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薄暗いバー。カウンターの隅のスツールに一人で座る兵吾は、ソルティドッグという名前のカクテルを啜っていた。
ちらりと店内を見渡す。背後の円卓にはスーツ姿の男達が二人、控えめに会話をしながらグラスを傾けている。その隣には大学生らしき男女が四人、やはり遠慮がちに談笑しながら思い思いの酒を煽っていた。
人間観察。そんな言葉が脳裏を過ぎり、静かに失笑を漏らす。
高校の頃、三年へと学年が上がりそれに伴うクラス替えの直後、担当の教員が各自一分間で自己紹介をするように言った。その時に、趣味は人間観察だと宣うクラスメイトが実に多かったのだ。何かの隠語なのか、流行っているのか、わからなかったが、兵吾は無性に釈然としない気持ちになった。他者の観察を趣味にするとは、あまつさえそれを誇るように宣言するとは、何様のつもりなのか、強くそう思った。
今でもそう思う。けれども、熱中できる趣味らしい趣味がなく、時間を持て余すようになった自分が手本を求めるように無意識的に周囲を観察しているのにふと気付くと、感じ入ることもある。かつてのクラスメイト達も同じような心境だったのだろうかと、ちらりと考えたが、即座に否定した。きっと違うだろう。声高に宣う彼らの心境と自分のそれは、似て非なるものだろうと、兵吾はそう思った。
グラスの周りに盛られた塩を舐め、薄黄色く濁った液体を口の中に放り込む。甘ったるく、舌が粘る。メニューによるとアルコール度数は決して低くはないらしいが、酒というよりもジュースに近いように感じた。
別に酒が好きというわけではなかった。
自衛官だった頃から酒を呑む機会は度々あったが、酒を美味しいと感じたことはない。自分と同年代の若い人間まで酒を指して美味い美味いと口々に言うのが、兵吾には理解できなかった。酔っ払うという感覚を目的に美味くもない液体を飲み下しているようにしか思えなかった。
ソルティドッグを飲み干し、煙草を銜えて火を点けた。煙草も然り、旨いと感じたことはない。苛立ちを軽減してくれるツールに過ぎないと思いなしている。本当に軽減してくれているのか、そこはかとなく懐疑的だが。
カウンターの内にいる女性のバーテンダーが近寄ってきて、グラスを手で示してにっこりと微笑んだ。
兵吾は追従笑いを返し、メニューに手を伸ばしかけるが、何を飲んでも同じだと思った。
「同じものをもう一杯ください」
バーテンダーは笑顔のまま頷き、グラスを取ると離れて行く。
酒が好きでもないのに時折バーに足を運ぶこの行為も、苛立ちを誤魔化すためだけのその場凌ぎ、遣り切れない時間を潰すための足掻きでしかない。
眠れない夜は長い。1LDKの万年床に潜り込み、その内に降りて来てくれるであろう睡魔を待ち焦がれながら天井を見上げる。明日も仕事だ、眠らなければと思うほど、眼が冴え、落ち着かなくなってくる。次第に布団に体温が移って暑苦しくなり、布団を撥ね退けたら、もう駄目だった。未明近くまで眠れない。
自衛官だった頃もそういう夜は度々あった。安普請の二段パイプベッドの下の段で、上段の班員の背を透視するかのようにじっと天板を見上げていた。だが駐屯地ではどうすることもできない。就寝時間を過ぎてしまっては火照った身体を冷やすためにうろつくわけにはいかず、諦めるより他になかった。そもそも毎日のように身体を動かしていた自衛隊時代では、そのような夜は少なかった。満足に運動もしてない今の生活では、ほぼ毎夜のように眠れない。
昨夜、誰もいない公園駐車場で感じた緊張感と高揚感が、懐かしく、恋しかった。それでさえすぐに醒めてしまうと自覚してはいるが、一時的なものであるにしても得られるものがある分、兵吾にはあれが一等ましな時間潰しのように思えた。
銜え煙草の紫煙が目に沁みた。眼球の表面に鋭利な刺激を感じ、目と強張るように瞑る。煙草を口から離そうとするが、フィルターが唇に貼り付いて、伸びていた灰がカウンターに落ちてしまう。
恐るおそるバーテンダーの方に目を遣る。離れたところでグラスを磨いている。気付いていない。灰皿をカウンターの縁に持ってきて、灰の滓を丁寧に払い落とした。
