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嵐の中の案山子  作者: IOTA
第五章 覚醒
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 数十分しか経っていないように感じるし、数時間もこうしている気もする。もはや体内時計は完全に狂っていた。だから兵吾は切れぎれになる意識の底で、何度椅子を倒されただろうか、とぼんやり考えた。

 腹部をしたたかに殴打されれば、当然、嘔吐する。しかし、俯いて吐瀉物を吐きだすことができなければ、自分の反吐に溺れて窒息死することになる。そのことを長友らとこの椅子を設計した何者かは心得ているようで、兵吾が反吐に溺れるたびに椅子は機械仕掛けで斜めに倒され、口からほとばしった黄水は床に滴り落ちた。

 たとえもう反吐が出なくとも、少しでも楽な姿勢を取らなければ横隔膜の痙攣が収まらず、呼吸困難で死に瀕する。殴打での拷問は単純な痛みだけではなく、人体の過剰な防御反応による苦悶を目的にしているのだろう。完全に拘束された人間はこうも脆弱になるのか、兵吾は身をもって思い知った。

「退職してから、何があったの?」

 宣言していた通り、長友の質問は変わらない。最初の饒舌が嘘であったように同じ台詞を繰り返す。ともすれば穏和と聞こえそうな声音までまったく同じだった。

 返答を待つ猶予はきっかり五秒。迷いと恐怖が最大値に達するには充分な時間だ。そして意識を手ばなすことも許されない調整された暴力が襲ってくる。

 質問。間。打擲。

 繰り返し、繰り返し、すべてが単調な流れ作業のように機械的に繰り返される。

 くぐもった騒音を奏でながらシールラベルをロール状に巻き取っていく印刷機が思いうかんだ。白い制服。腹回りを窮屈そうにした上司が憮然と睨んでくる。その鼻が花弁のように弾けた。ぐずぐずに崩れた肉のなかの弾孔は底知れぬ闇になっていて、エレクシオのシンボルであるかまぼこ型の金色のプレートが不気味に輝いていた。

 曖昧になった兵吾の記憶は、過去と現在がぐにゃぐにゃに渦巻き始めていた。

「頑固だなあ。そこまで義理だてする理由はないだろうに。……そんなにアソコの具合がよかったのかな」

 長友の下卑た失笑に、意識が現実へと引き戻される。腫れあがって薄くしか開かない目蓋をしばたくことで辛うじて思考の端を掴まえ、その言葉の意味を考える。

 義理だてとは、誰へのものだろうか。一人しか考えられない。朱袮だ。

 つまり、彼らはおよそすべてを知っているのだ。身辺整理をするまでの経歴だけではなく、朱袮と行動をともにするようになってからの動向まで把握しているに違いなかった。そうでなければ、世間的には住所不定無職の市民である兵吾にここまでの暴行を振るえるはずがない。

「神庭ちゃん、腹減らない?」

「……私は大丈夫です」

「あっそう。俺は腹ペコだよ。さくっと終わらせて飯にしよう、飯に」

 立ち上がった長友は腰を伸ばし、呻きまじりにそう言って、部屋から離れた。

 すべてを知ったうえで、その確度を高めるためだけの拷問。だとすれば彼らにとってこれはさほど重要ではない。話そうが頑として話すまいが、大勢に影響はない。つまり兵吾の命になど彼らはまったく頓着しないだろう。

 ――裏では血の気の多い連中が動いてる。

 不意にミカエルの言葉を思いだした。

 忠実なる国利の番犬。いや、猟犬。

 ふと眼前に空気の動きを感じ、兵吾は目蓋をこじ開けた。

 神庭の鉄のような冷たく厳しい無表情が鼻先にあった。

「何人殺した?」

 だしぬけに問われ、兵吾は面食らった。答えなかったが、考える。関と暴力団事務所で六人。いや、先ほど棲家に侵入してきた二人も死んだと言っていた。合計で八人になる。

「確認されているだけでも三人。我々の見立てでは六人とされている」

 襲撃班の指揮をとっていたらしい神庭が殉職した部下を数えないはずがないだろうから、おそらく彼らの見立てでは暴力団事務所の上階で三人を殺害したのは兵吾だと思われているのだろう。

「たいした動機もなくそこまでしでかして、よく平気でいられる。貴様のような手合いは稀にいる。生まれながらの殺人者ナチュラルボーンキラー。人を殺すことでしか生を感じることができない真性の変態だ。救いようがない」

