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卵を割り、丁寧に黄身と白身を分離する。それを三十回も繰り返すと、白身は大きなボール二杯分の量になった。黄身は躊躇なく棄てる。用があるのは卵白だけだ。
鉄製の容器に入った液体を手もみのポンプを用いて別のボールに半分ほど注ぐ。揮発性の高い液体で、途端、独特な臭気が部屋に充満した。その液体はガソリンである。車から抜いておいたものだ。
ガソリンに少量ずつ卵白を加えていき、その都度、よく掻き混ぜて粘性を確認する。ほどよいと思われるゲル状になったところで、空のビール瓶の口に漏斗を差し、慎重に注いでいく。満タンにする必要はない。六分ほどで十分だ。
そして最後に、事前にガソリンに一度浸してから乾かした布切れで栓をして、完成である。
モロトフカクテル。味気ない言い方をしてしまえば、火炎瓶だ。
ゲル状になったガソリンは皮膚にこびりついても中々落ちず、その状態のまま激しく燃え続ける。卵白を適量混ぜるだけで火炎瓶の殺傷能力は飛躍的に向上する。
と物の本にあったのだが、その火力は思いの外、大したものではなかった。
橙色に放散する炎の範囲は一メートルにも満たず、高さも腰の丈程度でしかない。何もないアスファルトの路上にそれだけの炎がごうごうと燃え盛っているという現象は一般的には十分に驚愕足りえるだろうが、それを為した張本人、軽自動車の付近で一人、呆然と炎を見入っている兵吾からしたら、肩透かしをくらった気分だった。
紅蓮の火球が散大する、というような映画やゲームで頻出する描写にはほど遠い。火炎の飛散範囲から考えて、個人に対して使用する場合は直撃でなければならないだろうが、中途半端に硬いビール瓶は人にぶつけたぐらいで割れるとは思えない。結果、とても対人に向いた代物ではなかった。
「………」
兵吾は用意しておいたバケツの水をかけ、すぐに消火した。
途端、明かりが消え失せ、視野が暗くなる。ほどなくすると回復し、点在する外灯の薄白い光に目が慣れるが、しかし目蓋の内には橙色に揺れる光が色濃く残っている。
マッチポンプというわけではなく、これは予行練習、性能試験だった。
ここは以前エアガン射撃で利用した運動公園の駐車場。苛立ちを誤魔化すために手慰みでやっているに等しかったある作業とは、火炎瓶の作成だった。さほど時間のかかる作業ではない。前々から準備していた道具を組み合わせて、今日の午前中だけで十本を作った。そして夜、今こうして試しに放擲してみたのだが、結果はあまり芳しいものではなかった。
兵吾は運転席に乗り込み、公園を後にする。
大したものではなくても、肩透かしをくらっても、芳しくなくても、今日の内に実行するつもりだった。
一文字にきつく食い縛った唇は溜め息も吐き出さず、喫煙も求めてはいなかった。ヘッドライトの先の闇夜を映す瞳の奥には、燃え盛る火炎瓶の赤い焔が強烈に焼き付いたまま、離れない。
市街地。一軒の家屋。広い庭周りに電動シャッター、大仰なバルコニー。軒を連ねた他の家屋に較べてやや豪奢な佇まい。車道に面したその家屋が全体的に見渡せる反対車線の路肩に兵吾は車を駐車して、エンジンを切った。
エアガン射撃の帰りに車で流しながら度々見上げていたその家は、関高久の住まいだった。工場兼事務所である会社から、一キロも離れていない。
時刻は午前一時。通りには誰も歩いておらず、住人は寝静まっているのだろう、周囲の家屋のどの窓も明かりが落とされている。関の邸宅も然り。そしてその住人の中には、関高久も含まれているはずだった。工場に勤務していた頃の出勤名簿と照らし合わせて、明日が関の出勤日であることは確認していた。明日も仕事だというのに、午前一時まで街で深酒をするとは考え難い。
辞職してから放り投げておいたままのバッグからその出勤名簿を引っ張り出した時、あるいは、と兵吾は思わずにはいられなかった。関と遭遇する危険性を事前に考慮して、バーへ赴く日を変更していれば、あるいはあのような事態を避けられたのかもしれない、朱袮との世界が壊されるのを未然に防げたのかもしれない、と。
「……いや」
兵吾は呟いて、不愉快な想像を、意味のない葛藤を、早急に振り払った。
