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嵐の中の案山子  作者: IOTA
第四章 幽鬼
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3




 兵吾は少しばかり寄り道をして根城にしているアパートの一室に帰った。

 取り決めていた独特なノックをしてドアを開ける。玄関と居間を仕切る内壁の角からちらりと顔を覗かせた朱袮は、来訪者が兵吾であり、一人であることを認めて、ようやく姿を現した。

「おかえり」

 隠微に微笑む朱袮の後ろ手に減音器をねじこんだグロック19の黒い威容が見え隠れする。来訪者に等しく向けられる警戒。そんな物騒な出迎えにも、兵吾はもう慣れてしまった。

 ただいま、と告げながらミカエルから預かった封筒を差しだす。

「私に連絡くれればいいのに。どうしてわざわざ兵吾くんに……」

 朱袮は不満そうにしながも受け取って、ふっと口許を緩めた。

「きっと気に入られているのよ」

「そうは思えないけれど」兵吾は力なく笑った。

 案山子……。ミカエルの言葉が脳裡にこびりついて離れない。靴にはりついたガムのように歩くたびにねちねちとした不快な感触をともなう。些末で捨て置ける程度だけれど、ないのならそのほうがずっといい。そんな違和感。

 何かを察したのであろう、朱袮はわずかに小首を傾げた。

 兵吾は伝言を口にすることで誤魔化す。

「今度は大仕事になるって。ミカエルも参加すると言っていたよ」

「大仕事……。そっか」

 朱袮は手許の封筒に目線を沈ませた。窓から射しこむ落日の陽が俯く顔を赤く染め、長い睫毛が眸に物憂げな翳を落としていた。しかしそれも一瞬、朱袮はいつものやわらかな微笑みを湛えて兵吾が片手に提げたスーパーのビニル袋に注目した。ちょっとした寄り道の収穫である。

「それどうしたの?」

「今日は夕飯をつくろうと思って。せっかくだからさ」

 このアパートに住むようになってから、食事といえば出来合いの惣菜や仕出し弁当ばかりだった。せっかくキッチンがあるのに、とは食事の席で必ずといっていいほど交わされる決まり文句になっていた。

 料理をしなかったのは、住所不定の身で調味料や調理器具といった荷物を増やしたくなかったという理由がある。この棲家は仮初めでしかなく、どうせ捨てなければならないのだ。流浪の狼に必要なのは商売道具の詰まったバッグ一つでどこへでも転戦できる身軽さだった。

「へえ、すごい。兵吾くんがつくってくれるの?」

「うん。大したものはできないけどね」

「じゃあ、お任せしちゃおうかな」

 朱袮は両手を組んで声を弾ませる。

 期待しないでね、とくれぐれも断わってから、兵吾は簡易なキッチンに立った。

 ネギを刻みながら、先ほど朱袮が見せた表情の意味を考える。大仕事、そう呟いた彼女の眼差しには、落胆、戸惑い、憂慮といった、絶望というには大袈裟だけれど、確かに負の感情がその蒼白く不吉な尻尾を覗かせていた。

 封筒の中身は見ていない。ミカエルから禁じられたわけではないが、それは出過ぎた真似のように兵吾には感じられた。頭の知らないところで勝手に作業を進める手があっていいわけがない。兵吾にやるべきことを告げるのはあくまでも朱袮の口であり、自らが能動的に事情に関わるのは気後れしたのだ。

 案山子。またぞろその言葉がよぎって、卵を握り潰してしまった。

 罵って、殻を取り除きながら、兵吾は失笑した。卵白入りの火炎瓶をつくった過日が、ずいぶんと遠く、懐かしく感じられた。まだ兵吾の捜索願は出されていないだろう。処女をきったあの日から、二月と経っていないのだ。少しの間の音信不通が問題になるほど、兵吾の家族は心配性でなければ、兵吾自身もまめではなかった。

 兵吾は足許のビニル袋から鶏肉のパックを取りだすために前屈した。腹に肉がホルスターに圧迫される。ごわごわとした厚手のナイロンの肌触り。けっして心地よくはないけれど、もう不快とも感じない。寝るときと入浴するとき以外は絶えず肌から離さない大型拳銃の重みは、今ではなければ落ち着かないようになっていた。

「もう人外魔境の未知じゃない……」

 玉ねぎと一緒に鶏肉を炒めながら、以前の日本海上での朱袮との会話を思いだした。

 当初は緊張を強く意識させられた数々の違和感は、家族との訣別への悲観に比例して、日を重ねるごとに薄れていく。エアガンと仕事と柵のなかの安穏を手ばなして得た、銃と暴力と嵐のような危険のある生活。恋い焦がれた非日常が、今となっては兵吾の日常だった。