そこで兵吾は気が付いて、苦笑した。何をびくびくと怯えているのか。灰を落とされた程度でバーテンダーが烈火の如く怒り出すとでも思ったのだろうか。妥協的な二次代替策であるにしても、まるでリラックスできていない現状に苛立った。苦笑が嘆息に変わる。
背を丸め、カウンターに突っ伏すように俯いた。目を閉じる。手の中で鋭く呻る得物、畳み掛けるように弾けるプラスチックのカバー、降り落ちる破片、飛び散る残滓、弾道を伝わって体躯に染み入る手応え。兵吾は昨夜に得たものを、手中に、脳裏に、目蓋の裏に蘇らせようとしていた。
唯一金をかけているエアガンにしたところで、趣味とは言えない。戦争はよくないものだと機械人形のように繰り返す日常で、戦争の道具であるところの銃の愛好家、つまりガンマニアなどと宣言すれば白眼視されること請け合いだ。数少ない同好の士と群れ、サバイバルゲームに興じるのも、兵吾は違うように感じていた。法的規制を遵守する範囲で改造が施されたエアガンを用い、何百発もBB弾を装弾できる弾倉をじゃらじゃらいわせながら、被弾したら死体です死体ですと連呼しつつ諸手を挙げて退場する。リアルな銃撃戦を模すために生まれたサバイバルゲームだが、今ではまったくの別種である珍妙なスポーツへと成り果てていると、兵吾には思えてならない。
だから一人、一等ましな時間潰しのために人知れずエアガンを改造し、夜な夜な何かを壊しに出掛けている。けれどもそれが銃刀法違反、器物破損の軽犯罪であることは重々理解していた。だから毎日はできない。警邏の緩い地方都市とはいえ、夜毎に勤しんでいたらいつかきっと捕まるだろう。子供の悪戯、厳重注意で済む年齢ではないことも承知している。
それに、いつかは飽きてしまうことも察していた。軽犯罪といえど毎日繰り返せば慣れて、飽きてしまい、緊張も高揚も感じなくなることを恐れていた。あれ以上の時間潰しを見出せていない今は、いつか必ず訪れるであろうその慣れに怯えていた。
だからこうして、バーの隅で項垂れている。あの時の刹那の高揚感、その残滓でもいいから取り戻そうと、じっと蹲っている。
訪れた新たな来客に、兵吾はそっと顔を起こした。
兵吾の反対側、入り口付近のカウンター席に腰を下ろしたのは、グレーのパンツスーツ姿の歳若い女だった。
ふと、視線が重なり、兵吾は絶句し、固まった。
黒いストレートの髪は肩口まで届かず、短く纏められている。散らされた前髪の間から覗く眉は細く整えられており、涼しげな目元を際立てていた。何よりも目を引き寄せられたのが、薄いファンデーションでは隠し切れない目の下の薄暗い隈。
女もまた、兵吾を見返して、驚いているようだった。その顔立ちを一見しただけで表情に乏しそうだと察することができるが、その乏しいはずの表情に、今は微かな驚きが宿っていた。
バーテンダーに話し掛けられ、女は我に返ったように正面へと向き直る。
兵吾も視線を逸らし、ソルティドッグを啜り、煙草を銜えて火を点けた。
ほどなくして、誤魔化すようにグラスを煽りながら、ちらりともう一度窺い見ると、女はまったく同じように誤魔化すようにグラスを煽りながら兵吾を見返していた。また焦ったように視線を逸らす。
煙草のパッケージが空になったタイミングで、兵吾は席を立ち、出口へ向かう。猫の額ほどの間取りである店内。女のすぐ背後を通り過ぎる時、奇妙な違和感を覚えた。
夜の街、徒歩で帰路に着きながら、違和感の正体に気が付いた。女からは匂いというものがまったくしなかったのだ。肩が触れるほどの距離を通り過ぎたのに、あの年頃でかような身形をした女なら誰しもが発するであろう香水なり化粧品の匂いを、まったく感じなかった。
しかし、女を見た時に自分が驚いたこと、また女も自分を見て驚いていたこと、それに関しては兵吾は違和感を感じていなかった。思考さえしていない。そうであるのが自然であるかのように、無意識的に受け入れていた。
