3
深い深い夜の底、牧場と荒野の境界に一つの案山子が立っていた。
腐ったかぼちゃの頭に襤褸の帽子、涸れたススキの手をはやした不細工な案山子だ。
ごうごうと強い風が吹き荒れ、大粒の雨が打ちつけている。案山子は突風に翻弄されながら、一本足で辛うじて踏みとどまっていた。
空には星明りひとつなかったが、案山子の足許の鬱蒼とした草叢のなかには、無数の妖しい光の粒があった。ぎらぎらと脂ぎった鈍い光をはなつそれは、眼だった。血に飢えた狼が数えきれないほど犇めいていた。
やがて彼らは案山子を置き去りに疾走し、黒い怒濤となって背後の牧場で羊を襲い始めた。
荒野を俯瞰しながらも晦冥の草叢を見通す目を持たず、牧場に背を向けた案山子はただ突っ立ているしかない。狼の吠え声と羊の鳴き声が錯綜するなか、案山子は風に煽られぎしぎし、ぎしぎし揺れている。何者にもなれない我が身を呪い、もだえるように。
かぼちゃに疵をつけただけの顔は笑っているのか泣いているのかもわからない。ただ、その顔をつたい落ちる雨粒の筋は涙のように見えた。
硬い何かに頬をぶつけ、兵吾は夢から目覚めた。
夢を見て、その内容を憶えているのは何年ぶりになるだろうか。間違いなく初見であるはずなのに、どこか懐かしく、胸の底が締めつけられるような、奇妙な夢だった。
目覚めても目の前は真っ暗で、息苦しかった。黒い布のようなものを頭からすっぽり被せられているようだ。鈍い騒音が絶えず反響している。突発的な縦揺れが襲ってきて、横たえた身体が一瞬宙に浮き、再び側頭部を床に打った。
兵吾はうめきながらここは走行中の車内なのだろうとあたりをつけた。恐るおそる上体を起こす。それができるということは乗用車のトランクではない。バンかトラックの荷台のようだ。
両手と両脚を拘束されている。じゃらじゃらとした金属音から、手錠であることはわかった。じっと息を殺し、この空間には監視役がいないことを確かめてから、両脚を折り曲げ、縄跳びの要領で手錠を通して、両手を身体の前に持ってくることに成功した。
被り物はプラスチック製のバンドのようなもので首の部分を絞られていて取ることができない。いくら爪をたてても破くこともできなかった。
揺れに苦心しながらも手探りで這いまわり、出口を探す。なんとか立ち上がって壁に触れてみても窓らしきものは一つもない。やはりトラックの荷台か。
しかし、左右の壁面にはベンチのような腰掛けが向い合せで並び、探り当てることができた後部ハッチの取手はレバーではなく、通常のワゴンのように手をひっかけるタイプのものだった。おそらく特殊な車輛なのだろう。勿論、ハッチは引いても押してもびくともしなかった。
不意に車が停車し、兵吾はひっくり返った。何かが軽い音をたてて床を転がり、身体にあたる。拾いあげると、ペットボトルのようだった。しかし軽い。中身は入っていない。その意図はすぐにわかった。尿瓶の代わりということだろう。
そう思いあたった途端に尿意を覚える。喉はからからに渇いているというのに、不思議なものだ。構わずに床にぶちまけてやろうと思ったが、ペットボトルがくしゃくしゃに柔らかい飲料水用のものであることに気づいて、考えなおした。小さな飲み口にあてがい、長々と注ぎこむ。
車が再び走りだした。兵吾は溜息を吐き、固い腰掛けの一隅に座りこんだ。剣呑な連中に命を掌握され、握り潰されるのも時間の問題となった今、もはやできることといえば、生温かいペットボトルを持て余しながら考えることだけだった。
もっとも、考えることもそう多くはない。
特別な感傷さえ湧いてこない無意味で無価値な自分の命について。
朱袮について。
そして長友に見せられた写真の朱祢について。
しかし、ある可能性に思い至った時、兵吾は被り物のなかで静かに笑った。
身体が右に左に引っぱられるような連続した横揺れ。立体駐車場の螺旋スロープを昇っているようだった。直後、車が停まった。壁越しにパーキングブレーキを引く音が聞こえたので、信号待ちの一時停止ではない。目的地に着いたのだろう。
