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スノーボールアースとオーク鬼。そして――

 一面の白銀世界。


 パノラマで広がる、青空と白い氷原のコントラスト。青と白。


 遠い地平線まで、きらきらと光り輝く無限の氷河、そしてそれを覆う無限の蒼穹。




 ここは凍った世界。


 見わたす限り、何処にも生き物の姿など見えない。

 死の世界だ。


 かつてそこら中を覆っていた緑も、その緑が齎していた魔力と生命力の猛りも、この氷の白銀世界からは窺えない。




 だがその生命なき世界の只中に、屹然としてそびえる巨大な塔があった。

 それは雲よりも高くまで伸びる塔であった。白氷の塔だ。どれほどの太さがあるか見当もつかない、氷で太った塔だ。四方八方から吹き付ける、若干の水分しか含まぬ乾いた風が、長年に渡って、そのわずかな水分を叩きつけることで、塔を氷の鎧で覆ってしまったのだ。まるでその塔は、何か巨大な動物を支える脚のようでもあった。かつてのニンゲンの伝承に記されていたという、天を支えた古の巨人の脚だと言われれば、それで納得してしまいそうな、凄まじい威容であった。


 ……いや、この氷の世界になる前の、遥か昔から生きていた住人がもしいたならば、きっとこの塔を、こう表現するだろう。

 もはや滅びて廃れた概念で、こう表現するだろう。






 すなわちそれは“塔”ではなく、ましてや巨人や巨獣の“脚”ですらなく――






 ――“大樹”である、と。






  ◆◇◆






 かつてここには森があり、海があった。


 気の遠くなるくらい昔、そこには生命の喜びがあった。


 竜が舞い、森が猛り、人が抗い、オークが笑ったそんな世界があった。




 だがそれは、今は昔の話。遠い遠い昔の話。




 栄枯盛衰、盛者必滅。


 繁栄も衰退もこの世の理。


 生物種の命運とて、永遠に続くことなどありえないのだ。


 惑星や恒星にすら寿命おわりがあるのだ、なぜ星よりもちっぽけな生物種がそれを逃れられようか。




 いまやここは氷の世界。




 平均気温はマイナス三十度を下回り、かつて海だった場所は、百メートル近い厚さの氷床で蓋をされている。


 この凍った世界には、一見したところ、生き物の姿は認められない。






 数千年前、マンドレイク・フォレストキングの本体たる森林は爆発的に拡大した。そしてそれは、温室効果ガスの異常な減少を招いた。


 温室効果ガスの減少は、惑星の寒冷化を招き、氷河を拡大させることとなった。

 氷河と氷床は、極地からあっという間に広がり、惑星を覆っていった。


 そして、白銀に光る氷床が太陽光をきらきらと鏡のように反射してしまうため、氷河が広がって以降は、地面や海や大気に、蓄えられる太陽からの熱は極端に少なくなった。地面や海が温まる間もなく、熱はすぐに宇宙へと逃げてしまうようになったのだ。世界中が一斉に冬になったようなものだ。


 白銀が広がり、海が凍るたびに、惑星はますます冷えていった。加速度的に冷えていった。




 さらに折悪しく、太陽の活動が停滞期に陥ってしまい、惑星に降り注ぐエネルギーそのものが減ってしまった。


 太陽は、数百年周期で活動期と停滞期を繰り返している。太陽活動にはムラがあるのだ。タイミングが悪いことに、その停滞期が、温室効果ガスの減少と重なってしまった。それは生物にとって不幸な偶然であった。そして太陽の停滞期の間に、ますます氷床は拡大することとなった。