この日から、エアガン射撃は控え、兵吾は毎晩のようにそのバーに通うようになった。毎晩のように、女は姿を現した。会話はない。カウンターの端と端、一番離れた席に腰掛けて、時折視線が重なる。すぐに逸らす。また重なる。またすぐに逸らす。それを二、三度、小一時間も繰り返し、いつも兵吾が先に店を後にする。
嘆息も喫煙も減らない。鬱憤は堆積する一方だった。苛立ちは内を蝕むばかりだった。だが、なぜか彼女が気になって、兵吾の止められないものの中にバー通いが加わった。
「えー、それでは犀川君の入社を祝して、乾杯!」
社長の音頭で、皆が一斉にビールが注がれた小ぶりのコップを持ち上げる。
拍手を受け、立ち上がった兵吾は追従笑いを浮かべながら、ぺこぺこと会釈を返していた。
連発式十度の敬礼。奇妙な言葉が脳裏を過ぎり失笑しそうになったが、噛み殺した。
敬礼と言えば、きっちりと伸ばした右手の指先を側頭部に添える挙手の敬礼が一般的だが、脱帽時にそれをするのは間違いだ。脱帽時には脱帽時用の十度の敬礼というものがある。それは言ってしまえば子細に型が定められた会釈だ。外国人が日本人に対するイメージ像としてメディアに頻出する出っ歯のサラリーマンよろしく、行儀畏まって会釈を繰り返せば、それは連発式十度の敬礼となる。
割烹料理屋の奥座敷、印刷工場の約二十名の社員で貸切になった宴会場、兵吾はビール瓶を持ち、先輩達に注いで回った。二言、三言、テンプレートな挨拶をして、次の人へ移る。この行為もそれに伴う雰囲気も、好きではなかった。居た堪れない気持ちになる。 兵吾は、職場でもさほど口数が多いわけではなく、愛想も良い方ではない。ただ、話しかければ笑顔で応じる、いわゆる大人しいやつだと認識されており、実際その通りなのだろうと、兵吾も自己分析する。大人しいやつにとって、話したこともないような人に酒を注いで回るのは、苦痛でしかない。自衛隊での宴会ではそれでも大勢の同期がいたので、これほど苦痛ではなかった。
しかし、社長からあのように述べられ、歓迎会と銘打たれている以上、じっと座っているわけにはいかなかった。その実、半端な時期に中途採用で入社したただ一人の新人のために歓迎会など催さないことは知っていた。毎年この時期には暑気払いと称して呑み会が開かれており、これ幸いとばかりに名称を取って変えただけに過ぎない。
席に戻り、周囲の談笑に追従笑いを振りまきながらも、気を遣う。最初の折に酒を注げなかった人の動向を注意深く観察し、コップの中身が減ろうものなら、ビールないしウーロン茶を片手にさっと席を立つ。後日、自分は酌を受けなかったなどと憤慨されることばかりに気を揉んでいた。
「犀川くん。前、じえーたいにいたんでしょ?」
工場には女性も多い。酒を注ぐため背後に座った兵吾に、妙齢の痩せ過ぎの女が猫なで声で訊いてくる。
「ええ、まぁ、はい」
兵吾は曖昧に頷いた。
この話題が好きではなかった。一年ほどのバイトで除隊してしまった身としては、誇らしげに肯定できるはずもない。事情を知らない人達から見れば、負け犬だと、辛くなって逃げ出したのだと、そう思われるだろうし、行きたい科に進めなかったという理由を話したところで経験者しか想像できず、やはり言い訳にしか聞こえないだろう。除隊する時に一生そのように誹られることもあるいは覚悟していたが、やはり気分のいいものではない。それに、この話題は兵吾がもっとも忌み嫌う方向へと矛先を転じる危険性を秘めていた。
「じゃあさ、ねぇ、筋肉見せてよ、筋肉」
「えっ? いやいや、勘弁してくださいよ。俺なんて全然ですよ」
言いながら、話題が警戒していた方向へと向かわなかったことに安堵する兵吾。
女に強請られ、周囲の女性陣からも囃し立てられ、渋々シャツを捲って腹回りを晒した。ソフトマッチョだとか、エロい身体だとか、嬌声を挙げながら腹筋やら胸板やら、乳首やらを撫でられる。別段、気分は悪くなかった。身体を撫でられていることが、ではない。大人しい自分にもフレンドリーに接してくれる人が多い職場は、素直に好ましいと思えた。こういう席も、存外悪いものではないのかもしれないと、そんな風に考えた。
だが、女性陣の隣の席で一人、むっつりとした表情でビールを啜っていた男の一言で、和やかな空気は凍り付いた。
「なあ、お前よ、仕事やる気あんのか?」