再び手錠を跨いで横になり、たぬき寝入りをしようかと兵吾はちらりと考えたが、そんな陳腐な手が通じる相手ではないだろう。そのまま座っていることにした。
ハッチが開かれ、光と新鮮な空気が流れこんでくるのが被り物越しでもわかる。
「おはよう、犀川くん。いい天気だよ。こんな日に死ねるなんてうらやましいね」
底抜けに明るい長友の哄笑に頭痛を覚える。兵吾は被り物のなかで歯を食いしばった。久しく、純粋な怒りから殺意を抱いた。
「ほら、これ」
言って、長友は何かを放ったのだろう。太腿に固いものがぶつかった。手探りで拾う。小さなニッパーのようだ。
両手が前にある状態でいるものだから、近寄ることを警戒したのか。自分でやれということらしい。いや、そもそも尿瓶代わりのペットボトルが転がしてあったのだから、兵吾が目覚めていることまで折りこみ済みだったのだろう。
首のプラスチックバンドを切って、被り物を取り去った。ゆっくり目を開ける。ぎょっとした。観音開きで外側に開けはなたれたハッチの正面、碧く澄みわたった空を背景に人型の影が立体となって佇立していた。
黒に限りなく近い濃紺のフライトスーツに、胸部と腹部にパウチのついた黒い抗弾ベスト。頭にはフリッツヘルメットを被り、顔までフェイスマスクで隠してある。腰に捲いた弾帯のホルスターからは自動拳銃が特徴的な滑らかな後端をのぞかせていた。SIG/SauerのP226だ。
戦闘服の男はフェイスマスクから唯一露出した目をにんまりと歪める。その細い目と、そこからのぞく肉食獣を思わせる小さな眸を見て、ようやく兵吾は目の前の男が長友だと確信を得た。
「どう? きまってるだろ。こっちが本当の姿ってわけ」
長友は諸手を腰にあて、胸を張るようにした。笑わせようとしているのか。あいにく宇宙人が人間の仕草をまねているような不気味さしかない。兵吾は無表情のまま長友から視線を切った。
「おや? つれないなぁ」
長友の言葉を無視して、血反吐と涙と鼻水でごわごわになった自分の顔を両手で擦る。少し触れただけで鼻に激痛が奔った。やはり折れていたようだ。被り物がなくなっても息苦しいのは鼻腔が変形しているからか。
映画などでは鼻の軟骨を無理矢理もとの位置になおす荒療治が散見されるが、どのような折れ方をしているか知れたものではないので、兵吾は痛みを堪えて血液まじりの鼻水を吸い上げ、床に吐き棄てるに留めた。
「おいおい。出動車を汚してくれるなよ。おしっこはちゃんとペットボトルにしてくれたみたいなのに」
「だったら痰壺も用意しとくべきだよ」
「はは。すげえ不敵な第一声だね。……随分と落ち着いてるし、どういう心境の変化かな? 死を目前に達観でもしたのかい?」
兵吾は呼吸がいくらかましになった鼻を鳴らす。心境の変化は確かにあった。考える時間はたっぷりあったのだ。しかし達観したというよりも、諦観に近い。
命への諦観であり、状況への諦観だった。命に意味はない。しかし、この状況。朱袮にアパートに放置され、こうして猟犬に捕えられ、自分の知るかぎりを自白したことには、意味があったのだ。
手中のニッパーに視線を落とす。それは小さく、手錠の鎖は断ち切れそうになかった。爪切りぐらいの役にしか立ちそうにない。
腕を束ね、フェイスマスク越しにわかるほど面白そうに兵吾の様子を観察している長友も返せとは言ってこなかった。檻のなかの猿が棒切れを持っていることに危機感を抱く人間はいないだろう。
「ところで犀川くん。アイドルとか好き?」
あまりに突飛な長友の質問。意味がわからず、兵吾は目を細めた。
「ほら、あの現役学生のアイドルグループ。名前なんだっけ? 忘れちゃったよ。まあ、いいや。今日はそのアイドルの野外ライブがあってね。実はこの立体駐車場から、その会場を見おろせるんだ」
兵吾は二日前に観たニュース番組を思いだした。熱狂的な人気を誇る中高生アイドルの特集。コンサートを二日後に控えると報じていた。つまり今日である。
「本当はここもアイドルオタクで溢れかえってるはずなんだよ。国家権力の人払いで特等席ゲットってわけ。それでも屋上フロアしか確保できないってんだから、まったく、平和ボケもここまでくると笑える」
