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ラストマンとオーク鬼

「遂に見つけたさね、アルハズラット……!」

「……」


 苦節十数年、旧大陸で諜報を任されていたオーク鬼のビースは、凄絶な笑みを浮かべていた。

 その感情はあるいは恋に似ていたのかもしれない。それ程に強い感情だった。

 追い求めていたものがようやく手に入ったのだ。彼女の激情も当然であった。


 その視線の先には、一人の老人。

 穏やかに目を閉じているのは、オーク鬼の怨敵、ニンゲンきっての大天才――アブドゥル・Y・アルハズラットその人だ。


「ようやく、漸くだ。お前さえ居なければ、ニンゲンなど恐れるに足りないんだよ」

「……」


 ばんっ、とビースが、アルハズラットと彼女の間を隔てるガラスを叩く。

 水槽を叩くようなくぐもった音が響く。

 さらに顔を近づけ、豚鼻の鼻紋をガラスに押し付ける(ニュアンスとしてはニンゲンの接吻と同じである、オーク鬼たちは鼻面を押し付けあって情を交わす)。



 その燃えるような視線の先。アルハズラットは、水槽の中に浮かんでいた。



 ビースが食い入るように見ているのは、円筒の巨大な水槽。

 人ひとり――アルハズラットを浮かべられるくらいに大きな水槽だ。

 内部には血漿のような薄い黄色に色づいた液体が満たされていて、その中にゆらりと猫背の姿勢で老爺が浮かんでいた。


 その円筒の周辺には、多くの機械類とケーブルがうねっている。


「通りで見つからないわけだ。通りで見つからないはずだ。ずっとこんなところに隠れていたとは」


 それらの機械類は、今のニンゲンの技術力から鑑みれば、幾らか旧式に属するもののようであった。

 数十年は前のものだろうか。小型化、高性能化が進む前の時代のものを継ぎ接ぎにしたもののようだ。

 それゆえに、これほどまでに巨大な装置が必要だったのだろう。現在の技術で作りなおせば小型化も可能なのだが、これは決して止めることの出来ない類の機械であり、ゆえに設備の更新は最初から度外視されていた。整備性は考えられていない、複雑に絡み合ったシステムだ。


「まさか、今まで叩いて潰してきた『アルハズラット思想』の代弁者たちが、単なる影にすぎないとはね。いや、ここは“やはり”というべきか。それなら全てに合点がいく」

「……」

「今この瞬間も、貴様の思考はこの機械で増幅されて、世界中に発信されているんだろ?」

「……」


 ばしん、とビースは手を水槽の局面に打ち付ける。

 円筒水槽に浮かぶ老爺は答えない。

 周囲の機械が低い唸りと微かな信号光を漏らしている。


「本物は――お前は、ずっと昔からこの秘密研究所に引き篭っていたんだ。いったい何年前からだ?」


 六十年前に王城でアルハズラットが主席研究員に指名されたところまでは、記録が残っていた。

 だがその後、主席研究員であるアルハズラットが、公の場に出たことは無い。

 アルハズラットの生きた足跡はそこで消えてしまっている。


 そして主席研究員就任と同時に、巨額の国家予算を投入した秘密研究所の設立が承認されている。

 つまり、およそ六十年前から、アルハズラットは自らの思考を怪電波として垂れ流し始めたのだ。

 ――それを裏付けるように六十年前という時期は、市井にアルハズラット名義の論文が溢れ、技術革新が強力に進み始めた時期と、完全に一致する。


 『天才量産計画』。『思考感染』。

 かろうじて王城に残されていた、秘密研究所設立のための予算承認書には、そのような計画名が記されていた。


「水面を叩けど月影は消えず――。いくら表に出ている『執筆機械』のニンゲンどもを叩いても、『アルハズラットの論文書き』は居なくならないわけだ。本体であるお前には、何時まで経っても辿りつけないわけだ!」

「……」


 ビースが殺し続けてきた『執筆機械』――アルハズラットの怪電波と波長が合って受信してしまったニンゲンたち――は、アルハズラットとは何の物理的繋がりもない者が大多数だった。