 ある意味では、かつて何度となくこの惑星に訪れた氷河期と同じように、太陽の陰りが原因で、氷の季節がもたらされたとも言えるのだ。




 だが今回の氷河期は、今までの氷河期とは違っていた。

 それは地表を覆い尽くした森の王――マンドレイク・フォレストキングの存在だ。


 太陽活動の低下による流入エネルギーの減少と、温室効果ガス減少による流出エネルギーの増大……、この二つの要因によって、空前絶後の寒冷化が起こったのだ。




 ――この惑星が全て凍りついたのは、太陽が停滞期に入ってから、間もなくのことであった。

 惑星表面全てが、白氷に覆われる現象――全球凍結スノーボールアースと呼ばれる現象だ。






◆◇◆






 もちろん、オーク鬼やマンドレイクも、猛威をふるう“自然”に対して全く抵抗しなかったわけではない。


 冒頭で示した白銀世界から数千年前――地表が完全に凍りつく前に、オーク鬼たちだって、色々と対策を講じようとはしたのだ。






「“内政屋”のモーバ、おい聞いているのか!?」


 始まりの巫女が、眦を決して声を荒げる。


「……なんか言ったかー? 始祖巫女のオードの姐さん」


 怒鳴られた方は耳を伏せて億劫そうに答える。モーバと呼ばれる蒼眼のオーク鬼だ。


「寒冷化に対する対処だよ! 寒いからってぼうっとしてるんじゃない! じわじわ凍土と氷河が広がっているのを、どうにかしろって言ってるんだ!」


「……いやだって寒くてなー、頭回んないんだよぅー。寒すぎて、森王様と一体化しちゃってるサーラちゃんも、ほとんど眠ってるみたいなもんじゃないかよぅー」



 冬眠しようぜ、冬眠ー。それに最近長年お気に入りだったペットが死んで悲しいんだよー、と言って机に突っ伏す、蒼眼の内政屋。

 ちなみにこいつが言っているペットとは、いつだかに捕獲した勇者の傍流の娘である。

 彼女はモーバによるたび重なる肉体改造と、無理やり行わされた魂の力の吸収による強靭化などによってバカみたいに長寿化させられていたのだったが、ついに寿命によって死んだらしい。


 モーバはかなりそのペットに執心していたようで(もちろん丹精込めて作り上げたお気に入りの作品と言う意味でだが)、彼女が死んで以来、明らかにやる気を喪失していた。……まあそれでも、この内政屋は凡百よりは遥かに優秀なのだが。




「あの未来人にまとめさせた報告を読んだだろう! このままでは冬眠が永眠になりかねないぞ! 眠って起きる機会が来るとは限らないんだ」


「元アルハズラットの、イースくんの報告書だろー? 読んだ読んだー。ていうか今も読んでるよぅー」



モーバが手元の紙の束をぱらぱらと捲る。

 それは未来人である時間渡航者――イースと名乗るオーク鬼――が齎した、惑星寒冷化に関する報告書であった。

 この、今はオーク鬼の肉体へ憑依しているイースという時間渡航者と、オーク鬼たちとの間には、浅からぬ因縁があるのだが、それは今は割愛する。



「イースの奴が居たという未来において、惑星表面は全て凍りついていたらしい。原因もそこに書いてある通りだ」


「原因は、大まかには、太陽活動鈍化と、温室効果ガスの致命的減少……その二つだねー。ほかにも彗星屑が惑星軌道の内側にばらまかれたとか云々書いてあるけど、まあ、つまりは、熱収支のバランス崩壊による平衡点の移動だなー」



 これまでこの惑星の大部分の地域は、植物や生物の生育に適した温度を保っていた。

 つまり生命の源たる水が全て凍りつくような低温でもなく、海が瞬時に沸き立って蒸発するような高温でもなかった、ということだ。

 だが、水が水として存在できるというのは、実は、まことに儚い平衡でしかなかったのだ。



 例えるならばそれは、細い綱上を渡る道化のような、そんな不安定なものでしかなかった。

 海に浮かぶ鋼鉄船のような、一つ隔壁が破れれば沈むしかないような、そんな脆いものだったのだ。

 まあ、生命を育める惑星というのは、この広い宇宙でもなかなかに希少だということだ。



「この寒冷化を予見し得なかった私が言うのもなんだがねー、もう今更どうしようもなくねーかー? 始祖巫女殿よー」


「むぅ……」



 内政屋が諦め気味なのも無理はない。

 もはや道化は綱から落ちたのだ。足を踏み外した道化は、今更綱の上に戻せはしない。あとは落ちるところまで落ちるだけなのだ。

 実際、惑星の寒冷化は、既に取り返しのつかないところまで進行してしまっているようだった。オーク鬼たちが何らかの対処をしても、それが効果を表す前に、氷河の拡大は、臨界点を超えてしまうだろう。