長友は気だるげな嘆息を吐いた。
「戦争反対もご立派だけどね。戦争は変わったんだ。テロとの戦いという、おそらく未来永劫終わることのない第三次世界大戦さ。やつらは国境なんて柵を軽々と飛び越えて、組織なんて枷にも縛られず、あらゆる場所にあらゆる手段で奇襲をしかける。実体のない悪の秘密結社の実現だよ。だけど、どこからともなく現れて、そいつらをやっつけてくれる戦隊ヒーローはいない」
なぜアイドルからテロの話になるのか。飛躍も甚だしい。意図はまったく読めないが、兵吾は黙って耳を傾けた。長友の声音と眼差しに宿る深い翳の裏には、今回の騒動の核心のようなものが見え隠れしているように思えたのだ。
「今や世界中が戦場なんだよ。そこに例外はない。……もちろん、我が国もね。標的として名指しされてるし、すでに邦人が殺されてる。銃弾がびゅんびゅん飛び交う戦場で銃も取らずに突っ立ってるなんて、それは平和主義者じゃない。ただの間抜けさ。きみもそう思うだろ?」
突っ立っているという言葉から、なんとなく、先ほど見た夢を連想した。柵の中で何も知らずにいる羊。闇に縁に立ちながら何も知ろうともしない案山子に彼らを罵る資格はない。
「平和ボケの間抜けに銃を掴ませるためには喝をいれてやらないと。一度痛い目に遭ってもらうのが一番効果的だ。そこで、我が国が誇る世界でも最大規模の新興宗教、エレクシオの出番だよ」
「エレクシオ……」
「そう。きみは楠さんラブで加担していただけだろうから、ピンとこないかもしれないけど、宗教ってのは恐ろしいもんだよ。狂信する神の名のものに死を厭わずに殺しあう。今も昔もまるで変っていない。……たとえば、世間から散々叩かれて鬱憤が溜りに溜ったところで、頭の軽いメスガキにまで侮辱されたら、狂信者の皆さんはどうなるか。当然、爆発するだろう?」
「メスガキ……」呟いて、すぐに思いあたる。「例のアイドル?」
「察しがいいね。彼女たち、こともあろうにラジオでエレクシオを馬鹿にするネタを喋ったらしいんだ。それをファンが面白がって囃し立てたもんだから、まあ始末に負えない。一種のネガティブキャンペーンなんだろうけど、今じゃあ居直って、公式ブログで堂々とエレクシオをバッシングしてる」
教団幹部の立場を利用して悪行を繰り返していたという関高久。末端組織として入信希望者の女学生を食いものにしていた暴力団。そして暴力団事務所で朱袮の話に出てきた暗部の処刑隊。エレクシオが腐敗し、過激な側面を持っているのは兵吾も知るところだった。
長友の国憂と追いつめられたエレクシオ、そしてエレクシオの恨みを買うアイドルの野外ライブに完全武装で張りつく理由。頭のなかで点と点が線で結ばれ、ある構図が描かれていく。外では、何も知らない羊たちの歓声と熱狂が轟き始めた。
「始まったみたいだね」背後を瞥見した長友は、兵吾に向きなおりくぐもった忍び笑いをもらした。「結論から言うと、このライブでエレクシオがテロを起こす。標的はアイドルとそれに群がる群衆。無差別テロだね」
「……あんたたちはそれをやっつける影の戦隊ヒーローってわけか」
「すばらしい。殺すのが惜しくなってくるね。武装したエレクシオの処刑隊が乱入して、史上最悪の国内テロというステージが出来上がったところで、俺たちが華麗に騒動を畳むってわけさ。それで晴れて我が部署の必要性が認められる」
「そこまでわかっていながら、あえてテロを起こさせるのか。未然に防ぐこともできるはずなのに」
「おいおい。今さら眠たいこと言わないでくれよ。未然に防いでも意味がないんだよ。言っただろ? 喝をいれてやるって。多少の流血がなければ平和ボケの意識は変わらない。それに、実はきみの想像よりも俺たちはもうちょっと性質が悪い」
すでに長友らの印象は最悪だが、これ以上悪くなることなどあるのか。兵吾は眉間に皺を寄せた。
長友は目を伏せ、小さくかぶりを振りながら再び笑った。兵吾への嘲弄だけでなく、自嘲も含まれているように感じられた。
「今回の作戦のために、俺たちは長いことエレクシオの過激派の動向をマークしてたんだ。処刑隊が今回のテロのための武器調達を一任していたのが、末端組織としてエレクシオに吸収されたある田舎暴力団、その幹部だった」