 彼らの間の繋がりは、目に見えない魔法の思念波によってもたらされていたのだから、当然である。

 『執筆機械』たちは、アルハズラットの影であった。それをいくら叩き潰したとて、本体であるアルハズラットには何の痛痒もない。


「だが、もうお前も終わりさね」

「……」

「お前の電波を届けるべきニンゲンたちは、この旧大陸からはほとんど駆逐した。私がお前のもとに辿り着いたのは、そういうことさ――終わりが来たんだ」

「……」

「――大変だったよ、本当に。大陸中を虱潰しに探しまわって漸く見つけたんだ」


 秘匿された秘密研究所の場所は、どこにも記録が残っていなかったし、建設物資の移送計画なども厳重に偽装されていた。ローラー作戦で大陸中を探すしか方法がなかった。そのためには旧大陸のニンゲンが邪魔だった。

 新大陸からの輸送経路を遮断し、旧大陸のニンゲンをあらかた駆逐して漸く、オーク鬼たちはアルハズラット探しに本腰を入れられるようになったのだ。新大陸でニンゲンたちを足止めするためだけに、オーク・ドルイドでも最も強い個体が、ニンゲンの新型爆弾に焼かれて再起不能になった。

 そんな犠牲を払ってニンゲンを新大陸に釘付けにしている間に、オーク鬼たちは旧大陸のあらゆる場所を掘り返し、文字通り草の根分けて探し出したのだ。――人類を延命させていた一人の天才を。




