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嵐の中の案山子  作者: IOTA
第四章 幽鬼
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「もう夏祭りの季節なのね」

 助手席で窓枠に頬杖をついて車外を見ていた朱袮がぽつりと言った。

 兵吾も運転しながら首を伸ばし、彼女の視線の先を窺う。

 新築と古家とが無秩序に建ちならぶ住宅街、家屋の間隙で窮屈そうに佇む小さな神社は年に一度の賑わいを見せていた。

 猫の額ほどの境内には不釣り合いな立派なやぐらが組まれ、裸電球が夏の夜の淡い帳を橙色に染めている。太鼓の音に合わせて踊る浴衣の少女たちは、どことなく気恥ずかしそうに、けれども心底楽しそうに笑顔を弾けさせていた。

「ほんとに、いつの間にかそんな時季なんだね」

 兵吾は相槌以上の感慨をこめて頷いた。

 日本海での一夜から二週間が経っていた。その二週間は朱袮から狼の世界で生きるための術を学んだ研鑽の日々であり、同時に次の行動のための訓練の期間でもあった。

 勉学にしろスポーツにしろ趣味にしろ。熱心に何かに取り組むという感覚に今まで無縁だった兵吾にとって、その二週間は素晴らしく貴重なものだった。無味無臭な単語でしかなかった青春とはこういうものなのだろうと実感し、同時、その言葉が持つ清く正し印象と実際にやっていることとの乖離に、笑いが絶えなかった。

 陸上自衛隊の教育隊で受けた射撃訓練を優に凌ぐ高揚をもたらした過日は、たった二週間離れただけであるはずの日常を懐かしく思わせるほど濃密なものだった。

 そして、その研鑽が実を結ぶ作戦決行日が、今日だった。

「きっと中止になるでしょうね。ちょっと忍びないかな」

 おどけるようにひょいと肩をすくめる朱袮。嘘ではないにせよ、真意から言っているようには見えない。

「確かこの辺りではもうすぐ大きな祭りもあるんだ。花火もあがって、県外からも人がくるような」

 兵吾は緩やかにブレーキを踏みこみ、煌々と灯る赤信号を見つめながら頼りない土地勘を手繰り寄せる。

 ここは兵吾のアパートと元職場があった町の隣に位置する都市だった。群をなすビルディングの下層ではネオンが輝き始め、駅前では勤め人が遊び人へと街を譲り渡すように交錯している。県内でも五指にはいる繁華街ではあったが、それでも車で十分も走れば閑散とした田園地帯が拡がる地方には違いなく、不夜城と呼ぶにはやや大袈裟だろう。

 市を挙げての大きな祭りを控え、待ちきれなかったように町村規模での催しが頻発する今の時季、街全体は浮ついた雰囲気にあった。

「きっとそっちも中止ね。兵吾くん、お祭りとか好き?」

「そんな風に見える?」

「ぜんぜん」

 朱袮の無邪気な即答に失笑してしまう。ほとんど自嘲に近いが不快ではなかった。むしろ彼女から言われると褒め言葉のようにさえ聞こえた。

 兵吾は人の多い場所が嫌いだった。祭りに限らず、休日のデパートも、通勤時間帯の歩道も、可能な限り避けてきた。行き交う人々は誰もがなんの不安も抱いておらず、人生が愛と希望に充足しているような笑顔であり、そんな只中にいる自分をなぜだか無性に場違いに感じてしまうのだ。

 もちろん幼少期は違っただろうが、それがいつ頃芽生えた感覚なのか定かでないほどに、その性質は骨身に染みついていた。

「でも兵吾くん」朱袮は唇の端を人差し指で持ち上げて見せた。「楽しそうだよ」

 自分の口角が緩んでいるのは兵吾も自覚していた。後部席の暗がりで蹲る二つのボストンバッグを一顧する。

 答えようとしたところで、信号が青に変わった。だが歩行者の列は途絶えない。

 中高生とおぼしい少年たちが我が物顔でだらだらと歩いている。歩行者用の信号は少年たちの横暴を叱咤するように真っ赤に輝いているが、彼らはお構いなしだ。あまつさえ信号待ちの先頭車であるこちらへと小賢しい嘲笑顔を向けてくる。