呆れた仲介組織。末端組織の腐敗。暴力団事務所にて、今わの際の男に向けて朱袮が吐き捨てるように言った言葉が克明に脳裡に蘇った。兵吾は目を見開いて長友を見つめた。細い目を弓なりに歪めた長友はゆっくりと顎を引いた。
「そう。そこで話はきみたちに繋がってくる。処刑隊の武装化を担っていた暴力団事務所が取引直前の計ったようなタイミングで襲撃されて、皆殺しにされた。いやあ、正直あせったよ。政府も一枚岩じゃなくてね。俺たちのような暴力装置の設立を快く思わない連中もいるようなんだ。そいつらに出し抜かれたんじゃないかって」
そこでもう一人の戦闘服の人物が長友の横から現れた。等しく完全武装の黒づくめだったが、背格好とフェイスマスクから覗く大きな目から、神庭だとわかる。
「班長。我々もそろそろ配置につきましょう」
「もうちょっとだけ。すぐ済むから。まだ処刑隊は貸しビルに潜伏中でしょ?」
「そうですが。しかし……」
「偵察班の連絡があってから配置についたって十分間に合うって」
神庭はさらに反駁しかけたようだったが、呆れたように嘆息し、兵吾を一瞥して離れていった。ハッチの正面、兵吾からも見える位置にある屋上駐車場の縁には、黒い装備のようなものが一塊になって用意されており、神庭はそこにあった狙撃銃と思しき長身銃を手に、腹這いになった。
「彼女、狙撃手なんだ。意外だろ? 繊細な仕事だってのに慌てんぼうで、すぐに拳を使いたがる。まったく、困ったもんだよ」
言いながら、長友は腰のホルスターからP226自動拳銃を抜いた。突出した銃身には減音器がねじこまれている。国内の警察部隊ではありえないそのアタッチメントは、彼らの昏く汚れた部分を物語っているようだった。
「話を戻そうか。政府は一枚岩じゃないって話だけど、エレクシオも然りでね。まだいちブログにすぎなかった頃からの聖女信奉者と新参組とで内部抗争が勃発しててね。その側面から事務所襲撃を調査したら、すぐに楠朱祢にたどり着いたよ」
長友はP226の撃鉄を起こした。死の宣告というにはあまりにか細い精緻な金属音。しかし兵吾の意識は現実にはなく、思うのはやはり、朱袮のことだった。
――私はオリジナルメンバー。聖女の教えを身に刻む、原初の信奉者。
語呂のいい、憶えやすいように考えられたようなその言葉。
定められた台詞を棒読みするようなその平坦な声音。
「すぐにきみにも行き着いた。武器密売とはなんの関係もない関高久という教団幹部の殺害にもね。そこにきみの“情報提供”が加わって、俺たちは胸をなでおろしたわけさ。まるで俺たちの計画を阻むような動きは、教団の内部抗争の一端にすぎなかったってね。処刑隊に武器を流したという気がかりもなくなった」
長友がさらりと言ってのけた言葉に、兵吾は耳を疑った。
「武器を流した……?」
「だってしょうがないじゃん。テロを起こすにも得物がないとね。頼みの綱の暴力団はきみたちに潰されちゃったし、なら俺たちが献上するしかないだろ。いや、実際楽じゃなかったんだよ。華僑の武器商人を装って連中と接触するのは。時間もなかったし、何より笑いをこらえるのに必死さ」
「そんな……マッチポンプじゃないか」
「きみの想像より性質が悪いって言っただろ? それに、なにもテロを唆したわけじゃない。決行するのは連中の自由意志さ。きみは包丁を使った殺人事件が起きたら、その包丁を売った金物屋を責めるのかい?」
屁理屈にもなっていない。ただの諧謔だ。長友も言い逃れするつもりはないのだろう。完全に居直っていた。そもそも兵吾も善悪を語れる立場にないのだ。正直なところ、彼らがどんなに悪党であろうと、今回の騒動の裏にどんな思惑が渦巻いていようと、兵吾にはもうどうでもよかった。
「さて、積もる話もそろそろ尽きた。何か言っておきたいことはあるかい?」
長友の人を不愉快にさせるにたにたとした微笑は収まらない。きっとこの男が種明かしをしたのは、兵吾の落ち着いた態度が気に入らなかったからなのだろう。死にゆく兵吾の精神を少しでもかき乱してやろうとしたのだろう。
