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嵐の中の案山子  作者: IOTA
第二章 契機
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 数日経って、毎夜のように会話を重ねたが、朱袮についてわかったのは初日に得た情報だけだった。

 朱袮は自分のことに話が及ぶと、どこか余所余所しくなり、すぐに違う方向へと話題を転じようとした。それは非常に何気ない、普通は気が付かないような巧みな誘導だったが、人の心理を読み取る能力や話術に長じているわけではない、むしろ他人よりも劣っていると自己評価を下す兵吾は、なぜか朱袮のその瑣末な機微は鋭敏に感じ取ることができ、言及しようとはしなかった。

 兵吾とて別段、躍起になって聞き出そうとは思っていなかった。にべもない言い方をしてしまえば、彼女の素性や生い立ちには興味はなかった。

 ただ、今、目の前にいる朱袮という存在そのものに惹かれていた。過去など関係がない。彼女とこうして会話をできる、その事象のみを望んでいた。これ以上の発展など、望むべくもない。望んではいない。

 しかし、その思考を逆へと辿ると、兵吾にとってあまり面白くない酷く単純な可能性が鎌首をもたげる。

 自分はただ、誰かと話したかっただけなのかもしれない、と。

 すっかり疎遠になった学生時代の友人や自衛隊時代の同期の班員のように、気安く語らえる人物を求めていただけなのかもしれない。自分の話を聞いてくれる人を欲していただけなのかもしれない。勿論それとて可能性の一つだ。自身の深層心理について明瞭に断定できるほど、兵吾は自分というものに長じていない。だから確信があるわけではないが、それでも、もしそうなのだとすれば、それはとても失礼で自分勝手なことに思え、日中、自室で自己嫌悪に陥り更に溜息を量産させることがままあるが、それでも夜になれば自然とバーへ向かってしまう。

「本で読んだんだけどさ。シュレーディンガーの猫って知ってる? 崩壊したラジウムがα粒子を放出すると毒ガスが発生する装置を猫と一緒に箱に収めるんだ。だけど、量子力学的にラジウムは崩壊していない状態と崩壊している状態、一対一の重ね合わせの状態にある。つまり猫の生死も一対一、生きている状態と死んでいる状態にあるんだって」

 お互い踏み込んだことを話さないのなら、自然と会話はこういった雑談に傾倒する。正直、多少酔っ払っていなければ口にすることも憚られるような、聞き噛った知識をひけらかした薄っぺらい会話だ。

「へぇ、生と死が同時に存在してるってこと? でも箱を覗けば生きているか死んでるか、どちらかじゃないの?」

 そんな話にも、朱袮は本当に興味深そうに相槌を返してくれる。

「箱の中を覗いて観測してしまった時点で、どちらかの現実に集束するらしいよ。不可視の状態でこそ、箱の中の猫は生きているし、同時に死んでいる。いや、まあ、量子力学的なパラドックスを説いた実験らしいから、現実的にどうこうって話とはまた違うんだろうけど」

「なるほど……。面白いね。猫じゃなくて、人間を箱に収めたらどうなるのかしら。その人は一人、箱の中で死んでいる常態と生きている状態を観測できるわけでしょう」

「俺もそれ考えた。でもやっぱり、あくまでも箱の外から観測する不可視の状態を前提にした実験だから、中の人からしたら死ぬか生きるかのどっちかだと思うよ」

「ああ、そうなるのか」朱祢はカウンターに視線を落とし、俯きがちにくすりと笑う。「ロマンチックじゃないね、ちょっと残念」

 朱袮からの話題もそういった“少し知的で、けれども難しくはない”方面のものが多い。

「兵吾くん、ミルグラムの実験って知ってる? 何十人か実験参加者を募って、一人ずつ一つの部屋へ呼ぶの。その部屋には電流を流すスイッチと指示をする係員のような人がいて、参加者はスイッチを押すように指示される。スイッチを押すとね、隣の部屋から悲鳴が聞こえるの。電流は隣の部屋の誰かに流れているってこと」

