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嵐の中の案山子  作者: IOTA
第三章 修羅
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2



 勤務を終えた関高久は今、バーで兵吾と朱袮に出くわした日と同様、地元にいる学生時代からの友人達と駅前の繁華街で呑み歩いている。帰宅時間は一時か、遅くても二時。明くる日は非番であるので、おそらく今日も二時のパターン。タクシーを利用するが、自宅から最寄りの自動販売機の前で降りて炭酸飲料を飲むのが習慣なので、タクシー運転手に目撃される心配はいらない。午前二時の自動販売機から自宅までの三十メートル、それが関高久にとっての逢う魔が刻――。

 朱袮から齎された情報を何度も頭の中で繰り返し、そして自分がとるべき行動を頻りにイメージしながら、兵吾は生垣に身を潜めていた。関高久の邸宅から道を挟んだ向かい、塀の間にある申し訳程度の生垣だった。数日前、火炎瓶で赤犬を這わせようと試みた時に、車を停めた付近だ。生垣の手前の側溝には、あの時に取り落とした火炎瓶が未だに沈んでいるはずである。

 兵吾は腕時計を見ようと左腕を上げようとするが、モチノキの植木は固く、袖に枝がひっかかる。渇いた擦過音が鳴り、焦ったように周囲を見渡すが、すぐに杞憂だと思いなした。

 密集した固い植木に姿を沈めきることは不可能だったが、そもそもその必要はない。周囲には明かりはなく、故意に探そうとする視線でもない限り、黒尽くめの兵吾が誰かに見つかることはないだろう。

 ――光の中から闇の中は見えない。けれども、闇の中からは光の中がよく見える。

 街灯が照らす路上から見れば、兵吾も、兵吾が潜む生垣も、闇に塗りつぶされているはずだった。

 朱袮のアドバイスを脳裡で反芻し、兵吾は落ち着いて枝の一本いっぽんを袖から取り除く。不要な反射を避けるため内側に文字盤を向けた腕時計のバックライトボタンを押し込んだ。午前一時二十六分、十一秒。

 腕を下げる時に、伸縮性に富んだ作業用ゴム手袋の後端から水滴が垂れた。兵吾の汗に他ならない。日中に較べれば気温は下がっているが、それでも夏真っ盛りである。ましてや厚手のカーゴパンツを穿き、足には爪先に鉄板の入った安全半長靴、長袖シャツを着込み、挙げ句に頭部をバラクラバですっぽり覆っている兵吾が、暑くないわけがなかった。シャツは肌に貼り付き、バラクラバは熱気で蒸れている。

 半長靴も手袋も、衣服同様に朱袮が用意していたものだった。それにより兵吾は、全身隈なく黒色に包まれ、立体的な人影のような様相と化していた。そして外見だけではなく、兵吾の心中もまた、深い洞の影のようにひやりとした冷気に包まれていた。

 身体は暑さでびっしょりと発汗しているのに、胸の内はそれに反比例し、急速に冷え込むばかりだ。右手に握ったM1911A1の銃把の温度が腕を伝播して体中に拡がっていくように感じていた。

 今一度、腕時計を見遣る。午前一時二十六分、三十六秒。一分も経っていない。兵吾は臓腑の内からひり出すように深い息を吐いた。その溜め息は一人でいる時のもはや癖になってしまったものとは別種であり、熱帯夜には不相応に、凍えるように微かに震えていた。

 耳元を飛ぶやぶ蚊の羽音も、ねばった蜘蛛の巣も、得体の知れない虫が背を這う感触も、兵吾の意識にのぼることはなかった。律動的な鈴虫の音色も耳朶を打つことはなかったが、近づきつつある微かな自動車の走行音には、鋭敏に反応した。

「……っ」

 兵吾は金縛りにあったように身を強張らせ、道路に伸びるヘッドライトの黄色い光芒を凝視していた。

 午後十一時半に待ち伏せを始めてから、自動車が近づくのはこれで三度目になる。その度に兵吾は心臓を鷲掴みにされるような感覚に襲われていたが、そのまま関の邸宅を通り過ぎた時には、震える嘆息を吐き出していた。それは息を詰めていた故なのか、それとも安堵によるものなのか。きっと前者なのだと、兵吾は思い込もうとしてきたが、自分自身に対する嘘、無意味な虚勢でしかなかった。