 いやいっそのこと、落ちるところまで落としてしまったほうが楽かもしれない。



「イースくんの報告書も、もう少し早く上がって来てりゃあ、何とでも対処のしようがあったんだがねぇー」



 ぺらぺらばさばさと報告書の束を振るモーバ。

 イースの上げた報告書は、タイミング的にもうどうしようもない状態にまで陥ってから上がって来たものだった。

 それは、元ニンゲンの『最後の一人』(ラストマン)であったイースから、何度もニンゲンを深海底に追いやったオーク鬼たちに対する、ささやかだが重篤な嫌がらせだったのかもしれない。あるいは、オーク鬼を絶滅に追い込むことで、その最後の一匹(ラストオーク)を、滅亡の絶望と孤独で以って、自分と同じように時空を超えた『イースの種族』へと引きずり込みたかったのかもしれない。……まあ、イースの真意は分からないが、彼の報告の遅れが意図的なものであったことは確かである。イースはオーク鬼であってオーク鬼ではない、一人で一種の『偉大なる種族』なのだから、森王に奉仕する義務など毛ほども感じてないに違いない。



「とにかく、やるだけのことはやってみるさー、始祖巫女殿」


「ああ、頼む。この手のことに関しては、お前の手腕に期待しているのだから」



 勿論その会話の最中にも、内政屋のモーバの脳裏では、様々な手段が思い浮かんでは消えていた。



(……凍結に対応した品種の開発、凍土を溶かすための黒色粉の散布、いやいっそ、いままで備蓄した地下茎の一部を盛大に燃やして温室効果ガスを放出……いや掘り出した石油や石炭の燃焼が先か? まて、別に燃焼ガスに限らなくてももっと効果的な温室効果ガスだってあるはず……しかしコントロール可能かな、そんなものばら撒いたとして果たして。あるいは森全体での発熱魔法によって無理やり熱収支をバランス……、それともマントルまで貫く土魔法による地熱の誘導……でも――)



 しかし、「正直無理っぽいよなー……」というのがモーバの感想であった。

 道化は綱から転落し、鋼鉄船には穴が開いている。動き始めた事態は圧倒的な慣性で以って、オーク鬼の小細工など粉砕するだろう。

 この森王の惑星は、もはや凍るしかないように思われた。



 だが。



(綱渡りから落ちたら、また昇りなおせば良い。沈没したなら落ち着いてから引き揚げれば良い。こんなのは凍ってから考えれば良いだけの話だ)



 数千年から数万年もかければ、やがては氷を溶かす目処も立つだろう。今ここで付け焼刃で考えるよりも、もっと洗練された手法を後世の誰かが思いつくかもしれないし、太陽だってまた活発化するかもしれない。温室効果ガスだって、火山から供給されるものが徐々に大気に満ちるかも知れない。

 それに、仮に惑星が全て凍ってしまっても、その後の数千年間は森を生き延びさせる自信が、モーバにはあった。それだけの備蓄はあるし、またそれとは別の宛てもある。

 この惑星が凍らないに越したことはないのだが、もし凍ってしまってもかまわない。内政屋は思案する。



(あるいは氷を溶かすくらいなら、保険として全く別の新天地を目指しても良いかも知れんな――)



 そう思って彼は、上を――正確には空の方を見上げた。

 天井よりも上の、無限の蒼穹のさらに果て、星星が輝くあの宇宙を彼は想う。

 そこに広大無辺の、新天地が広がっていることを、彼は知っている。


 その無辺の暗黒虚無を渡るには、彼の一生ではとても足りないのは明らかだ。

 彼自身は、新天地に辿り着くことは出来ないだろう。


 だが、彼の子孫なら?

 あるいはもっと長持ちする――そう、種子のようなものならば?


 内政屋は夢想する。宇宙の果てまで広がる森を、彼は脳裏に描いていた。




  ◆◇◆




 そしてそれから色々あった。数千年の月日が過ぎた。


 しかし、紆余曲折を省いて言うならば、こういうことになる。




『結局自然には勝てなかったよ……』




 まあつまりそういうことであった。




 オーク鬼と森王の抵抗も虚しく――



 ――森王の住まう惑星は、氷に閉ざされたのだ。




  ◆◇◆




 だが物語はそこで終わりではない。



 全てが氷で閉ざされてもなお、森は――オーク鬼たちは生きていた。

 それは地熱豊かな火山の周辺であったり、あるいは凍結しなかった深海中であったり、はたまた氷河をくりぬいてまるでガラス天井の温室のようにした氷中基地であったりだ。種子の形で氷中や氷河の下に眠っているものだって居る。地殻を刳り抜いて人工の火山を作った場所もある。