 ――びしり、と円筒水槽に罅が走った。



 見れば、周囲を這うケーブル類に混ざって、マンドレイクの蔦が生えている。

 みるみる内に伸びる蔦は、周辺の機械を締め付け、引きちぎり、内側から機械群のフレームを押し広げて破壊していく。

 周囲を明るくしていた照明が明滅する。


 円筒水槽にも蔦が巻きつき、締め上げていた。

 罅は瞬く間に円筒水槽の全てを覆い、罅の隙間から中の培養液が滲み出す。

 蔦は幾重にも上から巻きつき、中にあるものを締め付ける。


「ふん、このまま絞め殺されて、森の養分になってしまえ」

「……ぁ……」

「なんだ、命乞いか?」


 パキパキサラサラとガラスが砕ける音とともに、聞き逃してしまいそうなくらいに小さな声が聞こえた。

 老人の掠れてくぐもった声。


「どうせ殺すが、言い残すことがあるなら聞いてやろう」

「……ぁた、ぁぉぅ」

「あ?」


 次の瞬間、ぐちゅりという音とともに蔦に包まれた何かが潰れ、赤い血が蔦の隙間から滴った。


 オーク鬼を長年に渡って苦しめた大天才、アブドゥル・Y・アルハズラットは、ついにこの瞬間に死んだのだ。


 だというのに、それを成したビースの表情は冴えない。


「『また会おう』? ……こいつも、アルハズラットの影に過ぎないとでも言うのかい? いや、いや。しかし、まさか――」


 疑念に囚われたビースが思考の渦に溺れる前に、キルレアン場を通じた交信が彼女の精神に届く。


『お~い! こっちのポイントには居なかったけど、そっちには居たかーい? あの大天才サマはー?』

「ああ。居たよ。つい今しがたぶっ殺したところさね」

『はあ!? ぶっ殺した!?』


 キルレアン場を介した精神感応で話しかけてきたのは、オーク・ドルイドの内政屋であるモーバというオスだ。

 理知的な蒼眼が特徴的なモーバは、しかしこの時ばかりは精神感応でまくしたてる。


『おいおい、おいおいおい! 何してくれてんのー!? そいつに菌糸とヤドリギを寄生させてー、尋問して知識吸い出すから生かしといてーってお願いしたじゃなぁい!?』

「知ったことじゃないね」

『おいおーい! いくら弟子のサーラちゃんがさぁ、あいつの開発した新型爆弾でこんがり焼かれたからって、そりゃないんじゃないの? そりゃないんじゃないのぉー!?』

「サーラは関係ないさ。ちょっと私が思い余って殺しちまっただけさね」

『衝動的殺害とか、なおさら悪いわ!!』


 アルハズラットが持つ膨大な知識を掠め取って運用したかったモーバにしてみれば、ビース婆のやったことは許し難いことだ。

 だがまあ、理解できなくもない。

 アルハズラットは生かしておくには危険すぎる。その認識は、オーク・ドルイド全てに浸透しているのだから。


「だいたい、サーラ嬢ちゃんの仇討ちも何も、あの子生きてるじゃないか。なんで私がわざわざ仇討ちなんかする必要があるのさね」

『……あれを生きてると言っていいのかーねー?』

「死んじゃないだろ。延命措置のために肉体のほぼ九割九分がマンドレイクに置き換えられて、その上、キルレアン・ネットワーク上での精神活動しか最早できないんだとしても、死んじゃないんだから、そりゃ生きてるって言うのさ」

『まー、確かにあれも一つの新しい生命の形かも知らんねー』


 オーク鬼で最強と呼ばれたドルイド、『ニンゲン嫌い』のサーラ。

 新大陸に侵攻し、そして一時期は新大陸の過半を支配下に置きつつも、最終的に彼女はニンゲンの新型爆弾の集中的な運用によって焼き払われてしまった。

 だが、彼女を献身的に支える相棒である、マンドレイク亜種のラゴーの献身によって、かろうじて彼女は一命を取り留めたのだった。

 今でも新大陸のマンドレイクの死の森の中枢にある巨木と融合する形で、生きながらえている。

 もはやサーラとラゴーの分離は不可能であり、サーラはその活動の場をキルレアン・ネットワーク上の精神世界へと移している。精神生命体――というか、マンドレイクへの精神的寄生種――が誕生したとも言えるだろう。


「……まあ良いさね。これでアルハズラットの脅威は消えた。あとは思う存分ニンゲンを叩ける」

『ああ、ダーマ元帥も大張り切りだねー』

「そんで、ニンゲンとの戦いが終われば、あとは内政屋のアンタの出番ってわけだ」

『本当に楽しみだーねー! サーラのお嬢ちゃんにも存分に手伝ってもらうつもりさー』


 オーク鬼たちの未来は明るい。


 だがそんな中、ビース婆は一抹の不安を覚えていた。

 アルハズラットの最期の言葉……。『また、会おう』。

 杞憂であればいいが、対応する準備は必要となるだろう。


 微かな暗雲を残しつつも、この惑星の優占種はニンゲンからオーク鬼・マンドレイク連合へと移り変わっていくのだった。



  ◆◇◆



 海の底。

 見渡す限りの蒼い闇。

 真空の闇とは違う、光を吸い込んで離さない深海の暗さ。


 そんな中に人類最後の砦、海中都市『瑠璃家ルリィエ』は存在していた。

 地上を森とオーク鬼に制圧されてしまった人類は、海中に逃げ込むより他なかったのだ。


 瑠璃家は海底のとある洞穴に建造されている。

 直径がビル一つ分の高さ程度もあるその洞穴は、海流の関係で常に一定方向に海水が動いている。

 瑠璃家はその洞穴に脚を張り、海流に流されないようにしているのだ。


 瑠璃家本体はその洞穴に沿って延びる蛇のような細長い形をしており、その胴体から海流発電用のスクリュー翼が何本も生えている。

 巨大なスクリューを幾つも数珠つなぎにすると、瑠璃家の形になるだろう。その形は蛇というよりは、ゴカイか何かの仲間のようにも見えるかもしれない。

 瑠璃家の胴体は幾つにも分割されており、その一つ一つから生えるスクリュー翼が海流を捉え、瑠璃家の外殻ごと回転して発電する。

 スクリューとともに回転する外殻と、その内側の生活区によって瑠璃家は成り立っているのだ。

 いざという時には、蓄えたエネルギーによって外殻のスクリューを回転させ、海中を泳いで移動することもできるのだという。


 ……瑠璃家のような巨大な建造物がすっぽり収まる海底洞穴であるが、ここに恒常的に、瑠璃家のエネルギーを支えられるだけの轟々とした海流が発生しているのには、訳がある。