 だが、三度目の正直。

 今しがた現出したヘッドライトは煌々と路上を照らしたまま動かず、走行音はアイドリング音に変わっていた。

 ドアを閉じるくぐもった音が、夜の住宅街に響き渡る。

 走行音が再開し、関の邸宅を脇目に通り過ぎる自動車は、タクシーだった。

 来た。

 兵吾は瞬きを忘れたように、塀の縁、ほどなくしてそこから現れるであろう人物を見据えるようにしていた。

 そうして、関高久は現れた。

 朱袮の情報は正確だった。千鳥足とまではいかないまでも、おぼつかない足取りで身体を揺らして歩く高久は、右手に清涼飲料の缶を持っていた。立ち止まると、腫れぼったい唇に缶を運び、宙を見上げるように猪首をいっぱいに伸ばし、大仰にいっき飲みし始めた。幽霊か、あるいは恐竜のように空いた左手を直角に垂れ下げている様は、如何にもおどけていて、上機嫌に酔っていることは傍目からも明らかだった。

 飲み干すと、兵吾に聞こえるほど大きく長いげっぷをする。そして不意に兵吾の方に身体を正対させた。

 兵吾の表情に緊張が奔る。だが、発見されたわけではなかった。高久は右手を振り被ると、空き缶を放擲した。銀色の缶はくるくると回転しながら弧を描いて、兵吾のすぐ足許に落ちた。

「ストライークッ」

 他人の庭の生垣に空き缶を投げ棄て、高久は奇声を発してガッツポーズをした。そういえば、兵吾の潜む植木の根本には嫌に空き缶が多い。きっと空き缶を生垣に棄てることまで含めて、高久の習慣なのだろう。

 それは眉を顰めて然るべき行為であり、殺意を増加させるには十分な愚行だった。数日前の兵吾が目にしたらそれだけで万死に値すると断じる大罪だったが、しかし、拳銃という、具体的に過ぎる殺意を携えた今の兵吾は、それどころではなかった。

 機は熟した。条件は整った。それなのに、兵吾は動けなかった。植木越しの高久を食い入るように凝視し、今にも立ち上がろうとしているが、一向に膝に力が入らなかった。さんざ繰り返したはずのイメージは、影も形もわからなくなるような彼方へ消え去ってしまう。

 のらりくらりと歩みを再開した高久、自宅の庭先まであと十メートルもない。言うまでもなく、玄関に這入られたら終わりである。誰の目もない、誰にも見咎められない路上で、始末をつけなければならない。

 動け、動け、動け、と。

 兵吾は強く念じる。呼吸が浅くなり、心音は早鐘のように脈打っていた。動悸というよりも胸の激痛に近い。汗が噴き出す。腰を浮かせるが、それ以上身体が動こうとしない。特に右腕、M1911A1を握った右手が空間に縫い付けられたように微動だにしなかった。M1911A1は拳銃にしては重いが、それでも約一キロでしかない。はずなのに、まるで数百キロのおもりと化したように、兵吾の身体に重くのしかかっていた。

 高久への殺意を脳裡に蘇らせようとした。無駄だった。紛れもなく本物であった殺意は、けれども瞬発的なものでしかなく、今は真っ白に塗り固められ何ものも入る余地のない思考の表層を上滑りするばかりだった。

 朱袮の厚意を思い出そうとした。至らなかった。そもそも高久殺害とは無関係な感情であり、混乱に拍車をかけるだけにしかならなかった。

 高久は自宅まであと五メートル。

「……畜生」

 二度目だった。火炎瓶の時も、兵吾は心挫けて、逃げ出してしまった。今回は朱袮にここまでお膳立てしてもらったというのに、兵吾はまた、心が折れてしまいそうだった。

 ふと、その無力感と自己嫌悪に起因し、朱袮とのバーでの会話を思い出した。会話というよりも、兵吾が一方的に捲し立てた言葉だ。放火に失敗し逃げるように向かったススッルスで、生まれて初めて赤裸々に語った自身の本心だった。

