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世界は二柱の神によって息吹いた。
善神ヤコと邪神イゴ。
一〇二五ある白紙の世界をどちらが色づかせるかで、善神と邪神はあらそった。
善神ヤコが勝ち、邪神イゴは敗れた。
心を入れ替えたと施しを乞う邪神に、心優しい善神は世界の半分を与えることにした。
善神ヤコの世界はすべての生きとし生けるものが平穏に暮らす、餓えも、悲しみも、争いもない、穏やかな世界となった。
邪神イゴの世界も一見、平穏な世界にみえた。しかし次第に変わっていった。
善神が邪神のたくらみに気づいた時にはもう遅かった。邪神イゴの世界は荒み、穢れ、争いが絶えなくなっていた。邪神の力は善神と拮抗するほどに増していた。
かくして世界は五一二の清い世界と、五一二の穢れた世界に分かたれた。
あまった一つの世界は、神々のいさかいの最前線であり、善と悪の分水嶺、善神と邪神の二柱に色づけされていった。
その世界こそ、わたしたちの世界。
善と邪が入り混じる、五一三番目の中間世界、エレクシオ――。
兵吾はコンビニで立ち読みをしていた。今までは手に取ろうと思ったことさえない安普請なゴシップ誌。目がまわるほどに胡散臭い内容にすぐに辟易し、手触りさえも軽薄に感じるそれを棚に戻しかけるが、思いとどまり、缶コーヒーと一緒にレジへ運んだ。
煙草の陳列に目がいく。一瞬躊躇したが、何を迷う必要があるのか。喫いたいのなら、喫えばいい。慣れ親しんだ銘柄の商品名が変わっていることに一驚を覚え、そんなところで世間の移り変わりを感じつつ、会計を済ませ、近くの公園に向かう。
見通しのよいベンチを選んで腰を落ち着ける。冷たいコーヒーをすすりながら、横目を週刊誌の表紙に落とす。『エレクシオ真理教団特集』。かつては一顧だに値しなかったはずの感嘆符つきの文句が今では目をひいてしょうがない。
暴力団事務所への強襲から一月が過ぎていた。朱袮とともに街を移り、今は次なる行動のための準備期間だった。
兵吾の決意は変わらない。朱袮の目的、動機については、彼女自身が語るのを待とうと、けっして尋ねようとはしなかった。
けれども、一連の根底にあるくだんの教団について、世間が知る程度の常識は持ち合わせておくべきだという思いもある。反面、それぐらいなら知ってもばちはあたらないだろうという後ろめたさも無きにしも非ず。
傾き始めた陽、盛りを過ぎたとはいえ、まだ夏の余韻を色濃く残す。きっとそれを知れば、じっとりとした不快感に別の何かが加算されるであろう不吉な予見をしながらも、兵吾は再びゴシップ誌をめくり、チープな情報収集を試みた。
エレクシオ真理教団。
日本発祥の新興宗教団体。関連施設に熱心に足を運び、教団側から正式な信者として在籍を認められているものは一万人にものぼり、同調者は五万にも達するとされている。この異様なほどの浸透率はくだんの教団がインターネットの個人ブログが発祥である所以である。
“エレクシオでの生きかた”と銘打たれたそのブログは奇妙なものだった。ブログとしての体裁さえとっていなかった。ただ一日一言、アドバイスじみたポエムのようなものが書きこまれるのだ。
いくつか紹介すると、『昨日より大きな声で挨拶しましょう。誰にも届かなくても、あなたの耳に届けばそれでいいから』といったポジティブなものから、『誰かが憎いなら、そこに説明できる理由があるのなら、行為で示してもいい。憎しみもまた正しい心のありかたなのだから』というような後ろ向きなものまで、言ってしまえば使い古された、同時にシンプルであるが故に誰にでも得心できるものばかりだった。
多くを語ろうとしない神秘的な魅力があるブログであり、当時から根強いファンを獲得していたが、それだけであれば星の数ほどある同種のものに埋没し、その他大勢の一つとして消えていったであろう内容でもあった。
しかし、忽然と投じられたある稀有な真相が爆発的な人気の火つけ役となった。そのブログの製作者は難病を患う余命いくばくかの少女だというのである。
そのブログの、というよりも彼女のファンは急速に広まり、やがて彼らは管理人の少女を“聖女”と崇める信者となり、ネットを主とした繋がりの連鎖はただのファンクラブに過ぎなかった集団を法人格を有した宗教法人団体にまで成長させた。