 祭りだからはしゃいでいるのか。焦るのを格好悪いと思っているのか。社会へのささやかな反抗をかっこいいとでも思っているのか。

「くそが」

 腹の底で膨らんだ不快感が、赤黒い衝動となって爆発的に煮え滾った。

 クラッチを繋ぎ、アクセルを蹴飛ばす。エンジンが獰猛に吼えたて、黒いSUVは猛った闘牛のように横断歩道へ突っこんだ。直前でブレーキを踏みつける。タイヤが肌を粟立たせる悲鳴を発する。

 ヘッドライトの光芒には尻餅をつく少年たちが浮かび上がっていた。

 他人に向けるぶんには毛ほども気に留めなかった理不尽を、自分に返されるとは夢にも思わなかったのか。いまや先までの野放図な気勢は消え失せ、その表情は無垢な赤子のようにぽかんと放心し蒼褪めている。

 朱袮はつんのめるようにダッシュボードに手をついて、兵吾を凝視していた。

 わずかに目を見開いたその眼差しには責め咎める色はなかったが、少年たちを横目に車を発進させながら、兵吾は謝った。

「ごめん。ああいう連中は我慢ならない」

 だがそれは朱袮を驚かせたこと、危険運転に彼女を巻きこんだことへ宛てたものであり、行為そのものに対する謝罪ではなかった。不誠実な平謝りだ。

 感情と衝動に正直になること。それは兵吾が狼の世界で切望していたこと、また狼の世界で生きていくために必要だと思いなしていることだった。朱袮から学んだことではなく、自ずから導きだした信念だ。

 同じような場面に出くわしたら、自分はまた同じようにするだろう。だから兵吾はもう一度、ごめん、と朱袮に詫びた。朱袮はよいしょと居住まいを正し、低く笑った。

「兵吾くん。気持ちはわかるけど、無茶はしないでね」

 頷いて、先ほど言いそびれたことを口にする。

「俺たちの祭りはこれからだからね」

「ミカエルみたいなこと言わないでよ」

 たまご型の目を楕円に潰してくすくすと笑う朱袮。

 妖しく輝くネオン街へとハンドルを切りながら、兵吾も笑った。

 祭りが始まる。




 原則、施設利用者以外の駐車を禁止した公民館ではあったが、無人になる夜間には規則などあってないようなものだった。夜の遊興目的の車で半分以上も埋まったそこに兵吾はSUVを停めた。

 後部座席からそれぞれ一つずつボストンバッグを取り出し、二人は徒歩で目的地に向かった。

 繁華街と住宅街を縫う物静かな街路、街灯は極端に少なく、人通りもない。車の往来はあったが、一見なんの変哲もない歩道のカップルを細部まで記憶に留める人間はいない。問題視すべきは防犯カメラだけであり、目的地まで五分ほどの道則が完全なる死角であることは事前に調査済みだった。

 兵吾の服装は朱袮が選んだものだ。もちろん明らかに人目を惹きそうな例の黒づくめではない。七分袖の黒いスポーツインナーに青いポロシャツ、深緑色の細身のジーンズ。ファッションというものと縁遠かった兵吾にとってはずいぶんなお洒落だったが、朱袮いわく、動きやすく、何よりも良くも悪くも普遍的で目立たない服装なのだそうだ。

 朱袮のほうもスーツでもジャージでもない。白いプリントシャツにジーンズ生地のキュロットスカート。着飾りすぎず身軽な、けれども年頃の女として見劣りしない平服だった。もっとも、容姿の整った朱袮が着ればどうしても膝から下の健康的な素足に行き交う男の目がいくのは避けられない。

 当該の建物まであと百メートル。ちらほらと見受けられるようになった人々の往来が完全なる無になったタイミングで目的地に到達できるよう、二人は携帯電話を操作したり、自動販売機の前で立ち止まったりして、あくまでも自然体を装い歩く速度を調整した。