「……憎いなら殺せよ」

 兵吾は血反吐の糸を引く唇を震わせて擦れる声を押し出した。

 なんとか強情な口調を装って口にすることができたが、ほとんど本心だった。このまま生き地獄を味わうぐらいなら殺されたほうがましに思えた。そしてどうせ死ぬなら、自白にたいした意味がないのなら、苦痛に負けて朱袮のことを洗いざらい歌ってしまう前に殺してくれと、切に願った。 

「嫌だ」

 神庭の残酷な否定が鼓膜に突き刺さる。兵吾の切望を見透かしたかのように。その声には今までにない喜色が宿っていた。

「死ぬのは楽だ。殺すのは簡単だ。それではつまらない。全身が鬱血して腐り始めるまで殴ってやる。せいぜい悔い改めろ。お前は自分が犯した罪を悔いて生きたままゆっくり腐っていくんだ」

 まるで蛭が鮮血を求めてのたうつように、薄い唇をわって這い出てきた真っ赤な長い舌が自身の頬をねぶる。どちらが変態なのか。巡査部長を名乗る妙齢の女の顔はわずかに、だが明らかに上気していた。

 おもむろに腕が持ち上がる。やめてくれ――兵吾は咄嗟に口を吐きかけた懇願を噛み殺す。

 額を打たれ、目の奥で光が弾けた。間髪を容れずに左側頭部、右側頭部にフックの連打を浴びる。ガムテープで絞められた首は回らず、息が詰まった。頭が割れそうだ。揺れに耐えかねた脳が頭蓋をうちから捩じ切って外に飛びだそうとしているかのようだった。

 息も絶え絶えに、兵吾はぼんやりと考える。

 こんな目に遭う理由。自分が犯した罪について。

 殺人鬼だと神庭は罵ったが、それは違うとはっきり否定できる。戦闘に充足は感じたが、人を殺して悦に浸ったことはない。ただ、くだらない羊が多すぎるつまらない柵のなかで、自分も群れの一部として茫漠と草を食んでいることができなかっただけだ。

 しかし、自分が特別で特殊だとは思わない。機会に恵まれれば、狼に手招かれれば、泥と自身の排泄物で煤けた毛皮を脱ぎ捨て、柵を飛び越え獣と化すものは少なくないだろう。ミルグラムの実験。個人の倫理観など殺戮の抑止力として用をなさないと彼女は教えてくれた。

 そうだ。ふと兵吾は思いついた。

 もし、生き残ることができたら、何をすべきか。

 兵吾はやりたいことが見つかった気がした。

「犀川くん。ひとついいことを教えてあげよう」

 嘲笑まじりの耳障りな声に思いは寸断される。

 いつの間にか部屋に戻っていた長友の言葉が頭上から降ってきた。

「我々はきみたちの動向を監視していた。廃墟で人殺しの訓練に励んでいたことも承知している。でもね。いざご同行願おうかって時に、彼女だけ行方をくらましたんだ。それなのに、きみは暢気にアパートに居続けた。連絡がなかったってことだろ? ……その意味わかるよね?」

 心音が早鐘のように鳴っていた。自由の利かない身体、頭のなかで兵吾は必死にかぶりを振って、否定していた。

「きみ、棄てられたんだよ」

 ちくり、と腕に痛みが奔った。かすむ視界の端に注射器が映った。

 途端、胸を内側から突き破りそうだった鼓動が鎮まっていく。いや、腕から身体中に拡がっていくねっとりした液体に捉われ、動きが鈍くなっているだけだ。血中に混じった粘液はやがて脳にまで達し、記憶と思考を曖昧に溶かし、感情までも模糊に薄めていく。

 ――嘘だ。

 兵吾は正体を見失う最後の瞬間まで声もなく絶叫していた。



 深く、底知れない闇、減音器付きのグロック19の銃口だ。関を撃ち殺した直後のことだ。拳銃を持ち上げ、思い詰めたような顔の朱袮が兵吾を見つめていた。

 兵吾が撃ち損なったら代わりに関を殺す気だった? 違う。ずっと見ていたのだから、成功したのは一目瞭然のはずだ。彼女が殺そうとしていたのは兵吾だった。成否に関わらず兵吾も抹殺する。少なくともその葛藤が彼女にはあった。

 険悪な態度の白人船頭。朱袮は兵吾の偽造身分証まで用意していたが、まだその扱いを決めかねていたに違いない。ミカエルは急遽説明され、だから不信を抱いていたのだ。一人目だな、と一連の計画について臭わせた時も、朱袮に咎められていた。