 困ったことに、なんの変哲もない日常へと成り下がってしまった。

 夢は見ているからこそ夢であり、叶った時点で夢ではなくなる。

 完全に放棄したと思いなしていた不快感を、慣れが連れてきてしまったのだ。なんてことはない。お馴染みの鬱憤だった。勿論、羊の柵のなかで際限なく身を苛んだ暴力的なまでのそれとは較べものにならないけれど。しかし、それは確かに色合いと濃さが変え、もやもやとした灰色の澱となって兵吾の腹の底に積もり始めていた。

 原因はわかっている。だが打開策は見当もつかない。無知な自分に不快感を募らせながらも、あえてそうあることを望んでいる節がある朱袮にいざ正対すると、何も訊けなくなる。無理に問い質せば今の繊細な関係は壊れるだろう。兵吾は恐れているのだ。同棲するようになってからもバーで出逢ったころと変わらない朱袮との特別な距離感が変質してしまうのを。

 ……まるで人里と荒野の境界で佇立する案山子のような優柔不断さ。くしゃり。また卵を潰してしまった。

 親子丼と卵の中華スープ、デザートは甘い卵焼き。八個入りのパックを買い、保存を考えていないので、どうしても卵づくしの夕飯となった。男らしいといえば男らしい、彩りを考えない黄色い晩餐に、しかし朱袮は卵のように目を丸くして喜んだ。

「うわあ。おいしそう。兵吾くん、料理得意だったの?」

「得意ではないけれど、たまには自炊してたからね」

「じゃあ、いただいていいかな?」

「どうぞどうぞ。口に合えばいいけど」

 朱袮の評価は上々だった。兵吾は作りすぎたと思っていたが、おいしいおいしいと頻りに褒める朱袮が箸を休めることはなく、八個の卵と四つのレトルトご飯は綺麗に二人の腹におさまった。

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした。もう卵はとうぶん食べたくいないね」

「そう? 兵吾くんの料理だったら私は歓迎かな」

 言って、朱袮は含みありげに薄い唇の端を持ち上げた。

「もし女だったらいいお嫁さんになれるね。私が男だったらほっとかないよ」

「……なにその想定」

 なぜ男女を逆転させる必要があるのか、兵吾は苦笑した。

 暴力団事務所で垣間見た狂気が幻であったかのように、朱袮は兵吾の知る彼女に戻っていた。しかし、どちらが本当の彼女なのか兵吾にはわからない。いや、そもそも彼女の何を知っているというのか。

 再び使う機会があるとは思えない食器を並んで洗いながら、兵吾は楠朱袮という女に一歩踏みこむ決意をした。

 自然体を装って問う。

「朱袮さんはこういう生活長いの?」

 朱袮は兵吾が濯いだ食器の水滴を拭く手を止めて、すっと兵吾の顔を見つめた。蛍光灯の白々しい光が微笑というかたちに固められた貌を無機質に照らしていた。兵吾は息を呑みながらも、小首を傾げて微笑み返そうとしたが、うまくいかなかった。ひどく間抜けな顔になっていたと思う。朱袮はすぐに作業を再開して、おもむろに口を開いた。

「物心ついたころから、こんな感じかな」

「そんなに昔からなんだ……」

「転校を繰り返しながら、普通の子がやらない勉強をして、普通の子がやらない訓練をして。普通の子が見るべきでない光景を見て、普通の子が知るべきでない世界を知って……。気がついたら、普通の女の子じゃなくなっていた」

 もう女の子なんて言える歳じゃあないけれど、と朱袮は弱々しく苦笑いした。

 兵吾は今度こそ微笑み返したが、朱袮のものよりも苦しげなものになっていたと思う。

 朱袮は、狼になるために、狼によって育てられ、だからきっと狼になったのだ。海外には本物の狼によって育てられた少女がいるという逸話がある。実際のところはやらせだったらしいそんな陳腐な話ではなく、朱袮は正真正銘、人のかたちをした人非ざるもの、人狼によって、人狼になるべくして教育されたのだ。

 彼女を育成した人狼は、境界線で微睡む案山子には想像も及ばないほど深い底なしの深淵に、理解がいたらないほどの巨体を埋めて、その醜悪な赤い眼光で虎視眈々と羊の世界を走査しているのだろう。

「……朱袮さんから見ても、俺は半端ものだよね」

 期せずして口からこぼれ出た発言に、兵吾ははっとした。

 普通の世界を満たす鬱憤に辛抱を瓦解させて柵を飛び越えた兵吾。しかし、平穏な柵のなかで生きる権利を最初から奪われていた朱袮にとって、それは冒涜に近い行為なのではないかと、思わずにはいられなかったのだ。