 そこは、なんの変哲もないオフィスビルに見えた。こじんまりとした三階建てで、一階の窓は暗いが、二階、三階の閉め切られたカーテンは内部の灯りにぼんやりと輝いている。

 いかにも残業に追われる事務所といった趣きはオフィス街では珍しくないが、労基もくそもないこの事務所に詰めている連中にも残業という概念はあるのだろうか、兵吾は疑問だった。

 ここはいわゆる組事務所だった。この界隈で幅を利かせている暴力団の根城である。

「こうしているとデートみたいだね。……兵吾くん、緊張してる?」

 兵吾はまじまじと朱袮を見返した。いたって平静で柔和な面持ちは、まるでデートについての緊張を問うているようだった。もちろん、そんなわけがない。力なく苦笑しながらかぶりを振る。

「どうだろう……。よくわからない」

 目的地に近づくにつれ心音は高鳴っていた。暑さによるものだけではない発汗もあった。けれどもそれが緊張なのか、高揚なのか、判別がつかない。

 兵吾はあらためて考える。これから自分がしようとしていることを。

 すなわち、他人を大量に殺害することについて。

 対象は堅気ではない。羊から搾取するハイエナ。狼にもなりきれない半端な悪党だ。だが、それは言い訳にはなるかもしれないが、気休めにはならなかった。善悪といった個人の人間性など関係がない。兵吾にとっては赤の他人に違いなく、殺意を仕向けるに以前に名も知らないのだから。

 けれども――それがなんだというのだ。

 兵吾は深々と息を吸い、ぐいと顎をあげた。排ガスの雑じった不浄の空気で肺を満たし、隠微な薄闇をまっすぐに見据え、黒く硬いアスファルトを踏みしめて、進み続けた。

 罰への恐怖はなかった。そんなものは悪辣な元上司の庭先で、モチノキの生垣の中に置き去りにしてきた。罪への嫌悪はなかった。そんなものは羊の群れの中で無垢に笑っていたころの自我とともに消え去っていた。

 決意は揺るぎない。不安と不満と鬱憤と焦燥によって刻々と迫っていた圧死。そこから解放してくれた無法の世界への希望は絶対だった。そこへ導いてくれた朱袮への信頼は全幅だった。

「愚問だったみたいだね」

 兵吾の覚悟を見越していたかのように、朗らかな笑顔を湛えた朱袮は満足そうに顎を引いた。

 現場に到着。建屋の外壁の階段を上り、一階の踊り場に身を潜ませた二人は、各々のバッグから商売道具を取り出した。

 黒色の機関部と歪曲した長い箱型弾倉。無骨そのものであるそれらの操作部に木製である前部銃床と銃把とが暖色の色合いを添えている。側面に折り畳めるフレーム状の銃床、短い露出部を経て先端でラッパ状にふくらむガス圧上昇器付きの銃身が特徴的だった。

 それはAKS47S。騎兵銃カービンと呼んでも遜色ない小柄な体躯にあらゆる戦場で研鑽された暴力を詰めこんだ、七・六二ミリ×三九弾を使用するどこまでも実戦的な突撃銃。

 兵吾はフォールディングストックを一八〇度旋回し、固定させる。一見するといかにもやわな銃床は、けれどもその役割に見合った堅牢さをもって肩の付け根に食いこみ、実の詰まった堅い果実のような手触りの前部銃床と銃把は有機素材特有の滑らかさで手のひらに落ち着く。

 ミカエルからプレゼントされ、初めてそれに触れた時の興奮と緊張は、もはや兵吾にはなかった。この二週間、時間の許す限りこの銃の分解結合を繰り返した。身体の一部とはいかないまでも、諸手の延長線上にあってもなんら違和感のない道具として頭が従容と受け入れている。

 銃とは武器であり、武器とはとどのつまりが道具でしかない。ガンマニアが抱きがちな銃器に対する神聖視は、兵吾の中から消え去っていた。道具を手にする度に小鼻を膨らませる職人はいない。

 今では目隠し状態でも通常分解と結合を一分以内に終えることができる。陸自教育隊であてがわれた64式小銃ではどんなに急いでも三分はかかった。もちろん、目隠しなど試そうと思ったこともない。それだけでこの小銃が軍用銃としていかに優秀か推し量れようものである。