 彼女はよく苦笑した。多くが何も事情を訊こうとしない兵吾に対するものだった。安堵すると同時、隠しきれない後ろ暗い感情が、その儚げな笑顔には宿っていた。

 エレクシオのオリジナルメンバー。彼女は自らをそう名乗った。聖女の教えを身に刻む、原初の信奉者だと。きまって、わかりやすすぎるほどの狂気を宿した作り物のような無表情で――。

 鼻先に顔写真があった。

 長友が突きつけるように見せてくる紙の右隅に載ったものだった。

 一瞬、エレクシオについて触れる時の朱袮の顔だと思ったが、違う。造形、髪型、化粧までそっくりだったが、兵吾は朱袮ではないと直感で確信した。

 悪目立ちする特徴のない均衡のとれた顔立ちだからこそ、変装は容易い。よく似ているというよりも、似せているといったほうが近い。

 朱袮によく似た女の写真は胸上で、スーツにワイシャツ姿だった。長友が持つA4サイズの紙は何かの履歴書のようだ。目を凝らす。氏名欄には楠朱とあった。幽霊文字である衣偏のではない。

「エレクシオの過激派。処刑隊と目されている一人。彼女で間違いないね?」

 長友に訊かれ、兵吾は反射的に目線で頷いた。

 どれぐらい時間が経ったのか。意識が途切れている間に何があったのか。まだ注射された薬品の毒気が抜けきらず、頭のなかは混濁していたが、彼らが勘違いをしているならあえて正す必要はないと思った。

 長友は紙をひっこめ、しげしげと眺めた。

 神庭は大きく頷き、声をかける。

「やはり、一連の犯行は教団の内部分裂で間違いないようですね」

「はは、神庭ちゃん。マジもんの刑事みたいなもの言いになってる」

「……班長。私たちは警官です」

「非正規の、ね」

「今回の件を片付ければ実力部隊として正式に認められますよ」

「非正規部門として正式に認められるってのものおかしな話だけどね」

 手中の履歴書を見つめたまま浮かない物言いを繰り返す長友に、神庭は眉根を寄せた。

「班長、まだ何か気がかりでも?」

「それを失くすために彼を引っぱって、予想通りの答えが得られたはずなんだけどねぇ……。まあ、こんな商売だからさ。すっきりすることなんて一生ないんだろう」

 もう兵吾に興味を失ったように会話を続ける二人。兵吾は辺りに飛び散った血反吐が乾き始めているのに気づいた。注射をされてからの空白の時間に何があったのか。予想通りの答えが得られたと長友は言った。

 そんな、まさか――。心臓が再び激しく暴れ始める。

 長友はいまだ事態を呑みこめずにいる兵吾をちらりと見やって、足許の注射器を爪先で転がした。ふざけた調子で挙手の敬礼をして見せる。

「自白剤。効果覿面だね。事情聴取へのご協力、感謝します」

 喋ってしまったのだ。柵のなかから見つけだし、救いだしてくれた朱袮のことを、洗いざらい。

 兵吾は唇を噛みしめて呻いた。薄皮がやぶれ、鮮血が口内に溢れる。その臭いが場末のバーで抱いた関への激情を想起させる。しかし、今回は他人ではなく、自分が憎い。唇ではなく、舌を噛み切る意気地のない自分が。

「あらら、泣いてる? 見捨てられたってのに、健気だなあ。神庭ちゃん。結婚するならどう? こういう男」

「……やめてください。それより彼をどうします? この場で処理しますか」

「いや、せっかくだから二日後、ああ、日付を跨いだからもう明日か。現場で始末しよう」

「現場で、ですか?」

「そう。犀川くんの任意同行・・・・を知っているのは我が部署だけだからね。明日まで出動車で監禁だ」

「なるほど。現場で現行犯として阻止したことにすると」

「阻止ねえ。射殺と言わないあたり、神庭ちゃんはつくづくSITあがりだね。まあ、そゆことだよ。頭から罠に這入ったエレクシオ処刑隊ご一行と一緒に我が部隊創立の供物になってもらう。凶悪犯が一人でも多いほうが上の連中も他部署への申し訳が立つでしょ」

 二人の会話は、もう兵吾の耳にはいっていなかった。

 自責と自己嫌悪に圧し潰されそうだった。

 しかし、冷静な部分がこうも囁く。

 あの写真に映る女は、間違いなく朱袮ではなかった――





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