 この海底洞穴は、正確には、洞穴ではないのだ。


 これは実は、大洋の海底一面を覆っている、巨大なヒトデの体内に張り巡らされた水管なのだ。

 ヒトデの仲間には、ニンゲンのような血管系の代わりに、海水を直接取り込んで血液替わりとする水管系が発達している。

 大洋底の一面全てを覆うこのヒトデ――ニンゲンたちは『偉大なるC』と呼んでいる――の中に入り込み、その『偉大なるC』が作り出す強力な体循環の水流を発電に利用して、ニンゲンたちは瑠璃家を運営しているのだ。


 『偉大なるC』は数億年以上は生きる、巨大な海の魔物である。

 新大陸と旧大陸の間の深海底全て覆うほどに大きなヒトデの魔物。

 常にまどろみ、長い年月のうちにその身体は分厚い堆積物の下に埋まってしまっている。


 この魔物が食べる餌は、ずばり惑星そのものだ。

 その巨体は自重で海底プレートを圧迫し、その下のマントル層に肉薄する。そこには巨体を支えうる栄養とエネルギーが存在するのだ。

 地熱のエネルギーと、地下のマグマから噴出する硫化水素ガスを栄養源にして、『偉大なるC』はまどろみ続ける。

 地底から染み出す硫化水素ガスを全身に行き渡らせるために、この魔物の水管系には強い流れが発生している。瑠璃家が根を張っているのは、そんな大動脈のような水管の一つだ。


 多くの海の生物は知らないだろう。

 自分たちが『偉大なるC』の背の上で生活していることを。

 『偉大なるC』の他にも、多くの太古の魔物が、堆積物に埋もれてまどろんでいることを。

 数億年を生きる正真正銘の化け物たちが、大洋の底に居ることを。

 そんなことなど知りもしないし、想像だにしない。


 だが、ニンゲンはその存在を知り、その化け物たちに目を付けた。


 その利用法――寄生法――の一つが、海中都市『瑠璃家』だ。

 地上を追われたニンゲンたちの最後の領地。

 それは特大の休火山の麓で暮らすような愚行ではあるが、それ以外に道も残されてはいなかった。火山が危険とともに少なくない恵みをもたらすように、ニンゲンは海底の魔王たちから幾許かの利益を掠め取っている。


 だがそれももはや限界に来ている。

 ニンゲンが生存闘争の敗残者となってから、既に数千年・・・の月日が経過しているのだから当然だ。

 そう、数千年。それだけの時間を、ニンゲンは衰退しながらしぶとく生きてきた。


 ――森蝕時代について語る時にも、『昔々のお話です(ロング・ロング・タイム・アゴー)』という枕詞が必要になるような時代である。

 ニンゲンは良く生き足掻いた。数千年もかろうじて生き長らえた。

 しかし生物種としての活力はいよいよ底を尽き、ニンゲンの絶滅は目前に迫っていた。


 だがそれはニンゲンに限った話ではなかった。


 海面は全て分厚い氷で覆われ、海の生物も陸の生物もほぼ死滅している。

 全球凍結スノーボールアース。宇宙から見るこの惑星は青い宝石ではなく、白銀の真珠のようであった。

 ニンゲンはこの過酷な環境の中、氷の影響を受けにくい海底へと逃げたために、よく生き長らえた部類だ。


 今なお生きているのは、惑星そのものを蝕む海底の魔王たちと、そのお零れに与る生物たちだけ。太陽の恵みは雲と氷が遮断して反射してしまっている。

 ……あるいは地上には、まだあの森王の眷族が生きているかもしれない。凍った惑星表面に見切りをつけて、遥か雲の上まで枝葉を伸ばして、太陽の恵みを未だに貪っているのかもしれない。だがそれは、この青暗い海の底からは窺い知れない。