 銃を一度バッグの上に置き、チェストリグに袖を通す。チェストリグとはマガジンパウチが連なったベストのようなものであり、AK用の三十発入り弾倉が三本挿してあった。合計で六つの弾倉を収納できるタイプだったが、今回の仕事ではそこまでの弾数は必要ない。もっと言えばチェストリグでさえも不要かもしれなかったが、予備弾倉をあえて携行しないという選択肢はあり得ない。

 最後に、朱袮から手渡されてから絶えず肌身離さないようにしている四五口径の大型密造拳銃をポロシャツの裾に隠せるコンシールドヒップホルスターに挿し、同じく彼女から貰ったバラクラバを取りあげ、兵吾は朱袮を見やった。

 同様の身支度を終えた朱袮は、白い狐面を手にしていた。祭りの宵に相応しい。

「お仕事の時間よ」

「しまっていこう」

 二人は同時にそれを被る。目だし帽と狐面。まるで趣きの異なった、けれども常軌を逸した威容さだけは共通した二体の幽鬼は、そうして地方都市の一角で人知れず完成した。

 それ以降、言葉は要らなかった。同時にAK機関部の右側面に生えた槓杆を引く。その物々しい金属音が合図になった。すっくと立ち上がり、階段を駆け上がる。

 兵吾は二階のドアの脇に背を預けた。朱袮は三階。各々の目標は各階の制圧にあった。二階にトイレがあるだけで、両階ともに一室だけの単純な構造だった。引き続き三階までのぼった朱袮の靴音が途絶える。

 ――あなたは狼。

 朱袮から贈られた言葉が、兵吾には闘志の号砲となっていた。

 ――羊じゃない。

 胸の内で唱えてから、ドアを開けて踏みこんだ。

 金髪の男と鉢合わせた。銜え煙草だが火は点いておらず、外で一服しようとしていたのだろう。

「ああっ!? なんだおま」

 男の恫喝的な誰何を兵吾は最後まで許さなかった。谷照門の中心に棒照星をおき、棒照星を白いシャツの胸に載せ、すばやくサイト・アライメントを済ませると、躊躇なく引き金を切った。

 ぐるりと白目を剥き、膝からくず折れ綿埃と血煙の中に沈む男の首筋に、もう一発放つ。ダブルタップはもう古い。闇雲にただ素早く二発撃つよりも、狙いを定めて一発一発撃ったほうが制圧効果は飛躍的に上昇する。ダブルヒットという考えかただった。

 イヤマフを仕込んだバラクラバ越しにもその銃声は鼓膜を刺すほどに鋭く、短い銃身を介したガス圧上昇器から迸るライフル弾の発射炎は眩いほどだった。地肌への貫通銃創による夥しい血飛沫が男の背後に朱色の斑点を描く。

 天井越しに上階での銃撃音が聞こえた気がした。部屋の奥で驚倒の罵声が聞こえる気がした。銃声とイヤマフで兵吾の聴覚は曖昧だったが、意識はかつてないないほどに目まぐるしく、鮮明だった。

 けっして足を止めず、部屋を横断するかたちで金髪男の死体に歩み寄りながら、アライメントを崩さないまま銃身を左方に振る。銃口を隔て、照準を介することにより視野は沈着そのものだった。見取り図でしか知らなかった室内の全容を自らの目で把握し、地形として掌握する。

 入り口から見て左に奥行を有する部屋であり、壁際に事務机が二つ。中央のパーテーションを挟んでソファがあった。事務机の一つに腰を下ろしていたスーツの男は兵吾に正対していたが、金縛りにあったように全身を強張らせ尻を椅子に縫いつけたまま立ち上がろうとしない。

 その胸と頭部に一発ずつ、兵吾は七・六二ミリの無感傷の殺意を叩きこんだ。ようやく椅子との決別を果たした身体は盛大な物音をたてながらもんどりうって卒倒した。

 殺人に及ぶ際、素人は執拗に攻撃し過ぎる傾向にあるという。身体をどれぐらい破壊すれば人間が死に至るかわからないからだ。だが玄人にとって殺すことは重要ではない。重要なのは反撃できないまでに無力化することだ。その点でも、ダブルヒットの銃撃は理に適っていた。多過ぎず、少な過ぎない、人間を一人分きっちりと殺せる。