「う、うん」兵吾は思わず身を乗り出すようにする。朱袮の話はいつも面白かった。「それで?」

「電流の出力はどんどん上がっていって、悲鳴もどんどん大きくなる。当然、不安になった参加者は係員に尋ねる。けど係員は続けるように機械的に繰り返すだけ。最後には素人目にも明らかにそれが致死量だとわかるスイッチを押すように迫られる。参加者はどうしたと思う?」

「……実験を放棄した?」

 しかし、朱祢はふるふると首を横に振った。

「押したんだよ。戸惑いながらも致死量のスイッチを。実験参加者の内、ほとんどの人達が戸惑いながらも致死量まで電流を流し続けた」

「……本当に?」

 目を剥く兵吾に、朱祢は悪戯に破顔した。表情に乏しそうだという第一印象の通り、朱祢は決して開けっ広げに感情を顕す女性ではなかったが、それは乏しいというよりも控え目といった方が適切な程度には、表情豊かだった。

「本当に。勿論、悲鳴をあげてるのはサクラ、演技でしかない。そのスイッチは電流なんて流していなかった」

「うん。だけど……」

「そう、だけど参加者はそんなこと知らない。自分の押したスイッチで、隣の部屋の誰かに電流が流れているのだと思い込んでいた。それでも、指示されるがまま致死量までスイッチを押し続けた」

「………」暫し沈黙した兵吾は、グラスをとって口許に運んだ。例の如くソルティドッグだ。自分がその参加者でスイッチが目の前にある密室を想像しようとしたが、上手く像を結べなかった。ただ、なんとなく、押してしまうだろうな、とは思った。「まあ、そんなものなんだろうね……」

「そんなものなんだよ。個々人の倫理観なんてものは、殺人の安全装置にならない。係員がいる、指示される、その程度のちょっとした状況次第で、誰でも殺人者たりえる、そういう話」

 朱祢は細いグラスを持ち上げて、薄紅色の液体を含んだ。兵吾と違い、朱祢は色々な酒を呑む。しかし兵吾と同じでさほど好きではないらしい。ではどうして毎晩バーに現れるのか。その理由はまだ聞き及んでいない。

 色白の細い首筋を微かに蠕動させカクテルを飲み干した朱祢はグラスを置いた。グラスの縁は綺麗なままだ。朱祢は口紅を使っていない。

「でもさ、私思うの。この実験はスイッチを押す側の人じゃなく、指示する側の人間、係員にこそ験すべきなんじゃないかって」

「というと?」

「係員はサクラじゃなくって、その役にこそ参加者を宛がうの。何があってもスイッチを押し続けるように指示をする、という指示を参加者に与える」

「ああ、なるほど。でもそうなると、致死量の電流まで指示を続けられる人は、ぐっと少なくなるんじゃないのかな」

「そう、その通り」我が意を得たり、というほどの得意顔ではなかったが、朱祢は満足そうに頷いた。「その部屋には係員とスイッチを押す係りの二人だけ。係員が最上級の立場にある。事前に指示を受けているのだとしても、その部屋に限っては精神的保険が皆無。直に手を下すよりももっと負担の重い役割になる。だからこそ選別できる。ふるいにかけられる」

「選別……?」

 その問いに、朱祢は兵吾をまっすぐに見据えて、名前を褒めた時のような真剣な表情で見つめて、答えた。

「狼と羊を選別できる」

「………」

 思わず兵吾は朱祢の瞳を見つめ返してしまった。半笑いを浮かべかけるが、今度は中々破顔しない朱祢に、内心では少しうろたえながらもすぐに口許を引き締め、黙したまま涼しげな目の中心、漆黒の瞳を見つめていた。