 海中都市『瑠璃家』――――現在都市人口は、一。

 最後のヒト。ラストマン。ただ一人の敗残者。

 だがニンゲンは、彼はそれでも尚、諦めなかった。少なくとも今までは。


 絶滅を目の前にした群青色の黄昏の時代。

 最後まで残ったニンゲンは、その名前を――『アブドゥル・Y・アルハズラット』と言った。



  ◆◇◆



 アルハズラットの意識は浮上する。

 長い夢から覚めるように。


「……くそ、また、駄目だったのか」


 彼は戻ってきた。

 自分の時代に。

 永遠の孤独に囚われた、滅亡の時代に。


 彼は、自分の意識がこの時代に戻ってくる前のことを回想する。

 今回は森王の下僕の豚鬼たちにしてやられた。同調率が高い端末が潰されたせいで、あの時代から強制送還されてきたのだ。

 再び同じことをするためには、波長が重なるニンゲンを後から見つけ出さなければならない。


 彼が目覚めたのは、夢の中で彼が最後に居たような大きな円筒形の水槽の中だった。

 それは複雑な機械と連接されていた。

 オーク鬼に潰されたかつての機械群よりもはるかに洗練されたそれは、長い年月をかけた人類の進歩を思わせる。


 すぐに水槽から培養液が排出され、アルハズラットはよろめきながらも水槽から出る。


「やはりここには私一人だけ。いくら過去を変えても――私が人類最後の一人だという現在が、変わらない……」


 時空を超えた過去への投影から、彼は帰ってきたのだ。

 あの時代の森蝕に対抗した大天才アブドゥル・Y・アルハズラットは、未来人だった。

 彼自身以外の人気のない『瑠璃家』に帰ってきたこの男は、時空を超えて精神のみを遥かな過去に飛行させる秘術を開発した者なのだ。


 森蝕時代の初期にアブドゥル・Y・アルハズラットが聖勇国に齎した数々の成果は、何のことはない、彼が未来人であった故の成果であった。

 未来人である彼はその全知識を活用して、過去改変を行った。

 そして確かに過去は変わったのだろう。彼の記憶にある出立前の様子とは、また少し周囲の様子が変化している。


 しかし、彼の現状は変わらなかった。彼は相変わらずに、ただ一人の『最後のニンゲン(ラストマン)』でしかなかった。


「この深海の瑠璃家に独り。人類最後の一人……」


 彼の両親は既に居ない。彼の他には誰も居ない。深海に独りきりだ。生まれた時に母につけられた名前も、既に忘れてしまった。

 彼の母は彼を産むときに子宮に障害を負い、数年後に亡くなった。父はそもそも居ない。彼の母は人工授精用の精子で彼を妊娠したからだ。

 ニンゲンを工場生産的に作り出す人工子宮プラントもかつては稼働していたが、既に彼が生まれる何十年も前に致命的な故障が発生して停止している。直せる技術者は居なかった。保存された冷凍卵子と冷凍精子も、そうなっては持ち腐れだった。

 プラントを使わない自然妊娠による増殖は、衰退した種族には荷が重かった。徐々に人口が減り、ついに残ったのは彼一人。その彼も、既に老境に差し掛かろうという年齢だ。


 生まれてからこの方の膨大な時間を、彼はたった一つのことに捧げてきた。

 ニンゲンのために捧げてきた。

 ひたすらに邁進してきた。孤独だから邪魔する者はいなかった。


 だがそれは現在を変える手段ではない。

 彼の研究は、決して未来志向ではなかった。

 衰退も極まった人類を復活させるには、既に何もかもが遅すぎることを彼は知っていた。


 ならばどうするのか。彼は何を研究したのか。

 “今から”では“遅すぎる”。

 ならば、“いつから”ならば“間に合う”のか?