今や関連組織・企業は三百にものぼり、教団が保有する施設は国内だけでも五十四件。公表されていないものとなるとその数は到底定かでない。その誕生から発展までの特異な経緯と怒涛の急伸は有史に前例がなく、おそらく新興宗教としては名実ともに世界最大規模の宗教組織であろう。
「……聖女か」
兵吾はぽつりと呟いた。そのキーワードに起因して否が応でも脳裡に浮上するのは朱袮の言葉。
――私はオリジナルメンバー。聖女の教えを身に刻む、原初の信奉者。
清潔でよく冷えた銃身を思わせる撃発間近の無機なる横顔、それを目にした時の総毛だつ思い。朱袮が身に刻むと宣言していた聖女とやらの教えと等しく、それらは兵吾の深いところに刻みつけられていた。
けれども、きっと朱袮が胸に抱く刻印とは違い、兵吾のそれは彫刻刀で無造作に傷つけられたような、じくじくと痛み、やがて膿み始めるようなものだった。
「憎しみもまた正しい心のありかた……」朱袮を弁護するように、彼女への疑念を拭うように、あえて音読し、ひとりごちる。「まあ、その考えには賛成だけど」
朱袮に出会う前、羊の柵の中で鬱憤としていた頃にくだんのブログを知れば、聖女に出会えば、自分も同調していたかもしれないと、兵吾は思う。
いつか朱袮から教えてもらったミルグラムの実験。その被験者と同じように、心に安定を与えてくれる教えへと傾倒していったかもしれない。
雑誌を閉じて、コーヒーを含む。思わず低くうなる。選択を後悔した。嗜好品の苦味は喉の渇きを癒すのに適していなかった。もっとも、精神的なものに因る渇きは何を飲んでも癒せないだろう。
煙草のパッケージを開け、一本を唇の端に挿しこんだところで、今度は罵った。ライターを買い忘れていたのだ。
諦めて、兵吾は煙草を戻そうと口許に手を運ぶが、身を強張らせる。
背後から近づいてくる何者かの気配。
予期せぬ事態に則してあえて死角のない位置を選んだというのに、遊歩道を無視して芝生の上を大胆不敵に歩み寄ってくる者が、無関係な堅気であるとは考えにくい。
煙草に向かわせた手をおろし、腹部に捲いたコンシールドホルスターのホックを指先で弾き解く。腹を掻くようにまさぐりながら汗に濡れた銃把を握る。
「殺意がこぼれてるぞ、ヤポンスキー」
現れたのはいつかの白人船頭だった。
「……ミカエル」
「まだ二回しか会ってねえのに、俺はその度に撃ち殺されかけなきゃならんかね」
「……いや、後ろから近づくから」
船頭とはいっても、きっとあれは仮の姿であり、この男の素性も知れない。今日は薄汚れた作業着ではなく、ビジネス街に馴染むスーツを小奇麗に着こなしていた。
たくましい長躯と彫の深い顔立ちは憧憬の的となって然るべきはずだが、この男の常態である何かを蔑むような屈折した微笑みが台無しにしている。
「すっかりゴルゴ気取りか、青二才。まあ、俺の接近にも気づけないようなら、俺が撃ち殺していたがね。朱袮の背中を護るには相応しくない」
ミカエルは饒舌な日本語を繰りながら、ベンチを回りこみ、兵吾の隣に腰を下ろす。
「事務所ではご活躍だったみたいだな。警察の公式発表ではヤクザの抗争という見解だ」
「ああ、ニュースで観た。警察ってけっこういい加減なんだね」
一月前の兵吾と朱袮の仕事は、久しく勃発した暴力団の大規模抗争としてメディアを騒がせていた。
しかし、ミカエルは唇をへの字に歪める。
「いい加減だって? アサルトライフルの薬莢が腐るほど転がる現場にチンピラの出る幕がないってことは、どんな日和見主義者でも一目瞭然だろうよ」
今度は兵吾が唇を歪める番だった。この白人は日本語がうますぎてむしろ要領をえない。ミカエルは荒っぽく嘆息し、つまり、と継いだ。
「表向きには関わり合いになりたくないとさ。裏では血の気の多い連中が動いてるって意味だ」
「血の気の多い連中?」
「おいおい、頼むぜ、元国防軍。表があれば裏があるのは世界共通だろ。警察権ではとても対処できないような事案が発生した場合に動くおっかない連中がいるのさ。忠実なる国利の番犬。いや、猟犬といったほうが正確だな」
「……ふぅん」
兵吾は気のない相槌を打ちつつも、今更ながら事の重大さを痛感し、何やら複雑になってきた推移に胸騒ぎを覚えた。そして、ふぅん、程度しか口にできる言葉が見つからない己の無知を呪った。