 不意に訪れた来客に、その奇妙な静謐は破られる。

 朱祢の頭越しにちらりと来客の姿を認めた兵吾は、

「――――」

 即座に視線を切り、カウンターの上、自身の両手が握るグラスを凝視した。

 しかし実のところ、見開かれたその目はグラスなど見てはいなかった。映してはいるが、視てはいない。驚倒に心臓を鷲掴みにされ、混乱に思考が凍り付いていた。

 何軒目かのハシゴで、すでに出来上がっているのだろう、連れの二人の男とバカ笑いし他の客から白眼視されているのは、兵吾と交互に注がれる朱祢の不思議そうな視線の先、すぐ背後を通り抜けるその男は、関高久だった。

 一番奥の丸机に腰を下ろし、歩み寄ったウエイターには目もくれず、客なのだから自由に振舞って当然だという態度で一頻り大声で談笑していた。ようやく気付いたという風にウエイターに一瞥をくれた関は、チェンジ、と叫んだ。カウンターの内の女性バーテンダーを顎で示し、あっちがいいからお前どっかいけ、と手を払う。そして連れと笑う。げらげらと。

「どうかしたの? 知り合い?」

「いやっ……。違う」

 終始俯いていた兵吾は朱祢の問いを否定した。先までと同じ調子で喋っても声が奥の席まで届くわけがないとは知りつつも、その音量は消え入りそうなほどに小さかった。

 なぜ関がこの店に現れたのか。自分が通っていることを知り、目掛けてきたのか。意趣返しのきたのか――。勿論、そんなことはない。大都会ならともかく、狭い街だ。駅前の歓楽街で晩くまで酒が呑める店は、決して少なくはないが、それでも二十にも満たない。その二十分の一が今日という日だっただけだ。今もなお、静かな店には相応しくない大声で笑い続ける関を見れば、いや、見なくとも聞きたくなくても鼓膜を振るわせる濁声を聞けば、明白だった。

 兵吾もそれには気付いている。偶然でしかないことは察している。それでも身を硬くし、穴を開けんばかりに手許のグラスばかりを凝視していた。

 ふと関の声が途絶え、暫しの沈黙の後に続く大声に、兵吾は更に身体を強張らせる。

そういやよ・・・・・、こないだバカな・・・新人が会社辞めやがってよ」

 今までの連れとの会話とは明らかに音量が違う。それは先の兵吾の声音と反比例するような、店内中に響き渡るような怒鳴り声に近いものだった。

「宴会でちょっと説教くれてやったらいきなりキレやがって、ガキみたいに・・・・・・喚き散らして逃げやがったんだ。元自衛隊とかいってよ。どうしようもねえカス・・だね、あれは」

 言葉のイントネーションがおかしい。害意を孕んだ部分だけこれ見よがしに強調している。兵吾の後頭部にぶつけられているような言葉だ。

「あんなすかしたカス野郎・・・・・・・・のことだから、きっと今頃、親の脛かじって仕送りもらって、ニート・・・の癖にどっかのバーで女ひっかけようとしてるんじゃねエか!」

