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嵐の中の案山子  作者: IOTA
第二章 契機
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『黒い噂が絶えなかったエレクシオ真理教団ですが、本日午前九時、捜査機関がついに強制捜査に踏み切りました。門前で人垣をつくり抗議を続ける信者達を押し退けて、捜査員達が次々に施設内へと踏み込んでいきます』

 淡く充満する紫煙で薄っすらと白濁したような1LDK。観たくもないテレビが数日で誰の記憶からも消え去ってしまう希薄な情報をおしつけがましく報じている。

 仕事を辞めてからというもの、兵吾は更に時間を持て余すようになってしまった。

 午前八時から午後五時までの勤務時間という概念が生活から消えてしまったのだから、当然だ。拘束時間がなくなり、それに見合って支払われるはずの賃金も得られないわけだが、当面の間は食うに困らなかった。自衛隊に勤めていた頃の給料は、まだ口座に残っている。

 自衛隊は高給を得られるなどという迷信は未だに根強く吹聴されているが、出鱈目だ。高卒で就職できる一般的な企業の給与と較べても見劣りするほどだろう。駐屯地で暮らせば衣、食、住にほとんど金が掛からないというだけであり、散財できるような暇もないから貯まる一方だという話に過ぎない。

 兵吾が一年間貯めた財産は、財産と胸を張れるほどのものではなかったが、それでも中古の軽乗用車の代金とアパートの頭金をさっぴいてもまだ半分以上は残り、今の生活を約一年は続けられるほどの額に達していた。

 だから差し迫った焦りもなく、あんなことがあった直後では殊更気分も乗らずに、兵吾は新たな職を探していなかった。

 煙草を喫い、気分次第で食うや食わず、エアガンを弄り、手慰みでやっているに等しいある作業に興じ、苛立ちを誤魔化しながら、夜を待った。

 夜には例のバーへ赴いた。これだけは変わらない習慣だった。

 この日、入店した兵吾は入り口付近のカウンター席に腰を下ろした。自分の定位置となりつつある奥の壁際ではなく、その対、入り口から数えて三つ目のスツールだ。

 偏に、彼女に近付くためだった。

 座る位置を変えるというこの行動に至るには、相当の逡巡があった。いつものように奥に座り、彼女が来てから隣に移った方がいいのではないか。自分がここにいたら、逆に彼女が奥に向かってしまうのではないか。しかし、少ないとはいえバーテンダーや他の客の衆目の中、大時代的なドラマのような気安いナンパを優雅にこなせる自信は、兵吾には皆無だった。客足が少ないからこそ、珍しい行動は悪目立してしまう。

 これはある種の賭けだ。彼女が奥へ向かうようなら、諦める。もし、近くに座るようなら、話し掛ける。

 勿論、具体的な作戦以前に、このようなナンパ紛いの気概に至るのも、兵吾にとっては相当な敢行だった。仕事を辞め、自暴自棄気味に自堕落な生活を送るようなった、半ば破れかぶれのやけっぱちという心理と、余計に時間を持て余すようになり、どうしようもなく怠惰で退屈な日常に僅かな刺激を求めた冒険心とが、このような行動を後押ししているのかもしれない。

 顔見知りとなったバーテンダーがカウンターを挟んだ対面で会釈を寄越してくる。微笑みを絶やさない彼女に、いつものを、と注文してみようと思ったが、自重した。得られるものがないと予知できる冒険心は、無意味でしかない。素直にソルティドッグとしっかり商品名で注文する。

 すっかり慣れ親しんだ柑橘系の甘ったるさを舌の上で転がしていると、彼女がやって来た。今日は漆黒のパンツスーツ姿だった。

 緊張の瞬間だ。以前に糧にしていた夜のエアガン射撃の時に感じたものとは別種の高鳴りが、兵吾の胸を内から敲いた。そちらを見ないように努めながら、彼女の気配を背中に感じる。暫しの間。彼女の微かな躊躇いを感じ取り、絶望しかけたが、すぐ左隣のスツールが控え目な音を発して牽かれた。

 思わず見遣る。

 少し照れたように薄い唇から八重歯を覗かせた彼女が、兵吾を見返していた。

「ここ、いいですか?」

「は、はい」

 兵吾は無意識的にスツールの座台の裏に右手を滑らせ、少し右にずってしまった。すぐに後悔し、自分を罵りたくなる。ラーメン屋じゃあるまいし、なんだその気遣いは。ましてや彼女に近付くためにわざわざこの位置に座ったというのに自分から遠退くとは。

 思い掛けない近さが、兵吾を奇行に奔らせたのかもしれない。いつもカウンター席の端に座る彼女。至近に座ってくれるにしても余計な圧迫感を与えるのもよくないと思ったので、あえて席一つ分、距離を空けておいたのだが、彼女はいつもの席ではなく、自分から兵吾が空けておいた一つ分へと、兵吾の隣へと座ったのだ。