 ――我慢してきた。

 何を我慢してきたのか。森羅万象、ありとあらゆる、あまねくすべてだ。嫌なことを我慢した、怒ることを我慢した、暴れることを我慢した。如何なるものより顕著な衝動を、抑えて生きてきた。何よりも強烈な感情を、殺して生きてきた。我慢しなくてはならない、そう自身に刷り込んで、自分に言い聞かせて、ずっと生きてきた。

 だけど、もう駄目だ。どんなに醜くても、如何に業深くとも、感情を発露させ、衝動を放たなければ、きっと自分は死んでしまう。遠からず、耐え兼ねて自死を選んでしまう。けれども、そんなことで死ぬのは、とても理不尽だ。規律に押し固められて独り圧死するなんて、あまりに不条理だ。

 ――あなたは狼。

 朱袮の声が聞こえた気がして、

「……羊じゃない」

 兵吾は答えて、立ち上がっていた。

 足を踏み出す。高久が棄てた空き缶を踏み潰していた。もう物音も気にせず、潜む必要もなく、植木を掻き分け、息をはずませながら駆け出していた。

 兵吾を立ち上がらせたのは、高久への憎悪ではなく、脚を衝き動かすのは、高久への殺意ではない。産まれてから只管に耐える一方だった感情と衝動に、ただただ正直であろうとしていた。

 路肩に達しても速度を緩めず、アスファルトを蹴り出して、そのまま高久に猛然と迫った。

 庭先へと折れる寸前ではたと足を止めた高久は、赤ら顔を振り向かせた。仏頂面が胡乱げに曇る。道路の中央、スポットライトのような街灯の光に浮かびあがる影のような人物の正体を見定めようとしていた。

「なんだ、お前」

 高久の呆然とした声に、M1911A1を持ち上げることで、兵吾は応じた。.45口径の大型拳銃は、先までの重圧が幻であったかのように軽かった。

 親指でセイフティーレバーを下げ、人差し指のはらを引き金に載せた。左手は銃把を握る右手を包み込むようにし、滑り止めのついた用心金に左人差し指をかける。堅実な両手保持の据銃。照門の切れ込みの間に照星の白いドットを収め、その先には高久の不思議そうな顔があった。

「なんだよ、お前。誰だよ?」

 高久は誰何を繰り返す。拳銃が見えていないはずがないのに、表情は怪訝そうに歪められたままだ。慣れ親しみ、弛緩し切った日常の只中で、あまりにも突飛に途方もない殺意の塊を突きつけられ、まるで理解が及ばないようだった。

 兵吾の頭の中もまた、真っ白になったままだったが、それは先までの恐慌や周章に塗り固められたものとは別種だった。上っ面ばかりの思考が関与できない、早朝の雪原のように不純のない、純白に澄んだものだった。

 細められた高久の目が、ようやく見開かれる段になって、兵吾は黙したまま、一歩だけ近づき、ぴたりと止まる。

 淀みなく、引き金を切った。

 抵抗が消え、人差し指がふわりと浮くような感覚を覚える。手の中で小動物のように拳銃が跳ね上がった。反動が腕を伝い、上半身を押し、肩へと抜ける。

 兵吾の視界、伸びた諸手の先に握られるM1911A1は手首を支点にして銃口を斜め上へとはずませ、微かに白濁した硝煙越し、減音器に両断される形で、高久の顰められた顔面があった。強張るように目を瞑り、ひき歪められる唇。顔のパーツを中心に寄せたようなその様は、まるで些細な驚きや痛みに対する条件反射のようだったが、鼻梁の皮膚は赤黒くひき剥がれ、二つの鼻腔を消失させる形で、一つの大きな穴が穿たれていた。

 がくんと顎を落とし、ゴムまりが弾むように頭部を仰け反らせると、そのまま身体を追従させるように、後ろ向きに卒倒した。鈍く瑞々しい音を伴ってアスファルトにしたたかに打ちつけられたぼんのくぼ。粉砕された組織の黒い糸くずのようなものが混じるとろりとした血液が鼻の入射口の縁から流れ、厚い下唇の上に溜まり、顎から滴り落ちる。