 朱袮はそっと首を左右に振った。

「そんなことはないわ。バーでも言ったよね。誰にでも狼の血は流れている。濃い血を持った兵吾くんは、それに相応しいさだめの途にのったのよ」

 耳障りのよい声音に、しかし兵吾は素直に頷くことができなかった。さだめの途。語感が帯びるそこはかとない宗教的な響きに、胸のなかで気味の悪いざわめきがたった。

 もはや口先の小細工を捨て去り、兵吾は、もっとも気がかりな疑問を朱袮にまっすぐぶつけることにした。

「朱袮さん。……俺は仕事に最後まで手を貸すよ。手伝いたいと思ってる。朱袮さんが望まないのなら背後関係は問わない。でも、一つだけ教えて。エレクシオとはどういう関係なの?」

「私はオリジナルメンバー。聖女の教えを身に刻む、原初の信奉者」

 朱袮は答えた。兵吾の鼓膜にこびりついて離れないフレーズを、一言一句、同じ調子で。喰い気味の即答に悪寒を覚え、俯く朱袮の顔を恐るおそる覗きこむ。悲鳴をあげそうになった。何かに憑かれたように突然、朱袮の頭が跳ねあがったのだ。

 再び見せた狂気の片鱗――。ほの昏いくまに縁どられた漆黒の双眸はまじろぎもせず兵吾を凝視している。見開かれ、ガラス玉のように渇くままになっているその目は、いかなる感情も映さずに、頭蓋のうちで渦巻く強烈な信仰と憎悪の業火に赤黒く滾っているかに見えた。

 一番知りたかった疑問に、一番聞きたくなかった答えが返ってきた。

 兵吾はもう、何も言えなくなった。

「明日から訓練で忙しくなるから……」

 ひどく力ない声で告げて、朱袮は早々にベッドで横になった。所作からにじむ、まるで病人のような憔悴。いつもよりずいぶんと早い就寝の理由が言葉通りでないことは明らかだ。事務所襲撃の晩も同じ調子だった。

 一つしかないベッドは朱袮に譲っていたので、ベッドの隣のフローリングに延べられた布団が兵吾の寝床だった。電気を消して寝入ろうとした。しかし眼が冴え、落ち着かない。次第に布団に体温が移って暑苦しくなる。かつては夜毎におちいっていた苛酷な持久戦の再来だった。

「兵吾くん……。起きてる?」

 ベッドから降り落ちてきた呼び声に、心臓が跳ねる。

「うん」

「眠れない?」

「……うん」

「私もよ」

 ベッドが軋み、布擦れの音が夜陰に溶けこむ。

 朱袮はおもむろに床に足をおろし、兵吾の隣で身を横たえた。

 窓から射しこんだ車のヘッドライトが一瞬、彼女の躰をぼんやりと照らした。タンクトップのはだけた胸元から覗く乳房の谷間には汗のしずくが輝き、ホットパンツからすらりと生える太腿は組み重なり、なやましげに悶えていた。

「次がきっと最後の仕事になる。だから、ね?」

 ささやきの吐息が頬を撫で、匂うはずのない無香石鹸の香りが鼻腔をくすぐる距離。なめらかな黒髪のなかの潤んだ双眸がゆっくりと近づいてくる。予感に紅潮し、緊張に震える柔肌の体温が空気を通して兵吾の身体に浸透していく。

「兵吾くん。私……もう……ん」

 早鐘のような胸の激痛に薄く喘いだ唇は、初めて巣穴から顔を出す小動物のような怯えを見せながら、やがて兵吾の唇に――

「やめてくれ!」

 兵吾は朱袮を突きとばした。

 ベッドの枠に背を打ち、呆然と兵吾を見つめる朱袮。兵吾は肩で息をしながら、視線を切って、下唇を噛んだ。

 兵吾にとって朱袮は、恩人であり、師であり、何ものにも代えがたい大切な人だった。彼女のためならば死をも厭わないほど特別なパートナーだった。しかし、恋仲ではけっしてなかった。

「これ以上、俺を苦しめないでくれ……。お願いだから」

 この世に二つとない、名状しがたい信頼関係。恋慕といった情念のはるか遠くで、お互いに通じ合っていると思いこんでいた。たとえ理解しがたい狂気を腹に飼う彼女であっても、きっといつかは判り合え、分かち合えると、そう信じようとしていた。

 だから、大切な境界線を踏み潰し、距離感を侵害した朱袮を、拒絶せずにはいられなかった。

「あの……私……ごめんなさい」

 朱袮の吹けば飛ぶような声を背に、兵吾はベランダに出た。

 早く仕事がしたい。

 些事に気をもむ必要のない争乱に身を投じたい。

 煙草の紫煙に喉を灼きながら、兵吾は切にそう願った。





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