関だった。部長であり社長の一人息子にして次期社長と目されている、関高久だ。
突然のことだったので意味がわからずに停止する兵吾をちらりと一瞥して、関は続ける。
「この一週間、仕事憶えたか?」
「いや、あの……」
「あのじゃねえよ。憶えたかって訊いてんだよ」
「いえ、すいません。まだ……憶えられません」
「だろうな」関は嘲笑うように鼻を鳴らす。「だってお前、何も訊いてこねえんだもん」
「え?」これには兵吾は目を剥いた。
「ずーっと押し黙って金魚の糞みたく俺の後付いて来るだけでよ、全然訊こうとしない。そんなんで憶えられるわけねえだろ」
「いや、だって……」
見て憶えろと言ったのは自分じゃないか、という反論は兵吾の心の中だけで発された。
勢いづいたように関はくだを巻き続ける。
「お前には熱意ってものがないんだよ。早く仕事を憶えようって熱意が。見てるだけで憶えられるわけねえだろ。これはどうなっているんですか、それはどうするんですかって、訊かなきゃ何も判らないだろうが。それともお前、見てるだけで憶えられるのか?」
「いえ、だから、でも――」
「でもォ!? でもなんだよ!」
兵吾が訥々と継ごうとした否定的な言葉に、途端、関は激昂したように片膝をついて立ち上がろうとした。
「――――」
ぴくりと、兵吾は自分の鼻梁が疼くのを感じる。動こうとした関に対して、自分も反射的に動こうとしているのに気が付いた。動いた後に何をするつもりなのかはわからなかったが、喧嘩腰で向かってくる相手に対してこちらも真正面から前進しようとするのであれば、それはきっと穏やかな手段に頼るものでは決してない。
それを気取ったのか、関は浮かしかけていた尻を座布団に戻した。一瞬だけ、窪んだ眼窩に収まる小さな眼球がちろちろと泳ぎ、顔が引き攣っていた。
「と、とにかくよ。お前、明日からもそんな調子だったら、もう来なくていいから」
「………」
言葉を失い、俯く兵吾。こんなことがあった直後、明日の朝からはこの男に教えを乞い、フレンドリーに接している自分はとてもではないが想像できなかった。関が懇切丁寧に教えてくれる場面も同様だ。それができないなら、部長は、次期社長はもう来なくてもいいと同僚達の前で宣言した。
項垂れる兵吾を受けて、現金に気勢を取り戻した関は、怯えさせられた意趣返しをするように捲くし立てる。
「若いからってちやほやされて、いい気になってんじゃねえぞ。言っとくけど、うちの会社で勤まらないようだったらどこにいったって同じだからな」
関の言葉は、ただ妬みに因る感情任せの罵倒であり、先輩が後輩に行うべき叱責とはまるで別種のものであることだけはわかった。
腹の底から、長い間堆積し続けていたもやもやとした何かが込み上げてくる気がした。
黒い煙のような、赤い渦のような何かだった。下半身が遠退き、腹が波打つ。
「やる気もない熱意もない、お前みたいなやつ、社会は求めてねえんだよ。お前みたいなやつをなんて呼ぶのか教えてやろうか? 給料泥棒っていうんだよッ」
先輩として後輩への指導を怠るばかりか、あまつさえ当り散らすこの男は、給料泥棒以上に社会にとって害悪であるように感じた。
下腹部を這い上がり、肺にまで達したもやもやとした何かが蠕動し、肺胞を埋め尽くしていく。
自分がどこにいるのかも定かではなくなっていた。ただ、端から醜い形相を更に醜く歪めた関だけがいて、関を凝視している眼の奥がちかちかして、首には筋が浮いた。知らず、砕かんばかりに奥歯を噛み締めていた。
「つーかお前よ、本当に自衛隊だったのか? お前みたいな根暗で覇気のないやつ、よく自衛隊に入れたな。どうせ自衛隊でもそんな調子だったから、すぐ辞めちまったんだろうがッ」
これだった。元自衛官の兵吾がもっとも忌み嫌う話題。自衛官は漏れなく精強ではきはきとした好青年。自衛隊について何も知りはしない者の多くがそんなイメージを持っているが、兵吾は強烈に思う。何を知ってそんな口を叩くのだと。経験していない者が、経験者に向かって御託を並べるとは、無知な杓子定規に当て嵌めて個人の人格を否定するとは、あまりに馬鹿馬鹿しくて、腹が立って、吐き気さえ覚える。