 軽く両手両足を投げ出して路上に横臥する高久。兵吾は銃口を下げると、胸部を照準し、今一度、引き金を絞った。

 撃針が奔り、雷管を穿つ。薬莢内に封じ込められた凄まじい速度の燃焼に弾頭が切り離される。反力により後退し始めたスライドと立ち代わるように、ガス圧に押され銃身内のライフリングで回転を与えられた.45口径のホローポイント弾が、銃口から飛び出す。高久の胸部を突貫した。白いシャツとその下の皮膚が入射口を中心にして波紋のように波打ち、繊維状になったシャツの飛沫が噴き上がり、薄赤い飛沫が局所的な霧のように立ち込める。塀に数滴の血痕が跳ねた。

 排莢口から弾き飛ばされた空の薬莢が硝煙を牽きながら虚空を舞っている。後退し切ったスライドはリコイル・スプリングの反発により前進し、せり上がった次の弾丸を銜え込み、薬室に挿入すると、閉じた。

 然るべき位置に収まるようにすとんと元の射線に戻ってくる照準、兵吾は三度、引き金を落とした。

 高久の身体がびくりと痙攣し、飛散した血飛沫がシャツを斑に染めた。静かだった。元々が亜音速の.45口径の弾丸は、減音器とこの上ない相性を発揮し、兵吾の耳にはスライドが前後する金属音の方が喧しく聞こえたほどだった。

 空薬莢がアスファルトで跳ねる澄んだ高音が、鈴の音のように鳴っていた。

「………」

 兵吾はゆっくりと大腿の前まで銃口を下ろし、他人のもののように遠くに在るように感じる指先で懸命にセイフティーレバーを探り当て、押し上げた。その間、仰向けで横たえる高久の身体から目が離せなかった。

 いや、身体と形容するには相応しくない。それはもう微塵も疑う余地のない、死体だった。関高久という男の射殺体だった。

 鼻梁の入射口から垂れる血は頬を伝い、首筋のすぐ下のアスファルトに小さな血だまりを作りつつあった。胸部の銃創からの出血はすべてシャツに吸い込まれている。体内にとどまることで卒倒力と内部破壊に特化したホローポイント弾故に、貫通銃創はなく、出血は少なかった。もっとも、譬えるなら水風船に小さな針を刺したような状態であり、体内は液状化した臓腑と内部出血の海と化しているだろう。

 不意に、至近から聞こえた物音に、兵吾は銃口を転じる。

 照準の先に立つのは、朱袮だった。兵吾をここまで送り届けた乗用車、ヘッドライトを落とした黒塗りのSUVの脇、何時からそこにいたのか、一部始終を見守っていたかのように、朱袮は極自然に佇んでいた。

 けれども、兵吾は拳銃を下ろさなかった。下ろせなかった。

 開放された運転席のドアの向こうに立つ朱袮、その諸手には小型の拳銃が握られ、銃口はまっすぐに兵吾の眉間に据えられていた。

「――――」

 深淵のような銃口と張り詰めたような視線を交差させた時間は、しかし一瞬だった。

 朱袮は拳銃を下げると、慣れた手つきで腰の後ろのヒップホルスターに収めた。

 戸惑いがちにそれに倣う兵吾に向け、朱袮は息を吐くように小さく微笑む。

「お疲れ様。後始末するよ。手筈通りにね」

 朱袮の声がただの音として兵吾の思考を素通りする。兵吾は死体の傍らで茫然としたまま立ち尽くしていた。朱袮はもう一度微笑みかけた。

「まず薬莢。念のために拾っておいて」

 兵吾は弾かれたように振り返り、必死に足許を見渡す。発砲時は薬莢の行方に意識を割く余裕などなく、見つからなかったらどうしよう、と焦るが、くすんだ金色の空薬莢はすぐに見つかり、三つすべてを回収した。

 上半身だけを運転席から車内に入れて助手席をまさぐっていた朱袮は、取り出したものを兵吾に放った

 ブルーのビニールシートだった。兵吾は死体の横に敷くと、死体を転がす。弛緩した身体は抵抗こそないが、手足があらぬ方向にくにゃくにゃ動き回り、転がし難かった。何とかシートの中央に移す。

 屈み込んだ姿勢で間近になった死体を改めて観察する。死体の表情に宿るのは、驚きでもなく、苦悶でもない。ただほんの少しだけ鼻を寄せるように顰められているだけだった。鼻梁の入射口がなければ、寝苦しそうにしているだけにしか見えない。