「あ、あの――」

「いつもありが――」

 奇行の所為で機を失ってしまうことを恐れた兵吾は取り繕うように口を開きかけるが、バーテンダーの言葉と被ってしまった。

 二人を順に見て、忍び笑いを漏らす彼女。バーテンダーも笑っている。兵吾は赤面し、俯きながらバーテンダーに言葉を譲った。

 気を利かせたのか、彼女が注文したカクテルを置くと速やかに離れて行くバーテンダー。

 兵吾は笑顔を作り、極力温和な声色で改めて口を開く。

「あの、俺、犀川兵吾っていいます」

 彼女は目尻と口角に薄い微笑みを宿したまま、丁寧に会釈をした。

「私はくすのきアカネです」

「楠さん……」

 楠アカネ。いい名前だと思った。しかし、いい名前ですね、などと単純に褒めるのはあまりにも有り触れていて、できなかった。

 暫しの静寂。互いに口を噤み遠慮がちに視線を交差させる数秒間を経て、兵吾の心内である重大な事案が突如として浮上する。再び自分を罵りたくなった。会話を何も用意していなかったのだ。近付くことばかりに賢しく頭を巡らせて、肝心の近付いた後のことはまったく考えていなかった。女性に声を掛けるなど、兵吾は生涯で初めてのことである。会話が途絶えるという可能性それ自体を、想定さえできなかった。

 苦し紛れのように、咄嗟に思いついたことを口にする。

「えっと、アカネってどんな字を書くんですか?」

 思いつきにしては決して悪くはないと思えたその言葉だったが、しかし、彼女、アカネは少し困ったような顔をした。何か拙いことを口走ったのだろうか、と内心でうろたえる兵吾だったが、その心理を読み取ったかのようにアカネは小さく頭を振り、苦笑する。

「私の名前、口で説明するのは少し難しいんですよ」

 そう断ると、アカネは胸のポケットから手帳とボールペンを取り出して、適当に開いた白紙のページに自分の名前を書いた。

 楠朱袮。

 トメ、ハネがしっかりとした非常に几帳面で丁寧な書体だった。書道を習っていたのだろうか、兵吾はちらりと思う。

「“アカ”は問題ないんですけどね。朱に交われば赤くなるの朱ですから。問題は後ろの“ネ”」とんとんと“袮”という文字をペン先でつついて、朱袮は兵吾に目を向ける。「わかります? これ幽霊文字なんですよ」

「ゆうれいもじ?」

「はい。衣偏ころもへんを使ったなんて文字は、辞書には載ってないんですよ。でも全国の地名とかにはこの字が使われてる場合があって、その起源は示偏しめすへんの“祢”の誤字なんですって。使われているけど本当は存在しない、だから幽霊文字」

「へえ、面白いですね」ここまで興味深い自己紹介ができる彼女に、兵吾は素直に感心した。「両親が出生書類の字を間違えて市役所に届けたとかですか?」

 しかし、朱袮は薄い微笑を向けただけで、その問いには答えなかった。

「ヒョウゴさんは、どんな字を書くんです?」

「俺のは何にも面白くないですけど、兵隊の兵に、われ思うの吾です。あ、えっと、われってのは自我とかのの方じゃなくて、漢数字の五の下に口の……わかります?」

「ええ、わかりますよ」朱袮は開いたままの手帳、自分の名前の下にさらさらと兵吾と書いて見せた。「吾はつわもの、ですか……」

 自分の書いた文字をじっと見つめるようにする朱袮。その表情が妙に真剣で、怪訝に思った兵吾は問い掛けようとするが、朱袮はすぐに兵吾に向き直った。

「いい名前ですね。すごくいい名前だと思います」

 言えなかったことを言われてしまった。真剣な表情のままでじっと瞳を見つめられ、気恥ずかしくなった兵吾は、そうですかね、と曖昧に頷きながら身動ぎする。恥ずかしさついでに、言いたかったこと言うことにした。

「……朱袮さんも、いい名前だと思いますよ」

 朱袮は面持ちを微笑に改めた。

「ありがとう」

「いえ、俺も、ありがとう」

 途切れ途切れになりがちな会話ではあったが、それでも二時間近くも兵吾は朱袮と会話をした。

 この日、朱袮についてわかったことは、大まかに三つ。

 二十三歳の独身であること。兵吾より少し年上だ。

 この地方都市へは仕事の出張で来ていること。なんの仕事かは聞き出せなかったが、本社は東京にあるらしい。

 駅前のマンションに滞在していること。家具家電付きのウイークリーマンションだという。

 そして、少し変わった自己紹介に起因するものなのか、朱袮さん、兵吾さん、と二人は自然と下の名前で呼び合うようになっていた。





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