なぜ会社を辞めてまであんな男に縛られなければならないのだ。なぜ自分が気を遣わなければいけないのだ。たとえ事前に予測していたのだとしても、あの男の所為がために行動を制限されるなど、まっぴらごめんだった。明日は高久が休みの日だから大人しくしていようと、自室で一人、眠れない夜を凌いでいる自分など、想像しただけで吐き気がした。
それにもう、壊されてしまったのだ。徹底的に蹂躙し尽くされてしまったのだ。今更悔いたところで取り戻せない。意味がない。
ふうっ、と溜め息とは別種の呼気を荒く吐き出し、後部座席に身を乗り出した兵吾は、ケースから火炎瓶を一本抜いた。
四つのパワーウィンドウを全て全開にし、耳と目で、慎重に周囲を観察する。二分待って、何の動きもないことを確認してから、兵吾は運転席から降りた。ドアは閉めない。物音をたてないためだ。火炎瓶のケースを積んだ後部座席のドアも開放しておいた。矢継ぎ早に次の一本を投擲するためだった。
ライターで布切れに点火し、見咎められない内に、余計なことを考えない内に、即座に振り被る。
「……――っ」
だが、考えてしまった。火炎瓶を握り締めた右手を肩の上に振り上げた姿勢のままで、硬直してしまった。
あの豪奢な住まいは、高久の一人住まいというわけでは勿論ない。両親と妻と娘。つまり印刷工場の社長夫妻と、高久の妻と娘の五人暮らしということになる。この火炎瓶で首尾よく赤犬を這わせ、炎上させることが叶ったとしても、高久の他に無関係な四人の人間を殺すことになる。いや、社長夫妻は構わないだろう。そもそも工場で担当印刷機を変更して兵吾と高久を組ませたのは社長の独断だ。社内での高久の悪評が耳に入らないはずがないのに、新人キラーとまで罵られている高久を兵吾の教育係に宛がったのは経営陣である彼らだ。いや、そもそもというのなら、高久をあんなどうしようもない人間に育てたのが悪い。……しかし、その理屈で考えれば、部外者であるところの高久の妻と娘にはなんの咎もないのではないか……。それにこの方法は確実性に欠けているのではないか。最悪、他の四人が死に、高久だけ生き延びる可能性だってあるのだ。高久だけを殺したいなら、他の方法を考えるべきなのではないか。しかしそれまで自分の激情を保てるのか――と。
兵吾の脳裏に様々な思考が入り乱れ始めた。
逡巡だった。今まで故意に意識しないようにしていた迷いが、こと直前に至って噴出してきた。
振り上げていた腕を下ろし、兵吾は車体に隠れるようにその場に屈み込んだ。両手に握り締めた火炎瓶、火口では橙色の光が風もないのに揺れていた。違う。兵吾の両手が激しく震えていた。
「くそ……くそくそくそッ」
強張るように目を瞑り、震えを止めるように更に強く火炎瓶を握り締め、きつく下唇を噛んだ。
ふと、鉄錆の臭いが鼻腔を抜ける。血だ。唇が切れていた。
その味は兵吾に、つい昨日の出来事を如実に思い出させた。弾かれたように右の手の甲を見る。自分の歯型の傷がくっきりと残っていた。
そうだ、と、呟き、兵吾は立ち上がった。
宴会の席で感じた衝動は、昨日感じた激情は、紛うことなく本物だった。正真正銘の純然たる殺意だった。高久が煙に捲かれ、泣き喚き、火達磨になってのたうつ姿は、きっと痛快に違いない。他の人間のことなど知らない。何より、今やらなければ一生やれず、一生やれなければ、生涯どうしようもない苛立ちを溜め込みながら惰性のように生きていくことになるだろう。やるやらないではなく、自分のためにやるしかないのだ、と。
兵吾はもう一度、火炎瓶を振り被った。
その時だった。
「――ひ」
ズボンのポケットに入れておいた携帯電話の振動に、兵吾は仰天し、火炎瓶を取り落しそうになる。
辛うじて受け止め、思わず脇の側溝に投げ捨てた。しゅっ、と儚い音をあげて火口の炎は一瞬で掻き消え、暗渠に落ちた火炎瓶は見えなくなった。
突き飛ばすように後部座席のドアを閉め、運転席に飛び込むとイグニッションを捻って、車を発進させた。
「何なんだよ。何なんだよ、くそッ」
罵りながら、振動を続ける携帯電話を取り出し、着信名を見る。
母親からだった。
適当な路肩に車を幅寄せし、ハザードを焚き、恐るおそる電話に出る。ありえないことだとはわかっていたが、こんな深夜に、見ていたような間の悪さに、兵吾は怯えていた。
「もしもし……」
「兵吾」幾分ほっとしたような母親の声。「元気してたかい? たまには連絡、寄越しなさいよ」
「いや……忙しくてさ」何が忙しいのか。内心で自身を罵る。