「兵吾くん」朱袮の声に、兵吾は肩を揺らして振り返る。朱袮はガムテープを差し出していた。「畳んで端をとめるよ」

 事前に成人男性一人をくるめるように適当な大きさに裁断しておいたシート、両端を折るようにして死体を包み、端と端をテープで横一文字にとめた。シートが発する擦過音やテープを伸ばす時の生皮を剥がすような粘着音。その度に兵吾は関の邸宅を仰ぎ見ていたが、朱袮は手を止めないまま、この程度の物音で起きる人はいないから大丈夫、とだけ告げた。

 梱包を終えると、簡易な死体袋を二人で担ぎ、SUVの後部座席に押し込んだ。

 朱袮は小さなポリタンクを兵吾に手渡す。

「稀釈したアンモニウム溶液。ちょっと臭うけど、我慢してね」

 路上の血だまりや塀に飛び散った血痕など、溶液を振り撒き、手ブラシで軽く掃いた。もし警察が鑑識捜査に及んだ場合、血痕の反応を検出されないための保険だった。バラクラバ越しでもつんとした刺激臭が兵吾の鼻を突く。

「安心して、明日の朝には臭わなくなるから」

 そうして、すべての後始末を終え、SUVでその場を去るまで、三分もかからなかった。

 助手席で軽く俯き、ダッシュボードの付近を凝視したまま動かない兵吾に向け、朱袮は薄く笑う。

「凄いよ、兵吾くんは」

「え?」

「モザンビーク」ハンドルを切りながら左手で自身の額をつついた朱袮は、同じように胸を二度つつく。「初めてなのに、凄いよ」

 頭に一発、胸に二発。それはモザンビークと呼ばれる必殺の射殺方法だった。盤石なる死という意味では、処刑法といった方が相応しいかもしれない。

 それにしても、初めてなのに、という言葉は、朱袮は初めてではない、つまり殺人を経験済みであることを暗示しているようだった。

 兵吾は朱袮の横顔をまじまじと見る。

 時折過る街灯の淡い光に浮かびあがるのは、いつもとなんら変わらない優しげな微笑だった。ただ、射影に翳った面持ちは兵吾に先の一瞬の緊迫を連想させた。兵吾に拳銃の銃口を向け、必殺の頭部を照準していた朱袮。兵吾が銃口を向けたからではない。朱袮の方が先に兵吾を照準していた。

 おそらく、朱袮は一部始終を見ていたのだろう。そろりそろりと高久の後ろを車で徐行し、そしてきっと、兵吾がしくじって高久が逃亡した場合は彼女が代わりに撃ったのだろう。ただし、兵吾が撃てずじまいだった場合も彼女は撃っただろう。高久を、ではない。その場合の朱袮の標的は、兵吾だったに違いない。

 しかしそれは驚くに値しない。至極順当で、ある意味、真っ当とさえ言ってしまえる思考経路のように、兵吾には思えた。殺害計画を立て、拳銃を見せ、貸与した朱袮。そこまでのリスクを冒した彼女が、万が一に逃げ出した兵吾を、放っておくわけがなかった。捨て置いていいはずがなかった。

 理に叶い、道理が通った、然るべき話だ。

 だからこそ兵吾は、

「朱袮さん」

 うん? と、小首を傾げる朱袮に向けて、

「ありがとう」

 心からの感謝を述べた。真心を込めて、頭を下げた。

 自らの危険を顧みず片棒を担いでくれた朱袮に向けて、誠心誠意、何よりも先にお礼を言った。

 しかしバラクラバ越しのその顔は、極度の緊張からまだ脱しきれていない、引き攣ったような酷く不出来な微笑みだった。

「なあに、その顔。そんな状態でお礼を言うなんて、やっぱり凄いよ、兵吾くんは」

 朱袮はおかしそうにくすくすと忍び笑いを漏らしていた。兵吾も笑い返そうとするが、覆面から覗く目と口許はひき歪むばかりで、うまくいかなかった。

 お礼と笑顔。それは、バーで互いの自己紹介をした時とよく似た光景だった。違うのは後部座席に転がる死体袋と、もう日常には、羊の柵の中には戻れないという運命だけだった。




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