気管まで満たしたもやもやが喉元まで込み上げていた。限界だった。
吐き出す。それは盛大な嘆息となって、関の呪詛を止めたばかりか、鋭い舌打ちにも変質し宴会場に響き渡る。
関だけでなく、哀れむように兵吾を、冷ややかに関を見ていた同僚達の表情が、放心したように硬直する。張り詰めたような静謐の中、兵吾は酷く平坦な声音で言い放った。
「おい、うるせえよ、殺すぞ」
四肢の付け根に溜まった真っ黒な靄が、暴れまわれと兵吾を駆り立てる。絆されるままに片手に握り締めたままだったビール瓶を振り上げ、テーブルの角に叩きつけて割った。飛び散ったビールに濡れる腕も、女性陣の悲鳴も気にならなかった。一向に衝動は治まらない。どころか秒毎に倍加していく。
ふらりと、割れて先端が鋭利になったビール瓶を持ったまま、関に近付いた。
「ひ」
小さな悲鳴を発して、関は肩を揺らす。
兵吾は、ビール瓶の切っ先を関の扁平した鼻に突き刺して、床に組み伏せ、ぐちゃぐちゃにしようとした。悲鳴と絶叫と懇願を聞きながら、豚のような眼球を抉り、無駄にハスキーな声を発する舌を引きずり出して、脳漿が飛び散るまで頭蓋を殴打しようとした。
だが、不意に鼻を突いた饐えたような臭気に、振り上げた手を止めた。
関が失禁していた。両手を後ろに投げ出して、尻餅をつき、開いた股座が黒く染まり、湯気があがっている。座布団に染み込み、畳にまで薄黄色い液体が伝う。小さな目を精一杯見開き、頬の肉を震わせ、ぽかんと開けた口はあぅあぅと喘いでいる。
それがあまりに惨めで、醜くて、兵吾はビール瓶を振り下ろした。
「フがっ」
豚のように鼻を鳴らす関。
ビール瓶の先端は、関の右足のすぐ近く、畳に深々と突き刺さっていた。
兵吾は屈み込み、真正面から関を見据える。
「そのぶっさいくな面とクソみたいな性格ひっさげて、これからも生きていくがいいさ。ぶっさいくな嫁さんと子供がいつ愛想尽かすか、見ものだな」
立ち上がり、踵を返して広間を横断する。
襖を開けたところで振り返り、終始怯えるようにおろおろしていた社長を一瞥した。
「お宅のどうしようもないぼんぼんとよろしくできる自信がありませんので、俺、明日から来ません。未払いの給料は要りません。代わりに制服も返しませんよ、面倒くさいんで。引き裂いて棄てます。まだ試用期間なんで問題ないですよね」
継いで、水を打ったように静まり返る約二十名の元同僚達を見渡すようにする。
「一つだけアドバイスさせてもらうと、こんなクソみたいな野郎が次期社長の会社なんて、どう贔屓目に見てもぶっ潰れるのは目に見えてますから、早いとこ辞めた方がいいと思いますよ」
驚くほど饒舌だった。考えずとも流れるように言葉が口をついて出てきた。なんてことはない。入社以降、腹に溜め込み続けていた悪態を皆に向かって吐露しているだけだった。
「それじゃあ、短い間でしたがお世話になりました」
ぴしゃりと、思い切り襖を閉める。木の枠が壊れて外れたような気がしたが、気にしなかった。何も考えず、考えられず、前だけを見て、廊下を歩き続けた。
部屋に帰った兵吾は、まず煙草を銜え、火を点けた。
火口が真っ赤になり、じじじと酸素の爆ぜる音が鳴るほどに強く吸った。口内の紫煙を気管に流した時、咽にひりつくような鈍痛を覚えたが、構わずに吐き出し、間髪を容れずに再びフィルターを口元に運ぶ。
それを二、三度繰り返して、伸びた灰を灰皿に落とそうとするが、その時に――
「――ッああああああああああ゛」
何かが瓦解し、吼えた。
吸殻で山盛りになったアルミの灰皿に左手で摘んだ煙草を荒々しく突き刺す。中途半端に硬質化した火種の潰れる濁った音が鳴る。吸殻が跳ね、灰が舞い上がった。手が、フローリングの床が汚れるが、構わずに手を振り下し続けた。摘んでいた煙草はいつの間にかどこかへ消え、灰皿を拳で殴りつけるようにしていた。
衝動は治まらない。跳ねた灰皿が床に落ちる高音、自分が発信源だというのに、それが堪らなく耳障りで、無駄だと嘲っているようで、兵吾は灰皿を掴みあげると、壁に思い切り投げつけた。石膏ボードの壁面がへこむ。転がる灰皿を追いかけ、何度も踵で踏みつけた。揺れたカーテンが左手に触れる。自分を宥めようとしているようで、止めようとしているようで、凄まじく邪魔に感じ、鷲掴みにすると、乱暴に引っ張った。ばつんばつん、とレールから小さなプラスチックの滑車が弾け飛び、半端に外れたカーテンがだらりと垂れた。