命乞いでもすれば長友の加虐欲求を満たしてやれるのかもしれないが、そんなつもりは毛頭ないし、気の利いた辞世の句など何も思いつかなかった。
左手のペットボトルと右手のニッパーに視線を落とし、しばらく考えてから、兵吾は口を開いた。
「……朱袮さんの居場所について目星はついてるのか?」
「残念ながらさっぱりだね。第一、彼女の捜索はもう俺たちの仕事じゃない。まっとうな警察に任せてあるよ。まあ、きみの自白にあった最後の大仕事は気にならないでもないけど、彼女の標的はあくまでもエレクシオだからね」
言いながら、長友はズボンのポケットを探り、取りだした紙切れを兵吾の足許に滑らせた。四つ折りにされた履歴書。拷問の時に見せられたものだった。
「それにしても、最後の最後まで彼女の心配かい。ほら、最期に顔を見たがると思って、ちゃんと用意しておいてあげたよ。お別れの言葉でも言うといい」
この状況でここまで手のこんだ嫌がらせをするとは。加虐趣味もここまでくるとたいしたものだと思った。この男の部下を二人殺していることを思えば当然かもしれない。しかし、いい加減度し難くなってくる。何も知らずに利用された馬鹿な男として黙って殺されるつもりだったが、兵吾は最後に少しばかりの抵抗をすることにした。
神妙に頷いて、紙切れを見つめる。やはりそこに写るのは楠朱祢という見知らぬ女。不思議そうに小首を傾げてみせて、長友のほうに蹴り返した。意識して口角を吊りあげる。
「ごめん。やっぱりこんな女は知らないよ」
「何を今さら……」
長友は笑い飛ばしかけたが、不敵に笑い続ける兵吾を見て、その表情から笑みが消えた。先までの立場が一瞬で逆転する。
しかし、拷問のあと浮かない物言いを繰り返していたように、長友も頭の片隅では一抹の不安を抱いていたのだろう。兵吾の知る朱袮とエレクシオの朱祢が別人であるということが何を意味するのか、すぐに気取ったようだ。
「おいおい。まさか……。マジかよ」
「班長」
弾かれたように立ち上がった神庭がこちらに駆けてくる。同時、長友は耳元に手をあてた。フェイスマスクのなかに仕込んだイヤホンからの声。おそらく別動隊からの通信。そしておそらく、この上なく混乱している。
「はあ? 偵察班が全滅って……四人ともか? 貸しビルは? 偵察班が見張ってた貸しビルを検めろって言ってんだよ、間抜け。潜伏してたエレクシオの処刑隊は……何をやってんだよぉ、役立たずどもが」
マイクつきのコードが垂れているのだろう、長友はフェイスマスクの頬の部分を抓むようにして怒鳴り散らした。常に余裕をかまして大物ぶっていた男が見る影もなく取り乱している。
その時、ライブ会場である平地を挟んで対面にあるビルの屋上で、何かが蠢くのに兵吾は気づいた。発見できたのが奇蹟に近いかすかな動き。のそりと横たえていた身体を起こすような奇妙な動作だ。考えを巡らすまでもなく、その正体は明らかだった。
野太く呻いた長友は左手でハッチを殴りつけ、兵吾を睨んだ。細い目は充血し、こめかみには血管がうかんでいる。
「犀川くうん。やってくれたな」
立ち尽くしていた神庭が蒼白になった目許を怒れる上官に向けた。
「班長……。説明してください」
「説明だって? 偵察班が全滅して、奴らが張りついていた処刑隊もやられた。罠をはったつもりが、俺らはまんまと出し抜かれたってわけさ。犀川くんの恋人であるアカネさんにね。以上、説明終わりだよ」
言って、長友はバンに乗りこんできた。銃把が軋むほどP226を握りしめ、兵吾に近づく。
「班長。とりあえず今は撤退しましょう。班長」
「うるさいよ。お前、ちょっと黙ってろ」
長友は完全に怒りで我を忘れていた。足取りはぎこちなく、盛りあがった肩からは憎悪が湯気のように立ち昇っているかに見えた。他への余裕は優越の裏返し。自分を利口だと勘違いし、常に周囲を見下しているこういう男は、不測の事態に弱いものだ。
兵吾は座ったまま首を伸ばし、迫る長友の背後を窺って笑った。神庭が眉根を寄せる。