 兵吾に焦りはなかった。緩慢とさえいえる歩行で金髪男の血だまりを避ける。だが、ソファに照準を移した時、初めて戸惑いを覚えた。

 中年の浅黒い肌の男が汚らしい下半身をさらしてソファに膝立ちになり、片手で構えたスマートフォンは動画の録画を意味するグリーンのランプを点していた。

 その足許、その被写体、一人の少女が横たえていた。スカートとショーツは毟り取られ、ブラウスははだけていたが、かろうじて残ったスカーフからどうやら高校生であることが知れる。

 密室に半裸の少女と複数の男たち。その事実は凄惨な情事を明確に過ぎるほどに物語っていた。兵吾に殺意の瘴気を充てるには十分だった。

「下種が」

 憐れな排除対象でしかなかったはずの男たちが、処刑に値する害悪へと豹変する。半裸の男を即座に撃ち斃す。ソファから転げ落ちた男の足が水泳のバタ足をするかのように痙攣している。兵吾が踏み入る前からそうだった泣き腫らした少女の顔に返り血が散り、茫然とした表情の眼球だけが戦慄に散大した。

「なんだよおい! ちょっと待て!」

 不意に奥から野太い怒号が聞こえた。

 黒いジャージ姿の大男がいたが、厳めしい図体は見かけ倒しか、慄然というタイトルでつくられた蝋人形のように立ち尽くしてた。少女以上に譫妄状態にあることは一見して明らかなその男の声だとは思えない。

 その背後、トイレのドアが半開きになっていた。彼の肩に手が置かれ、その脇からにょっきりと半自動拳銃を握った手が生える。間が悪いことに、その男はトイレで用を足していたのだろう。

「おいこら! ちょっと待てってえぇっ!」

 恐慌しきった無意味な制止とは裏腹に、その男だけは修羅に慣れているようだった。常に銃を手離さず、大男を盾にする程度の知恵は利く。

 右利きか――。兵吾は対象との位置関係を確認し、進行方向を反転させ、左方の入り口側の壁面を伝うように移動し始めた。軽い、渇いた銃声が響き、彼岸から発される衝撃波が肌を震わせる。拳銃から発射された弾丸はソファに突き刺さり、綿を噴き上げた。

 ドッヂボールと同じだった。右利きの射手と対峙した場合は左に射線を避けたほうがいい。右手で銃把を握って照準すると左方向へは広い範囲でカバーできるが、右方向へは身体の旋回を伴わなければならない。

 もっとも、これは照準に肩づけを必要とする長銃に限った話であり、取り回しの利く拳銃はその限りではないのだが、大男の図体に隠れて腕だけを突きだして撃つという、短銃の利点を自ら殺してしまうような射撃法では、移動さえしていればまず被弾する恐れはなかった。

 そして人質の盾に使うには人選が悪く、相手の得物も悪かった。人相の悪い大男も組の一員に違いなく、排除対象でしかない。七・六二ミリの高速弾を前に人体など遮蔽物として用をなさない。

 ゆるかやな歩行で出鱈目な発砲を躱しながら、はれぼったい唇に泡をためいやいやと首を振る大男に照準を据え、ラピッドファイアを浴びせかけた。単射による速射、引き金を切るたびに着弾の獰猛なエネルギーが大男に不様な踊りを踊らせ、二人は執拗に突き飛ばされたかのように諸共そのまま狭いトイレへと押しやられ、どうと倒れ伏した。便器の縁が血に染まり、人感センサーの流水が無意味に作動しじゃーと鳴った。

 兵吾は硝煙で淡く白濁した室内を一周し、もう脅威がないことを確認してからようやく足を止めた。戦果を見渡し、鼻で深呼吸する。銃声の音響に比例するように研ぎ澄まされた闘志が退いていく。残ったのは戦場跡に降り落ちる残滓、心地のよい昂奮と死の匂いだけだった。

 血の生臭さと爆雷のきな臭さの混じった汚臭はとても芳しいとはいえそうになかったが、慣れることができそうなものだった。模糊とした聴覚には空薬莢がリノリウムで弾む高音が心地よかった。久しく触れなければきっと懐かしくさえなるはずだ、とも思う。