兵吾は、躯の内側に充満するもやもやを少しでも吐き出そうと、四肢の隅々にまで行き渡ったもやもやを振り払おうと、獣の慟哭のような濁点混じりの母音を発し続け、苦痛にのたうつかのように手当たり次第に暴れまわった。
強くドアをノックされ、隣の住民から苦情を言われた。何かがすぅっと醒め、ふらりとドアに近付く。醒めた脳裏に思い描くのが外の住人を部屋に引き摺り込んで顔を滅多打ちにしている場面だと咄嗟に気付き、衝動を必死に抑え込み、ドア越しに平謝りをした。
それからは頭から布団を被り、声を出さずに絶叫の代わりの呻き声を喉の奥から迸らせた。シーツを噛み千切り、引き裂いた。思い出したように工場の作業服を引っ張り出してきて、素手で力任せに断裁した。
後悔していた。今灰皿にそうしたように、胎児のように身体を丸める関をビール瓶の切っ先で滅多刺しにできなかったこと、豚のような懇願と悲鳴と断末魔を聞けなかったこと、哀れに過ぎる失禁に萎えてしまったこと、強く後悔していた。外灯のカバーと関の頭部がかぶる。あの顔面に風穴を穿てたら、撃ちまくってぼろぼろに破壊できたら、さぞ爽快だろうと、そんな衝動がじりじりと胸の底を焦がした。
静かに、一晩中吼え続け、一晩中暴れまわった。
無惨に裂かれたカーテンの隙間から、黎明の光が射し込み始めた。淡く白い光の中、荒れ果てた部屋の中心で疲れ果て、座り込んだ兵吾は呆然と中空を見上げていた。
波がひくように、あるいは動悸のように、激しい衝動は去来を繰り返しながら徐々に弱くなり、いつしか霧散していた。しかし、取って代わるように襲来したのは、淡く大気を覆い尽くす暗雲のようなお馴染みの苛立ちだった。
ただ、喉からひり出される溜息は、いつもよりも厚く、熱く、より濃密なものへと成り果てていた。
「……――ッくそ」
霧散したはずなのにともすれば再び爆発しそうになる衝動を、疲弊し切っているはずなのに些細な拍子で暴れ出そうとする四肢を、貧乏揺すりと嘆息で誤魔化しながら、煙草のパッケージから犬歯で噛むようにして一本抜き出す。百円ライターを近付け、親指でスイッチを押し込む。固い。
今までさんざ繰り返してきた何気ない所作であるはずなのに、子供の事故を防止するために嫌に重くなったスイッチを初めて不快に感じた。極一部の人間のためにその他多数に不自由を強いる社会が、どうしようもなく不愉快だった。
噛み千切らんばかりにフィルターを噛み締め、火を口許に寄せる。しかし、煙草に点けようとはせず、兵吾はじっと小さな火を見つめていた。徐に口許から目の高さまで持ち上げ、観察する。
根元の蒼い火、中間は暗く、鏃状の先端は鮮やかなオレンジ。風のない部屋だが、兵吾の吐息に煽られゆらゆらと揺蕩う。
黒い瞳に輝く橙色を映しながら、兵吾はそこでふと、気が付いた。
聞くに堪えない関の罵詈雑言を浴びせられ、限界を迎えた時に吐き出した嘆息は、いつものものとはまったくの別物であったと、格別であったと、今になってそう感じた。一瞬のその場凌ぎにもなりはしない嘆息と違い、すうぅっと本当に胸がすくようだった。
そしてその直後、舌打ちから続く一連の言動、得体の知れない、けれども激しい衝動が身体を頭を衝き動かされていた時、元同僚達の衆目の只中でビール瓶を叩き割り、関を殺そうとしていたあの時、他の物への八つ当たりではなく、衝動を生み出した元凶である関に暴力をぶつけようとしたまさにあの瞬間、数分にも満たなかったがその間だけは、常に感じていたもやもやとは無縁で、爽快で、痛快だったと。
小さな火を羨望の眼差しで凝視する兵吾には、そう思えてならなかった。
この日、夜通し続けた咆哮は、獣の慟哭ではなく、断末魔でも勿論なく、産声であったという事実を兵吾自身が気付く日は、そう遠くはない。
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