 反射的に朱祢を見た。朱祢は何も言わずに、兵吾を見返していた。

「名前はなんていったかなあ。あぁあ、そうだ、犀川だ。犀川兵吾・・・・!」

「――――ッ」

 兵吾は弾かれたように関を振り返った。その挙動は怖気を抱かせるほどに素早く、目だけを見開いた無表情は凍り付いたように据わっていた。

 宴会の席で喧嘩腰になった時同様、関は一瞬、しゃっくりをするようにびくりと肩を揺らしたが、すぐに面持ちを改め、腫れぼったい目許を憮然と顰め、兵吾を睨み返していた。

「………」

 無意識に唾を嚥下えんげした兵吾は、視線を切った。バーテンダーを呼び、会計を済ませる。

 何も言わずに立ち去ろうとした時、ふと背面から朱祢の声が聞こえた。

「あなたは狼。羊じゃない」

 意味がわからない。しかし兵吾には聞き返すことができなかった。振り返ることができなかった。もう、朱祢の顔を見ることができなかった。

 店を出て、夜の繁華街を歩く。ネオン街と呼ぶにはあまりにも薄暗く、道往く人もまばらな歩道を早足で歩き続けた。向こうから歩いてきた若い女の二人連れが物珍しそうに無遠慮な視線を兵吾に向けていたが、表情が窺えるほどの距離に近付くと、そそくさと脇へ避ける。客引きであろうスーツ姿の若い男が人懐っこい笑みを浮かべて兵吾に近寄ったが、俯きがちの顔を覗き込むや否や、ぷいと背を向ける。

 兵吾の表情は関を見据えた時のまま、見る者に恐怖を抱かせるそれのまま、能面のように固まっていた。

 辛抱たまらず路地に入り込み、薄汚れた外壁に正対しほぼ直角に首を曲げて頭頂部を預けた。徐々に呼吸が浅くなり、目を開けているのが辛いほどに目尻が引き攣っていた。やたらに喉が渇き、頻りに唾を呑むが、一向に渇きは癒えない。視界に映る自身の腹の前では、無意識の内に右手が拳を握り締めている。皮膚を破らんばかりに指節が張り出し、甲では血管が隆起していた。ぎゅううぅと湿った音が鳴り、節々が痛むほどにきつく固められ、小刻みに戦慄わなないている。

 息が詰るほどに首には筋が浮き、手だけではなく、頭も痙攣するように震えていた。歯を食い縛り、それに反発するように舌は上顎を押し上げる。耳鳴りが響き、頭蓋の中で血潮が脈打つ。

 リラックスの正反対だ。全身の筋肉という筋肉に、静止状態のままであらん限りの力を篭めようとしていた。衝動に耐えるように、あるいは憤怒を少しでも発散させるように、兵吾は震えていた。

 嫌だった。どうしようもないほどに、嫌で嫌で堪らなかった。

 あの店で、朱祢の前で、関と関わり合いを持ちたくはなかった。ちょっとした挨拶でも、口論でも、乱闘でさえも、どんな類のものであれ、如何に些細なことであれ、あの時あの場所では、関という男と因果関係を作りたくはなかった。

 兵吾にとって朱祢との会話は、いつの間にか大切で、かけがえのないものになっていた。今の日常で唯一食指が動く、興味深く、面白いもの。それが毎夜の朱祢との会話だった。あの場所に行けば必ず会える朱祢という存在だった。

 だけど、もう行けない。

 関が現れ、全てを台無しにした。酒に酔い、二人の連れと同行しているから気が大きくなっていたのか、自身が失禁するほどに怯えていたということなどもう忘れたという風に、兵吾のあることないこと、大声で吹聴してしまった。朱祢に聞かれてしまった。否定せず、居てもたってもいられずに逃げるように店を後にしてしまったのだから、無言で肯定したようなものだ。

「………――ッ」

 兵吾は左手で戦慄く右の拳を握り締め、持ち上げて、手の甲を噛んだ。強張るように強く目を瞑り、呼吸も忘れて咬みつけ続けた。

 人知れず大切にしていたものを、胸の内に秘めていた神聖な場所を、尽く蹂躙されてしまった。

 あの夜、布団を被ってそうしたように、声なき咆哮を発したくなるが、兵吾はぐっと堪えて、帰路に着く。あの夜と違い、今は激情を霧散させるわけにはいかなかった。この状態を保ち続けるべきだと思いなしていた。

 握り締められたまま歩行に揺れる右の手の甲には、歯型が深く刻まれ、燃えるような赤い血が滴っている。

 口内に充満した鉄錆のような血の味。ソルティドッグには似ても似つかない不快な臭いが鼻腔に満ちる。けれどもそれを吐き出そうとせず、舌の上で転がしていた。

 苛立ちを誤魔化すために手慰みでやっているに等しかったある作業、明日の夜、それを実行に移すと、兵吾は決意した。




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