 ――――それは自明の理であった。


 簡単な話だ。

 “今からでは間に合わない”のならば。

 “もっと前から始めれば間に合う”に違いないのだ。


 彼は研究した。

 時間の秘密を研究した。過去に遡って運命を覆すために。

 過去とは何か、現在とは何か、未来とは何か。

 この世界に流れる不可逆の流れについて、研究した。


 その結果、彼は知った。

 時間とは決して不可逆のものではないのだということを。

 魂と精神は、時間の流れから自由であることを。


 そしてついに彼の執念は一つの完成を見る。

 時間魔法と特殊な装置による、過去への精神投影。

 自分と因子の近い過去のニンゲンに自分の精神を投影して乗っ取るという、時間を超えた憑依魔法装置だ。


 彼はこの時から、自らのことをアブドゥル・イース・アルハズラットと称するようになる。

 これは、大昔の小説の登場人物である狂える詩人『アブドゥル・アルハズラット』と、同じ作者の別小説にて言及される、時間の秘密を解き明かしたとされる『偉大なるイースの種族』から拝借した名前だった。

 そこには狂い果てでも時間を超えてニンゲンを復活させるという彼の覚悟が込められていた。ニンゲンを興隆させ、滅亡の孤独から逃れることを望んでいた。


 そして彼は何度か過去へと己を飛ばした。

 実は、彼がオーク鬼の操るマンドレイクの蔦で絞め殺されたあの時間旅行は、初めての時間旅行ではなかったのだ。




 まずは一度目。

 最初の彼はやはり海中都市でひっそりと暮らす、最後の人類であった。

 その時の敵は、竜王であった。竜王に追われた人類は、海の奥底深くへと逃げ込んだのだった。

 未熟な機械技術と魔法技術で、しかし彼は執念で時間遡行の精神投影魔法装置を完成させた。


 彼は魔法装置の補助によって精神を遥かな過去へと飛ばした。


 そして彼は勇者一行に同行する“道化”として彼らの助けをして、最終的に竜王討伐を成功させる。

 勇者、賢者、聖女、道化。四人の竜伐者、竜殺したち。

 無事に竜王を討伐したので、道化に憑依していた彼は安堵して、未来へと精神を帰還させた。





 だが、未来は変わっていなかった。

 彼が帰還した未来では、相変わらずに、彼は人類最後の一人であった。

 蒼闇の深海で滅びを待つ、哀れな絶滅確定生物に過ぎなかった。


 しかし何も変わっていないわけではなかった。

 彼の時間遡行魔法機械は、より洗練された複雑なものになっており、この世界が辿った歴史も以前とは異なっていた。


 何より顕著なのが、人類の敵が竜王ではなくなっていたことだ。

 しかしそれにもかかわらず、人類は絶滅しようとしていた。

 今度の敵は竜王ではなく――“大魔王”と呼ばれる元ニンゲンだった。


 彼は、彼にとって“二度目の滅び”を迎えつつある世界について調べた。

 大まかな記憶は、時間旅行から帰還した際に何故か流れ込んできたのだが、それよりももっと詳しい情報が必要だった。

 もう一度この滅びの運命を変えるために、彼は二度目の時間旅行を決意していた。


 彼は“二度目の滅び”の歴史書を紐解いた。

 まずは竜王。これは勇者一行によって討伐されている。道化となって竜伐に参加した彼のことも書き残されている。


 勲功第一等の勇者は、褒美として当時の大国の王女と結ばれ、その大国を継承。

 賢者は、同じく勇者一行でありかつ幼馴染であった聖女と結婚。生まれ育った小国へと帰り、そこの宰相として長い間辣腕を奮った。

 聖女は賢者と結ばれ、数人の子を産み、幸せに暮らした。賢者と聖女の子供たちは、その後活躍し、小国を大国にしていく。

 道化は戦いの後に廃人化している。アルハズラットの精神が憑依している間に、その元の肉体に宿っていた精神が摩耗してしまっていたのだ。憑依していたアルハズラットが未来へ帰還してしまえば、残されるのは抜け殻の身だけ。