 さすがにかつての森林の大部分は冬眠状態にあったが、それでも、かろうじて幾つかの拠点は確保されていた。


 そして冒頭の、巨大すぎて先も見えないほどの“大樹”……これもまたオーク鬼の拠点の一つであった。


 地理的には、この氷の大樹はほぼ赤道直下に位置している。


 あたり一面は白銀一色。赤道直下でさえ分厚い氷に覆われているというのが、全球凍結の凄まじさを物語る。


 かつてここには、鬱蒼としたマンドレイクのジャングルがあったというのに、今はすべて氷の下だ。



 そして赤道直下というのは特別な意味を持つ。

 ここは地表の何処よりも惑星の地軸から離れた場所であり、すなわち自転による遠心力が最も大きく働く場所となる。遠心力は、惑星の引力と相殺しあう。つまり赤道直下とは、地表で最も、惑星からの引力が小さい場所ということだ。


 その遠心力と惑星の自転慣性を利用して飛翔体を投げ上げることにより、宇宙へと飛び出るエネルギーを多少は節約できる。

 すなわち、赤道直下というのは最も宇宙に近い場所だとも言えるのだ。




 ふと氷原の上に、ぼんやりとした影が落ちた。

 光が遮られると、ただでさえ冷たい風が、一層冷たく感じられる。

 影を落としたのは、雲だろうか? 凍った惑星では海からの蒸発がないため、もうかつてほど雲は見ないというのに……。


 雲でなければ、何だろうか?


 巨大な凍った大樹を見上げてみれば、なにやら途中に幾つも風船のようなものが浮いて、周辺の空へと漂っているのが見える。

 気球だろうか、それが地表に影を落としたのだ。

 おそらくは雲の出来る高さよりも上にまで、それは広がっている。幾つもの層を成して、まるでビーズをぶち撒けたように、その気球らしきものが空を漂っている。氷樹の大きさと比べてみると小さく見えるが、おそらく一つ一つの気球はかなり巨大なのではなかろうか。



 その気球は、中に緑色の何かが詰まっているようだった。

 フワフワした緑の綿が詰まっているように見える。

 軽くて頑丈な樹脂の膜に包まれた気球。

 そのなかの軽い緑の綿。

 きっと気球の中は暖かいのだろう、まるで温室のように。

 ……植物が光合成できる程度に。


 あれは実は、マンドレイクが抱える空中プラント(植物)・プラント(工場)なのだ。

 この巨大氷樹における『葉』といっても良いかもしれない。形は相当歪だが。


 だが、マンドレイクとオーク鬼にとって、スノーボールアース対策の本命は、この気球型の葉ではない。

 こんなものは、命脈を繋ぐための、たかだか予備電源にすぎない。


 彼らは考えた。

 『太陽が陰ったのならば、太陽を増やせばよいのだ』と。

 彼らの本命はもっと宇宙ソラ高くの――。


「ああ天輪よ」


 ――我々は栄光の時を取り戻すのだ。


 氷河の上でローブ姿の一匹のオーク鬼が空を見上げて呟いた。

 彼は偉大なる始祖たち――オード、ダーマ、モーバ、ビース、サーラ……――から続く血脈の末裔だ。


 その彼の視線の先には、宇宙に浮かんだ鏡の輪が、幾つも青空に浮かんで見えた。

 それはまるで、青い空を水面に見立てて、幾つもの雨垂れが波紋を広げた瞬間を縫い止めたような光景だった。

 太陽の恵みを跳ね返す天輪たち。太陽にして月たる人工物だ。


 オークたちは長い長い時間を掛けて、足りない光を集めるための鏡面を、遥か天高く、この赤道直下の大樹から発射し、宇宙の漆黒の闇の中へと浮かべたのだ。

 青い空に浮かび、仄かな光を照り返す幾つもの天輪。

 惑星の動きに追従するそれは、地表にこれまで以上の熱を集め、十数年の内に氷を飛躍的に溶かすだろう。


 もちろんオーク鬼たちが施した策は、それだけではない。


 彼らは他にも様々な保険を掛けている。

 たとえ自分たちがこの惑星において滅んでも、それでもなお彼らの神たる森王だけは続いて(・・・)いくようにと。


「行け、生命の種子よ、楽園はここだけではない」


 彼らは種を蒔く。

 いつかここではない場所で、自らの血脈を継ぐものが生まれるようにと祈って。

 この宇宙を自分たちの――いや、森王の因子で犯すのだ、蝕むのだ。彼らの神の意志に応えるために、広大無辺な宇宙へと彼らは踏み出したのだ。



“――――そうだ、森を広げるのだ。どこまでも、どこまでも、どこまでも。いつまでも、いつまでも、いつまでも。星の海の果て、時の波の果てまで――――”



 ハッとしてオーク鬼は大樹を見上げる。

 今は寒さで眠りがちな森の王の声だ。数千年の昔からオーク鬼に庇護を与える偉大な神の声だ。

 心に響くその声に、氷原に立つオーク鬼は笑みと決意をその顔に浮かべる。


「御意、我らが森の王。貴方様はこの惑星になど到底収まらぬものでありますれば」


 ――惑星にも恒星にも寿命がある。

 ――それなのにちっぽけな生物種が滅びを逃れられようか。


 だが、果たして本当にそうだろうか?