もちろん、彼女に微笑みかけたわけではない。そのはるか後方、先ほど対面のビルに姿を現した人物に、狙撃銃を構えた射手に、合図を送ったのだ。そして眼前にまで肉薄した長友を見あげ、もう一度笑う。今度は意識しなくとも、自然に唇の端が持ちあがった。
「あんたたちは出し抜かれただけじゃない。罠に這入ったのはあんたたちだよ」
対面のビルにいる人物の手許がぱっと白濁した。次の瞬間、神庭の首元から血液と粉砕された組織とが赤黒い粘液となってほとばしった。ぐるんと目を剥き、宙を漂う赤い飛沫のなかに飛びこむように頭から倒れる神庭。
遅れて銃声。長友が条件反射で背後を振り向くと同時、兵吾は立ち上がって左手のペットボトルを振り抜いた。咄嗟に兵吾に向き直ろうとした長友の側頭部で柔らかいペットボトルは簡単に割れて、アンモニアをたっぷり含んだ尿が目に飛び散る。
呻いて、兵吾を突き飛ばそうとする長友の手をかい潜り、右手のニッパーを首筋めがけて突きたてた。フェイスマスクの繊維を狭い刃でいっぱいに挟んだところで、裁断する。すぐにまた開き、肉を銜えたところで、閉じる。傷口にねじ込み、太い血管の手応えを感じたところで、また閉じる。
長友が倒れるまでに三回、倒れてからも五回繰り返し、血と脂が取手に絡んで使えなくなってようやく、兵吾はニッパーを手ばなした。
辺り一面、血塗れだった。ごぽごぽと自身の血液に溺れる長友。弱々しくP226を持ち上げようとするが、すぐさま蹴飛ばす。徐々に光を失っていく目を見下ろして、兵吾は外に向けて顎をしゃくった。
「いい天気だよ。こんな日に死ねるなんてうらやましい」
長友は細い目を弓なりに歪め、そのまま動かくなった。その死相は泣き顔なのか、笑い顔なのかわからない。しかし、どうでもいい。夢にでてきた案山子ほどの興味もなかった。
長友の身体を探ると、手錠の鍵はすぐに見つかった。兵吾は手足を自由にして、バンから飛びだした。屋上の縁まで走り、神庭が使っていた狙撃銃を拾いあげる。対人狙撃銃の名で自衛隊でも採用しているレミントンM700の米陸軍モデルだった。
立ったまま構えて、照準眼鏡を覗きこむ。対面のビルを走査し、助けてくれた狙撃手の姿を十字線の中心に捉えた。
「……ミカエル」
照準眼鏡の倍率は抑えられており、顔立ちまで確かめられたわけではないし、その人物は腹這いで伏せていたが、そこで兵吾と同様に狙撃銃を構え、照準越しに見つめ返しているのはミカエルに違いなかった。
兵吾は息を呑んだ。ミカエルはなかなか構えを解こうとしない。岩のような堅牢な伏射の姿勢で微動だにしない姿からは、はっきりと殺意が感じ取れた。
反射的に親指で安全装置のレバーを倒し、用心金にかけていた人差し指を引き金に落とす。狙撃の訓練は受けていないが、対面のビルまで目算で二百メートルほど。七・六二ミリの狙撃銃であれば近距離といえる。体幹の中心を狙って引き金を切れば必ず身体のどこかに命中するだろう。
以前、関を射殺した直後、朱袮と射線を結び合った一瞬にして極限の緊迫がまざまざと蘇る。あの時、朱袮にあったのは葛藤であり、今のミカエルにあるのもそうなのだろう。本当に殺す気なら兵吾はとっくに死んでいる。
不意にミカエルは狙撃銃をおろして立ち上がった。足許を指さして、ドアのなかに姿を消した。地上で合流しようということらしい。煩わしそうな所作から滲む、苛立ち、憔悴、落胆。低倍率の照準眼鏡でも彼の複雑な心うちは読み取ることができた。
胸の底がざわつく。長友に最後にぶつけた質問が脈絡もなく脳裡をよぎった。朱袮は今、どこにいるのか。ミカエルがここにいるということは、猟犬の別動隊とエレクシオの処刑隊を始末したのは朱袮なのだろう。あくまでも彼らが二人で行動しているのなら、朱袮はたった一人でその大勢を相手にしたことになる。いくらなんでも無謀に思えた。そしてミカエルのあの態度。
「朱袮さん……」
確信に近い最悪な予感。狙撃銃を取り落し、兵吾はその場に膝をついた。次が最後になると言って肉体の関係を求めてきた彼女。なぜ気づいてあげることができなかったのか。
眼下で犇めく何も知らない羊たちの歌声と歓声が、たまらなく耳障りだった。