「前に言っていた印刷工場かい? 大丈夫? やっていけそう?」
最後に電話で話したのが何か月前なのか、兵吾には定かではなかった。印刷工場を辞したことは話していない。
「大丈夫だよ、心配しなくても。……それよりどうしたんだよ。こんな時間に」
「深夜のパートを始めたって前に話したでしょう。忘れたのかい? どうせ昼間電話しても出ないだろ、あんたは」
忘れていた。父親が早期退職してから、母親がファストフード店の夜間清掃のアルバイトに就いたことを今になって思いだす。高校を卒業するまでずっと暮らしてきたはずの生家が、随分と遠くに感じた。離隊してから実家に一度も帰っていない。
「それで、なんの用?」
「お姉ちゃん、たまに彼氏を家に連れてきてたろ?」
「え? ああ」
「前々から結婚するって話はしていたんだけど、とうとう籍を入れてね」
「……へえ」兵吾は僅かながらも驚きを覚えた。「おめでとう」
「なんだい、他人行儀な物言いだね。それに私に言ったって仕方ないだろ」
「そうだね。おめでとうって伝えておいてよ」
「自分で伝えればいいだろ、変な子だね。それで、今年の末には結婚式を挙げるんだってさ。お前もその頃にはちゃんと予定を空けておくんだよ」
「……え?」
「当たり前だろっ」携帯電話越しでも母親の声がやや荒くなるのがわかった。「家族なんだから。出席するのは当たり前。もし欠席なんてしたら、向こうの家からどんな風に思われるか」
「ああ、わかったよ。日が近くなったら連絡する。姉貴には俺から伝えとくから。それじゃあ」
宥めるように早口で言い切って、電話を切った。
暫し、兵吾は携帯電話を見つめていた。
地元の市役所で臨時職員として働いている姉に彼氏がいることは知っていた。兵吾が高校の頃から付き合っている男性で、何度か顔も見たことがある。実直そうな男性に見えた。その男性と姉が結婚すると言われても、いまいち実感が湧かなかった。
最初に自動車の免許を取った姉から、ドライブに連れ出された時は、ハンドルを握る姉が随分と大人びえて見えたものだが、顔を見る度に、お前も早くいい人を見つけろとからかう姿は子供のままだった。
電話帳から姉の番号を表示するが、通話ボタンを押そうとして、指が止まる。
後部座席を振り返った。八本のモロトフカクテルが、街灯の淡い光の中で不気味な光沢を放っている。
ふと、想像してしまった。
もし放火を実行したら、まず間違いなく兵吾は逮捕されるだろう。怨恨を疑われたら、印刷会社の社員達は口々に兵吾の名を挙げるに違いない。即日には警察に捜索されるはずだ。逃げ切る自信など、兵吾にはない。
そして逮捕された場合、姉は、家族は、どうなるだろうか。それこそ、向こうの家からどんな風に思われるのか、容易に想像できる。誰も身内に犯罪者がいる家族と縁を結びたいとは思わない。姉の結婚は取り止めになり、実家の父と母も相当に肩身の狭い思いをすることになる。精神的に、途方もなく苦しむことになる。
「畜生……」
そんなことは端からわかっていたことだ。わかっていたからこそ、考えないようにしていた。
今日の日中、火炎瓶を作成している時にも、そういった想像は幾度となく膨らみそうになった。少し手を止め小休止しようとした時、換気のために窓を開けようとした時、煙草を喫おうとした時、ふとした拍子に想像しそうになってしまった。その度に兵吾は思念を振り払うように只管に手を動かした。何も考えないように必死に集中していた。
考えてしまえば、きっと実行に移せなくなることは、手の甲の歯型と激情の元に固く誓ったはずの決意が揺らいでしまうことは、最初からわかっていた。
でも今、兵吾は先のことを考えてしまった。如実に想像してしまった。
「畜生……。畜生、畜生……」
ハンドルを両手で叩き、きつく握り締める。ビニール製のハンドルからはぎゅうぅと音が鳴った。どうしようもない無力感が喉の奥から這い上がり、情けない嗚咽となって口から漏れた。握ったままのハンドルに額を預け、兵吾は震え続けていた。
もう関の家には戻れなかった。
そのバーの名前は『ススッルス』という。常連の間ではススないし、スッスで通っている。
以前、発音し難い名前だとバーテンダーに気を遣いながら兵吾がそっと口にしたら、朱袮は可笑しそうに微笑して、ずばりそれなんだ、と意味を教えてくれた。ラテン語で"囁き"という意味らしい。