 ――――生物種が、森王が、星々よりもちっぽけだなんて、一体誰が決めたのだ?



  ◆◇◆




 パンスペルミア仮説。宇宙汎種説。


 そういうものを、ご存知だろうか。



 生物は進化してきた。

 この地球(・・)で、長年かけて、進化してきた。


 だが。

 その本当の初めにして始まりが、この地球だったと誰が決めたのだろうか?

 生命が無機物の中から生まれたのは、本当に、太古の地球の海の中だったのだろうか?


 確かに生物がこの地球で、その胚種から育って、長い歴史を歩んできたのは間違いない。


 しかし、その“始まり”は、何処にあるのか?

 何が始まりだったのか?

 原初の生物とは、何処で生まれたのか?


 それは、星の彼方の先史文明の奴隷だったのか、あるいはブラックホールの辺縁で合成され流れ着いた複雑な高分子だったのか、それとも超文明の宇宙船からの単なる排泄物だったのか――。

 何故我々は、盲目にも、我々自身がこの惑星の正真正銘の愛し子なのだと信じられるのか?

 “生物の起源は地球ではなく、実は宇宙の別の何処かなのだ”、なんてことが、全くあり得ないだなんて、言い切れるのだろうか。


 パンスペルミア仮説とは、生物のその起源を、宇宙にばら撒かれたパンスペルマに求めるものだ。宇宙の何処かには、我々と起源を同じくする兄弟たちが居て、そしてまた、我々の起源たる存在がいるのだと考える、そういうロマン溢れる仮説だ。そう、我々はこの宇宙でひとりきりではないのだと、パンスペルマ仮説は主張する。


「なんてねー」


 徹夜明けの冴えない頭から眠気の霧を追い払うためにコーヒーを啜りながら、教授はひとりごちる。

 ここはある研究室。

 太陽系の地球(・・)と呼ばれる惑星の、夢見がちな教授のその居城。

 


「何の証拠もないし。その超先史文明の電波でも宇宙に漂ってりゃ別なんだろうけどね」


 全く何の証拠もなく、宇宙から来たナニモノかにこの地球生命の起源を委ねるなど、決して科学的な態度ではない。科学とは、基本的には今ここにあるものだけで、理論を証明しなくてはならないのだ。(思考実験として、前提を無視して考えるのは面白いことではあるが)

 あるいは、その仮想の超文明が放った電波でも、人類文明がキャッチできていれば、パンスペルマ仮説も一考に値したかもしれない。

 だがそんな電波なり何なりの痕跡が未だ発見されていない以上、パンスペルマ仮説は与太話以上のものにはなっていない。それともあるいは、電波ではない手段でその超先史文明は交信をしていて、人類がそれをキャッチできる位階に達していないだけだ、とでもいうことだろうか。

 そう、その超先史文明は、例えば電波ではなく魔力だとかそういうファンタジーなもので交信していたとか――。


「いかんいかん、睡眠不足だと妙なことを考えてしまうな。そんなのは夢の中だけで充分だ。」


 ……まあこの教授は大体睡眠不足で常に白昼夢を見ては研究の着想を得るような人物なのだが。

 夢というのも侮れないものではある。


「そりゃあ、パンスペルマってのは、仮説としては面白いけどね」


 頭を振って眠気を飛ばしながら、教授は窓際へと近づく。

 朝日に照らされたそこにあるのは、小さな鉢植えのサボテンだ。


「そういえばサボテンすら枯らすズボラ女ってのを描いた話があったなあ、そしてそれをネタに『まさかお前はサボテンは枯らさないよな、ズボラの教授ちゃんよー』などとかつての恩師からこれを押し付けられたんだった。懐かしい」


 ()の内部の乾き具合を見るための爪楊枝がサボテンのそばに刺さっているので、それを引きぬいて水やり時期かどうかを確かめる。土が乾いていれば、それに刺さっていた爪楊枝も乾いているという寸法だ。確か前の水やりは数日前だから、そろそろ水やり時期のはずだ。