お手伝い感覚で加担する一線は、とうに超えている。むしろ、分水嶺をはるか後方に置き去りにしてもなお無知でいようとするスタンスは、もはや限界なのだろう。趣旨を見直す潮時なのかもしれない。
ちらりとミカエルを窺う。真相を尋ねるべき相手はこの男ではない。けれども、この男にも訊きたいことは多い。
「ミカエルは朱袮さんと長いの?」
「長いとはいえないな。まだ二、三年の付き合いだ」
「友達なのかい?」
「友達以上、恋人未満ってとこかな」
言って、ミカエルは破顔し、兵吾の背中を叩いた。
「戦友って意味だよ。拗ねたガキみたいな顔するな。ただでさえガキみたいな顔なんだから」
「いや……。そんな顔をしたつもりはないけれど」
弱々しく反論しながら、戦友という言葉を頭の中で繰り返していた。
ミカエルの言動や態度からは、確かに、友達や恋人といった日常の枠に収まらない朱袮への信頼がうかがえた。
自分はどうなのだろうか、と兵吾は考える。
戦友という簡単な言葉で片付けられるほどシンプルな関係ではない。かつてのような妄信も今や薄れているという思いも否定できない。きっとそれは個というものを匂わせない彼女に一種の神聖を抱いていたためであり、彼女の人間らしさ、狂おしいほどの激情を垣間見た今、自分に残る想いとはなんなのか。
その自問に自答がでるのを待たずして、見透かしていたかのようにミカエルが問うてきた。
「お前はどうなんだ。どうして朱袮に従う?」
皮肉屋の面持ちは鳴りを潜め、嘘や言い逃れを許さない暴力を生業にする男の貌がそこにはあった。
「なに不自由なく暮らしてた日本人が、家族との関係を断ってまで、裏の世界に飛びこんだ理由はなんだ。安全は保障されない上に、莫大な報酬が約束されているわけでもない。なぜだ?」
「……不自由はあったんだよ」
「なんだと」
「俺にとって、世間一般が幸せだと語る安穏とした暮らしは、まるで檻のようだった」
普通に学校を卒業して、普通に就職して、きっとそのうち普通に家族をもって、そのまま死ぬまで普通に生きる。揺り籠から墓場まで、終始一貫して普通に、偏執的なまでに普通に、人として生まれた時点で科せられた呪いであるかのように普通に……。
そんな普通の中で芽生え、脹らんでいった狂気。小さな幸せを餌にしても誤魔化しきれないほど膨張した鬱憤は、普通を脱しなければ、自分を内側から押し潰していた。
大人になりきれない子供と、人はいうだろう。お前は特別じゃない、そんなものは誰もが抱く苛立ちに過ぎないと痛罵するかもしれない。だったらなぜ、誰も行動を起こさないのか。少なくとも兵吾は、わずかな契機を逃さずものにし、自らの勇気で狼の世界に足を踏みいれた。
「なぜと問われれば、こっちの世界のほうが愉しいからだよ。もしかしたら、慣れてしまえば同じなのかもしれないけれど、それでも羊として、家畜として生かされるより、狼として死んだほうがきっとましだ」
「……俺から言わせれば、お前はまるで案山子だな」
「かかし?」
「獣が跋扈する荒野に置き去りにされてなお、野獣になり切れずに人を模して突っ立っている案山子だよ」
「………」
「そんな顔するな」
今度は自分がどんな貌をしているのか、兵吾にも理解できた。ミカエルも背中を叩こうとはしなかった。
代わりに、ポケットからオイルライターを取り出して、兵吾の膝にほうった。
「童顔に似合わねえくわえ煙草、ぷらぷらと目障りだ。とっとと喫っちまえ」
以前は喫いそうなやつには勧めないと遠まわしにからかってきたミカエルは、豪奢にもライターをくれるようだった。立ち上がり、尻を払った彼は、去り際に告げる。
「今度のはでかい祭りになりそうだ。俺も神輿を担がせてもらう。朱袮によろしく伝えといてくれや」
いつの間に置いたのか、ミカエルが座っていたあとには大判の封筒が残されていた。
それを週刊誌で隠した兵吾は、ライターを鳴らし、久しぶりの紫煙を深々と吸いこんだ。
血中に溶けだしたニコチンの軽い眩暈。気管に充溢する芳醇な香り。かつて苛立ちを誤魔化すツールにすぎないと思いなしていた頃には感じたことのない初めての感覚に、思わずうめいた。
「畜生……。まいったな。煙草が旨いや」
こんなに旨そうに煙草を喫う案山子はいない。
兵吾は胸の内で自分に言い聞かせた。
案山子――。そんなわけがない。