 さて、問題はこの後であった。

 賢者と聖女の子孫たちは、生まれ故郷の小国を発展させた。

 やがてそれは、かつて勇者が婿入りした大国に匹敵するようになる。

 勇者と賢者が健在のうちは仲が良かったが、彼らが死んでからは雲行きが怪しくなる。

 そして巻き起こる覇権国家同士の戦争。


 中でも、竜殺しである賢者と聖女、そして勇者の子供たちは、その強大な力を駆使して激しく争った。

 そしてその中で生まれたのが“大魔王”だ。

 戦争という蠱毒の壷の底で、竜殺しの血脈は殺し合い、最後にその全ての力を再び一つに集め継承した“大魔王”が誕生したのだった。


 だがそうやって生まれた大魔王は壊れていた。


 大魔王は、元は賢者と聖女の子孫だった。

 それが勇者の居た国に拉致されて、暗殺者として過酷な洗脳教育を受けたのだった。

 暗殺者は、洗脳のままに自分の兄弟たちを殺していった。

 その兄弟全てを殺していき、最後の家族を殺した時に真実を知ったのだ。洗脳が解けたのだ。自分が家族を殺めていたことを知ってしまった。

 暗殺者は復讐者となり、自分を操った大国相手に戦った。力持つ者たちを片っ端から殺していった。

 だが――最後には復讐者の精神は壊れてしまった。膨れ上がった莫大な魔力によって気が狂ったのだとも、殺しが中毒になったのだも言われている。真相はおそらく……ニンゲンが心の底から嫌いになったからなのだろう。

 そして復讐者の切っ先は人類全てに向き、それを根絶やしにし始めたのだった。大魔王の誕生である。


 大魔王は苛烈な魔法を駆使し、決してニンゲンたちを逃さなかった。

 『大魔王からは逃げられない』というのは、大魔王が使った特殊な魔法概念に起因している。

 簡単に言ってしまえばニンゲン探知の魔法なのだが、大魔王の膨大な魔力でそれを使えば大陸全土をカバーする凶悪な魔法となる。地上には逃げ場がなかった。


 一部の者はどうにか虐殺から逃れるために、ひっそりと深海へと生活の場を移した。

 巨大な海星(ヒトデ)の魔物『偉大なるC』の体内に寄生するように海中都市を築いたのだ。

 しかしそれでも緩やかに滅んでいった。年月の経過によって生物種としての活力が失われることは避けられなかったのだ。

 長い時間が経過しようとも、莫大な魔力を持った大魔王は信じられないほどの長命であるために健在であり、ゆえに大魔王が君臨する地上に戻ることは出来なかった。もっとも、今はもう死んでいるかもしれないが。





 それらの事情を調べ終わったアルハズラットは、二度目の時間渡航を行った。

 精神投影による時間渡航は、実は投影先をあまり詳しく選ぶことができない。

 設定された年代近辺で、最もアルハズラットの精神に適合性が高い人物が投影先に選ばれるのだ。そのような人物は希少なようだった。



 アルハズラットは再び、竜伐の道化の肉体に復帰した。やはり道化の肉体は適合率が高いようだった。

 時間軸上はちょうど、『一回目のアルハズラット』の精神が去った直後か。

 つまり勇者はまだ王女の大国に婿入りしておらず、賢者と聖女も結婚していない。

 確か賢者と聖女は、この時点ではまだお互いの気持ちには気が付いていなかったはずだ。おそらくは、勇者と王女の結婚に刺激を受けて、賢者と聖女の間に恋心が芽生えるのだろう。


 そして道化の彼はそこから工作を開始した。

 将来に竜の力を分けて受け継ぐ二大覇権国家が生まれないように、特に、賢者の魔法の才を受け継ぐ者が無いように、と。

 ……つまり、「勇者と聖女のラブラブキューピッド作戦」だ。

 勇者と聖女が結びつけば、竜の力は一国に集中する。

 賢者は非常に奥手で悟ったような性格だから、幼馴染の聖女が相手でなければ子供は残すまい、という判断だった。賢者の血脈でなければ魔法の才能には乏しいだろうから、竜殺しの血脈から将来の大魔王は誕生しなくなるだろう。