 そういえば上の階はどうなっただろう、と入り口を振り返ったタイミングで、数回に分けたノックの音が聞こえた。事前に決めておいた合図だった。先に制圧を済ませたほうが合流する運びになっていた。

「上には三人しかいなかったからちょっと心配したんだけど……」

 朱袮は血と射殺体に彩られた室内を見渡し、お面越しにくぐもった忍び笑いをもらした。不気味な笑みを湛えた狐面によく似合っていた。

「兵吾くんといると杞憂が絶えないよ」

「なんとか上手くいったよ」

「拳銃の銃声が聞こえたけど、反撃にあったの?」

 あの騒乱でそこまで分析できるのか。兵吾は感心しながらトイレを顎でしゃくる。

「あいつだ。組員を盾に撃ってきたんだ。……それで――」

 そして先の安全確認の際に気づいた言いにくい事実に、ソファに目配せをした。

 女学生が死んでいた。拳銃を乱射された時、その流れ弾を受けたのだ。

 右の眼窩から穿孔し、左のこめかみから抜けたのだろう。中身を失った瞼は扁平で、黒い涙をこぼす左眼は赤黒く鬱血していた。射出孔周囲の栗色の髪には脳漿と思しい白っぽい破片が付着している。顔面の上半分の悲劇を与り知らぬよう、幼さが色濃く残る小さな唇は茫然とした表情のままぽかんと開口していた。

「一般人か……。不確定要素ね」

 朱袮は狐面を額まで持ち上げ、瞼を閉じてやることも叶わない亡骸に瞑目すると、トイレに向かった。進みざまに床に転がる拳銃を無造作に蹴飛ばす。兵吾は薬莢を弾きながら足許に転がってきた漆黒の得物をまじまじと見下ろし、思わずうなった。

「凄い。バギーラだ」

 MP−444。 ポリマーを使用した先進的な角ばったデザイン。九ミリパラベラム弾を一五発装填できる半自動拳銃だった。かつてはヤクザの銃といえば黒星トカレフ赤星マカロフと相場が決まっていたが、最近では九〇年代に開発された近代的な銃も密輸されているようだ。その出処がかの大国である点は不変的だが。

「もらっていいかな?」

 朱袮は呆れたように肩をすくめるに留めた。ジャージの大男を脇に退かす。戦利品をポケットに収めた兵吾が肩越しに覗きこむ。唯一抵抗らしい抵抗を見せた男はまだ生きていた。

 ねずみ色のスーツが部分的に黒く染まっている。返り血に依るものではなく、見るみる拡がっていく滲みは男の生命が流れ出ていくのを示していた。貫通弾で威力が減衰し即死は免れたとしても、盲管銃創は身体を内部から獰猛な勢いで貪る。

 爬虫類を思わせる顔立ちの壮年の男だったが、かつては畏れられたであろうその狡猾さは今や見る影もない。くたりと弛緩した身体にはもう身じろぎをする力も残っていないようで、満足に動くのは間遠な息遣いを繰り返す胸と襲撃者の姿を怨めしそうに睨める眼球だけだった。

 弱々しく咳きこんで、喀血に湿った声をもらす。

「……ふぅっ、ふざけんなよ、お前ら。……ただで済むと思うなよ」

「もちろん、ただでは済まないわよ」

 朱袮は酷薄に嘲笑し、おもむろに男の腹部を踏みつけた。水を吸ったスポンジのように体液が染み出る。途端、濃厚な血の臭いに排泄物のそれが雑じる。腹の内から鳴る鈍く瑞々しい濁音は、すぐにうめき声に掻き消された。

「あの女子高生は? 答えろ」

「うっぎゅうううっ……! 知らね、知らねえよっ! ただのガキだあ。近くの、高校のぉ!」

「どういう経緯でここにいるのかと訊いている」

「え、エレクシオだ! 入信したがってるガキがいるってぇ、紹介されたんだよぉ……!」

 エレクシオ。エレクシオ真理教団。兵吾は朱袮の横顔をちらりと見やった。

 訓練の二週間でも、兵吾は一切の疑問を呈さなかった。なぜ暴力団を襲うのか。目的はなんなのか。まったく気にならなかったといえば嘘になるが、些末な疑念などそれを上回る充実により塗り潰されていた。