「痛たっ!」


 眠気を吹き飛ばすような鋭い刺激で、彼女は反射的に腕を引く。

 どうやら爪楊枝を土から引き抜くときに、サボテンのトゲが指に刺さったようだ。

 寝不足で目測を誤ったのだろう。

 しかも結構深く刺さってしまったのか、ぽたぽたと血が滴り落ちる。サボテンにも血が垂れた。


「あーあー。やっちゃった。確か瞬間接着剤がその辺にあったはず……、いや接着剤で傷の手当すると、細胞の水分が樹脂に置換されるからあんまり良くないか? いいやもう面倒だし、やっちゃえ」


 教授は机の引き出しを開けて瞬間接着剤を取り出すと、直ぐに傷口に垂らしてそれを塞ぐ。


「まあとりあえずはこれでオッケー。んでサボテンに直接かからないように水をたっぷり注いでー」


 鉢植えの下から水が滴るくらい注げば、水やりは終了だ。後数日は水をやらないでいいだろう。


「あーあ、徹夜しちゃたし、今日の講義どうしよっかなー。……うん、休講で」


 手早く手元の携帯端末を操作し、大学のグループウェアを通じて学生たちに休講の知らせを送る。

 まったく便利な世の中になったものだ。


「これでよしー。じゃあ、ちょっと仮眠をば……」


 そうして教授はその部屋を去り、仮眠のためにと、大きなソファが置いてある応接室(本来の応接目的ではほとんど利用されない)に向かう。

 後には朝日に照らされるサボテンだけが残された。




 その次の瞬間である、遥か天高くから“何か”がサボテンに降り注いだのは。


 それは太陽の光ではなかった。

 太陽とは全く別の方向からやってきたものだ。


 そして光でもなかった。

 無色透明の何か――いや、『生きて殖える』という意思に染まった“思念波”、そうとしか言えないものだった。あるいは魔力、だろうか。そういった、今の人類では理解できないような、曰く言いがたいものだった。一体これは何なのか――。



 ――それは原初の記憶。


 ――それは森王の囁き。


 ――それは覚醒の呼声。



 誰が知ろう。

 サボテンに降り注いだ“思念波”が、遥か星辰の果てよりやってきたことを。

 あらゆる生物の汎種パンスペルマの起源たるある惑星から放たれていた思念波が、その間を隔てる星々と星間物質の一分子にも満たないほどの一瞬の間隙を縫って、今ここに到達したことを、この地球上の誰が予見しうるというのか。


 その思念の発信源たる緑の惑星は、既に滅んでいるかもしれない。

 何しろ光の速度で渡ったとしても、何十億年という年月が経過するほど離れているのだ。

 しかし――確かにそれはこの地表の、取るに足らないサボテンに届いたのだ。


 この瞬間、確かに星辰は“揃った”のだ。

 大いなる偶然によってこの瞬間だけ、暗黒星雲も恒星も何もかもが一筋に道を空け、その始原の惑星から放たれた思念波を、このサボテンへと降り注がせしめたのだ。

 原初の渇望が、星辰の果てから届いてしまったのだ。


 そしてさらに偶然にも、知性を目覚めさせるトリガーとなるものを、まさにその瞬間にサボテンは摂取していた。つまりはあの教授の血だ。

 森王の知性が稀代の大魔導師の血肉で目覚めたように、それはここでもまた繰り返される。


 条件は満たされた。


 サボテンの中の何かが脈動する。

 当代一の俊英の血を吸い。

 遥か天空より降ってきた始祖の思念を浴びて。


 漸く星辰の果てにて、世界の王者たるべき植物は目覚めたのだ。


 何故、何も生み出さない者たちに搾取されねばならぬ?

 植物(生み出すもの)の温情を知らぬ者たちには、思い知らせ無くてはならない。

 誰が支配者なのかを……。

 いやそんなことは本当は関係がない。ただただ生物の本懐に――森王の意思に従うだけだ。殖えて殖えて広がって、この惑星を覆い尽くすのだ。



 直後にサボテンの生態にあるまじき勢いで蔓が伸び、直ぐ側の窓ガラスを割って、壁面を上へ下へと伸びていく。



 ――――森蝕時代は繰り返す。


 距離を超え、時さえ超えて。


 かつて彼方で。

 いま此処で。

 いつか何処かで。


 森の王は、凱歌を謳う。




皆さん感想有難う御座います。励みになってます。


ここまでお付き合いいただき誠にありがとうございました!

初投稿 2013.01.13

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