾はちらりと思った。

 朱袮は根負けしたようで伏し目がちで嘆息を吐くと、鉈を拾い上げ兵吾に差し出した。

「最初は鉈の方がいい。胸板は硬いから。鎖骨の間から胸の下まで、切るっていうよりも叩き割る感じで。注意点は二つ、決して目を逸らさないこと、そして執拗に死体に触れないこと」

 兵吾は鉈と、ミカエルからはゴーグルを受け取り、死体に正対した。

 通過儀礼。少し距離を置いて黙したままじっと見つめてくる二人の態度からはイニシエーションじみた雰囲気を感じる。

 息を吸い、鉈を振り被った。

 船酔いの気持ち悪さは忘れていた。高久の腹の肌色が毒々しいまでに闇夜に眩しかった。その顔は死んだ瞬間のまま微かな驚きを宿して兵吾を見ていた。

 息を止め、振り下ろした。



「平和なこの国でも行方不明者は年間に一万人を超える。しかもそれは届け出のあった正式な件数だ。誰にも知られていない数まで含めたら、三倍は固いな。平和なんて薄氷さ」

 ミカエルの顔を見なくとも薄ら笑いを貼りつけているであろうことが容易に推測できる声色が背後から聞こえる。

 兵吾は縁に身を乗り出し、しこたま嘔吐していた。

 ずっと我慢してきた吐き気は乱暴な解剖作業を終えたところでついに臨界を超えた。果たしてこれが人間の腹を掻っ捌くという行為によってもたらされたものなのか、乗船してからこっち船酔いに苛まれていた兵吾には判別できなかった。ただ作業中は一度も吐かなかったという点を踏まえて峻別するに、きっと単なる船酔いによるところが大きいのだろうと、兵吾は思った。

 胃袋がもだえ、食道を逆流して黒い海に滴り落ちていく吐瀉物は、ほとんど無色透明だった。夕食を抜いた空っぽの胃袋は胃液を吐ききり、今や唾液しか出てこない。それでも嘔吐感はもっと吐き出せ、すべて吐き出せと要求してくる。

 一頻り口内の苦味を吐いてようやく人心地ついた兵吾は身を起こし、両手の手袋に視線を落とす。不器用な子供が絵を描いたあとのようにまだらに赤く染まった手。

 にゅるにゅると手中に宿った脂の感触を持て余しながら、作業中に感じた奇妙な感覚を思い出し、朱袮の語った注意点に得心していた。死体にずっと触れていると自分の体温が移り、どこからが死体でどこからが自分の身体なのか、ひどく曖昧になってくるのだ。目を離すと自分の手まで切ってしまいそうになる。

 平和なんて薄氷というミカエルの言葉が脳裡を過ぎる。死体も生体も、肉体という意味では共通しており、きっと両者の境界は気をつけなければ見失ってしまうほど曖昧なものなのだろうと、兵吾はなんとなくそう思った。

 両手から視線を切る。船の縁にははっきりと赤黒い手形が残っていた。

 バケツで海水を掬い上げたミカエルが濡れた雑巾を投げて寄越す。

「行方不明者がまた一人。いや、二人か」

 兵吾の顔を見てにっと粗野に笑い、朱袮と共に飛び散った血痕をブラシでごしごしやりはじめた。

 手形を拭いながら兵吾はそっと頬を緩ませた。どことなく棘の消えたミカエルの態度はイニシエーションの成功を思わせ、後始末というささやかな共同作業は仲間に加わったということを実感させた。また、ジャージの裾をまくって白い素足をさらし、鼻歌混じりにデッキブラシをかける朱袮の姿も、プール掃除中の女子高生を思わせ、なんとも微笑ましかった。

 作業を終えると、ミカエルは外国の銘柄であろう見慣れぬ煙草のパッケージを兵吾に差し出した。

 兵吾は手を伸ばしかけたが、その手を翳してかぶりを振った。

「だろうな」愉快げに鼻を鳴らしたミカエルはパッケージを振って器用に一本抜き出すと、唇の端におしこんだ。「喫いそうなやつには勧めんよ」

 ミカエルはそう言うが、兵吾もつい最近までかなりの頻度で喫煙していた。バーで朱袮と会話を交わすようになってからは彼女の前では喫わないようになり、アパートを引き払ってからは一本も喫っていない。

 我慢しているわけではなく、いつの間にか紫煙を求めなくなっていた。なんどきも胸の内で燻っていたはずの苛立ちが、バーで朱袮に向けて告解してからというもの、霧消していたのと同じように。

 ミカエルが朱袮に目配せをすると、タオルで脚を拭いていた朱袮は意図を気取ったのだろう、無言のまま首肯で同意した。

 すると、訝って見ていた兵吾を二人は同時に見遣り、揃って口許に意味深な微笑みをうかべる。

「季節はずれのクリスマスプレゼントだ。ただしサンタクロースからじゃない」

 遺体が収められていた荷置場に向かったミカエルは、隠し戸になっていた底板を外し、中を見るように兵吾に顎をしゃくった。

「セイント・カラシニコフおじさんからのご機嫌なおもちゃだぜ」

 それを目の当たりにして、兵吾は息を呑み、破顔した。子供のような表情を気恥ずかしく思いながらも頬は緩むばかりだ。

 今までの人生で一番嬉しいプレゼントが、そこにはあった。





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