 しかし、ミカエルとの遣り取りで見せた不審から、くだんの新興宗教が関係していると察してはいた。どうやら朱袮の一連の行動は教団との因縁によるのは疑いがないようだった。

「入信希望者を味見してたってわけ。呆れた仲介組織……。末端組織の腐敗は間違いないようね」

 朱袮は忌々しげな唾棄とは裏腹に足の力を緩めた。悶絶から束の間の休息を得た男は酸素を貪る。

 苦痛は今際の際の口さえも軽くする。はからずも生を実感し、それに執着したくなるからだ。薄氷ほどの男の面子もまた、容易く瓦解したのだろう。血走った虚ろな目は活路を探し求めるように狂おしいほど泳いでいた。

「な、なんだ、お前ら。あのガキへの仕打ちが気に入らないのか? だ、だったら紹介してきたネットオタクを教えてやるから、勘弁してくれねえか……?」

「必要ない。知ってるから。エレクシオ真理教団関東甲信越取締幹部、関高久」

 男は目を剥いた。兵吾もだった。

 もはや名すら思い返すことはないだろうと思いなしていたかつての悪辣なる上司。彼がエレクシオの教団員であることは教団のシンボルである半月のネックレスを身に着けていたことから明らかだったが、この地域の取締幹部とは、どれぐらいの地位なのか。教団にとって大物であったことは確かなようだ。

 あうあうと喘ぐ男を足蹴にしながら、朱袮は続ける。

「あの男は取締幹部の肩書を利用して悪逆を尽くした。だから死んだ。私たちが殺した」

「お、お前らも信者なのか? まさか暗部の処刑隊か……!? サツに騒がれたから尻尾切りしようってのかよ!」

 真相に思い至ったという男の言葉を、しかし朱袮は真っ向から切り捨てた。

「処刑隊も同様だ。彼女の遺志を穢すものは例外なく葬り去る」

「じゃあ! じゃあお前らはなんなんだよお!」

「私はオリジナルメンバー。聖女の教えを身に刻む、原初の信奉者だ」

 兵吾は息を呑んだ。朱袮の表情はガラスのように硬質で、声音は読経のように平坦だった。路傍の石ころを見るほどの感情さえも映してはいない。だからこそ、その奥で煮えたぎる憤怒は鮮明だった。

「これは腐った教団への宣戦布告だ。聖女の名のもとに執りおこなわれる聖戦だ」

 朱袮からむせ返るほどに立ち昇るのは、兵吾が初めて感じる種類の激情。それは狂気。聖女とやらに宛てられた、狂おしいほどの信奉だった。百足が這うようなおぞましい悪寒に首筋が強張る。兵吾の眼前で男を処刑しようとしているのは、狼の世界の師ではない。その姿は到底理解できないイデオロギーに衝き動かされるテロリストそのものだった。

「死んで、腐って、地獄で、詫びろ」

 朱袮は男の顔面に突撃銃の銃口を突きつけ、無造作に絞った。

 銃口から迸る轟音と閃光が泥人形のあたまを潰すほどの造作もなく男の顔面を肉片に変えた。毛髪と頭蓋と脳漿とが洋式便器を斑な朱に染め上げる。再びセンサーが反応し、頭部の破片が混じった汚水が渦にのまれて消えていく。

 二人はビルの屋上から屋上へ飛び移り、銃声に呼び寄せられた野次馬の衆人監視を躱して首尾よく現場を離れた。パトカーのサイレンが騒ぎ始めたのは公民館に駐車しておいた車に戻ってからだった。

 兵吾の最初の仕事は万事うまくいった。祭りは滞りなく完了した。けれども成功を祝う雰囲気にはなれなかった。ハンドルを切りながら朱袮の様子を窺う。彼女はあれから一言も口を利いていない。ウィンドウ越しに移ろう夜景を見つめたまま、兵吾と目を合わせようとしない。

 兵吾は久しく紫煙を恋しく感じた。





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