営業時間は午後七時から午前二時まで。まだぎりぎりで開いている。関邸を後にした兵吾は、引き寄せられるようにススッルスに向かっていた。
だが、バーの入り口、手を伸ばせばドアに触れられる距離にまで来て、立ち尽くしてしまった。
一体、どんな顔をして朱袮に会えばいいのか。きっと朱袮は昨日の関の文言を信じている。自衛隊を辞めて、会社も辞めて、親に縋るニートだと。その癖足繁くバーに通い、女をナンパしようとしている救いようのない男だと、きっとそう思われている。そしてそれはまったくの出鱈目というわけではない。自衛隊と会社を辞めて、就職活動もしていないニートであるという点は揺るぎない事実だ。
そもそも自分はどうしたいのか。昨日の男の文言は嘘八百なのだと聞き苦しい虚言を吐きたいのか。親から仕送りをもらっているのだけは嘘なのだと、惨めに自己弁護するように誤解を解きたいのか。もし朱袮にわかってもらえたとしても、その後は。これまで通りに他愛のない会話が続く日常を望んでいるのか。あるいはそれ以上の発展を……。
わからなかった。自分が何をしたいのか。どうしてここまで来たのか。兵吾には何一つ、わからなかった。
「……いや」
小さく呟いて、自衛隊時代から使っている腕時計を見遣る。
午前一時三十六分。朱袮が閉店間際まで店にいることはない。今日はもう帰ってしまっているだろう。兵吾はそう思い、諦観と微かな不安と深淵のような喪失感をない交ぜにした心中で、そっとドアを開けた。
「なんで……」
果たして朱袮は、そこにいた。
入り口から数えて二つ目のカウンター席、距離感を保つために兵吾が空け、けれども自ら歩み寄ってきてくれたその席に、彼女は座っていた。昨日と寸分違わぬ位置で、いつもと変わらない微笑で兵吾を出迎えてくれた。
朱袮の右隣、いつもの定位置に座った兵吾は、話した。
訥々と消え入るような声だったが、けれども言葉は止めどなく溢れてきた。陸上自衛官であったこと、願っていた職種に進めずに辞職したこと、実家に帰る気にもなれずこの町のアパートを借りて一人暮らしをしていること、印刷工場に就職したが、宴会で関と喧嘩をし、逃げるように辞めたこと。
それだけではない。
日常に漠然とした苛立ちを感じていたこと、エアガン射撃をしてそれを誤魔化そうとしていたこと、ここで出逢った朱袮に不思議と興味が惹かれたこと、関に殺意を抱いたこと、今日は火炎瓶で関の家を燃やそうとしたが、意気地がなくて心が折れてしまったこと、半端な自分にどうしようもない無力感を感じていること。
自分の生い立ち、素性、現状。今まで避けていた踏み入ったことを、只管に吐露していた。自身の醜い腹積もりや感情の起伏、不安定な情緒まで、洗いざらい、包み隠さず、夢中で吐き出していた。
止められなかった。止めようとも思わなかった。それは客観視したら惨めで、みっともなく、聞くに堪えないものだったが、兵吾はそんなことに気を廻す余裕もなく、とにかく必死で喋り続けた。
そして朱袮は不要な口を挟まず、余計な相槌も打たず、時折頷いて、そんな兵吾の話をじっと聞いていた。
兵吾が語り終え、俯きがちに目を伏せると、初めて朱袮は口を利いた。
「誰にでも狼の血は流れている。重要なのは、それが濃いか薄いか」
驚いて顔を起こすと、朱袮は兵吾の瞳をまっすぐに見つめていた。
「あなたは狼。羊じゃない。そして狼だって、一匹よりも二匹の方がいい」
朱袮は身を乗り出す。兵吾の顔から十センチもない間近に、朱袮の顔がある。兵吾は朱袮の黒曜石のような眼に見入っていた。深淵を覗き込んだように、吸い込まれそうになる。
そこでようやく気が付いた。朱袮を初めて目にした時、自分が驚いていたこと、また朱袮も自分を見て驚いていたことに。なぜ驚いたのか。そしてなぜそれを当然のことであるように今の今まで思い至らなかったのか。今更ながら、ようやく理解した。
なんてことはない。似ていたのだ。慢性的な目の下の隈、どこか虚ろで哀しげな双眸、どこまでも深く暗い瞳。まるで狼のような孤高と他者を寄せ付けない意志を孕んだ目許が、そっくりだったのだ。兵吾と朱袮の放つ雰囲気は、鏡に映したように酷似していたのだ。
そうして朱袮は、まるで兵吾がようやっとそれを理解したことを悟ったように、優しげに微笑んだ。そして、それを口にするのをずっと待ち望んでいたかのように、事も無げにさらりと言い放った。
「その男が今でも憎いなら、手伝わせて」
殺すのを、と。