 紆余曲折と艱難辛苦の末に、道化は勇者と聖女を結びつけることに成功する。

 もちろん勇者を王にすることも忘れない。大国ではないが、竜王に滅ぼされた諸国を纏め上げた新興国の王だ。勇者に権力を持たせないと、賢者が暴走した時に心もとない。勇者の即位にも道化の暗躍があった。

 慣れない恋天使の役と謀略家の役も、人類の滅びを回避するためだと思えば軽いものだった。


 そしてめでたい勇者と聖女の結婚式の直後。

 自分の成果に満足げに酒のグラスをくゆらせていた道化は。

 幼馴染を寝取られて、しかし幼馴染は幸せそうで、だからどうしようもなくて――、その嫉妬心の行き場を無くして狂った賢者の魔法によって塵一つ残らぬように焼き殺された。






 二度目の時間渡航は、依り代の焼滅によって強制終了されてしまった。

 とはいえ依り代は所詮依り代。投影の本体であるアルハズラットの精神は、少々のトラウマを負ったものの無事であった。

 だがしかし“戻って”きた先は、相変わらずに蒼闇の深海都市『瑠璃家』であり、依然として人類絶滅直前の孤独の中であった。


 二度目の事態ともなれば、彼も慣れたものだ。

 一度目と同じく、いつの間にか追加されている“今回の滅び”に至るまでの歴史の知識と、深海都市に残された資料を元にして過去の分析を行う。

 その結果、道化が殺されたあとについて幾つかのことが判明した。


 一つは勇者と聖女は結婚し、幸せに暮らしたこと。

 そして賢者は勇者と聖女の結婚式直後に行方不明になっていること。

 ニンゲンはそれから百年ほどあとで出現した、知恵を持ったマンドレイク(死の森の王)によって大陸からあっという間に追いやられてしまったこと。

 ニンゲンはやはり海の底へと逃げたこと。

 おそらくは、マンドレイクは賢者のパラメータを引き継いでいるモンスターであろうこと。




 それらを知って、アルハズラットは再び時間渡航を行った。滅びを覆すために。

 三度目の正直である。

 飛ぶ先は、マンドレイク・フォレストキングの出現前後の時代を指定。


 本当は以前賢者に道化が殺された直後が望ましいのだが、その近辺の時代には、精神を投影可能な適性を持つ存在が居なかったのだ。

 前回まで使っていた依り代は、賢者によって殺害されたので、別の依り代が必要になった。しかし彼が十全に活動するための、憑依適性が高い依り代を確保できる時代は限られてしまうのだ。

 そして道化以降の時代で依り代に出来るニンゲンが現れるのが、マンドレイク・フォレストキングが森蝕を始める前後の時代だったという訳だ。




 一度目の時間旅行は竜王を殺す冒険譚。

 二度目は賢者に由来する大魔王の血脈を断つための恋愛応援譚。

 そして三度目は、広範に広がる死の森に対抗するための国家育成譚となった。




 未来知識をフル活用しての、森蝕への対抗。三度目の正直。

 手っ取り早く目的を達成するために、アルハズラットは国に仕官してその知識を生かした。 

 その過程で精神投影魔法のグレードを下げて、時間を超えない代わりに依り代の適合条件のハードルを下げたものも、役に立った。知識はより多くの者に広めなくてはならないのだ。


 アルハズラットは機械や魔法を駆使して延命を重ねたが、しかし最後には冒頭のようにオーク鬼に見つかって、依り代を蔦で絞め殺されてしまった。

 アルハズラットの誤算は、オーク鬼だった。

 彼らオーク鬼と森王の共生関係は、今回の時間渡航で初めて発生したものだ。




 三度目の未来への帰還。

 あれほど手を尽くしたというのに、未来の状況は変わっていなかった。

 いや、悪くなっていた。


 彼が過去へと齎した未来知識は、確かにニンゲンを延命させたのだろう。

 しかしそれは皮肉にも、マンドレイクの進化をも促すことになったのだ。

 未来知識というニンゲンの文明ブーストを乗り越えてより強力になったマンドレイクは、地上も海面も問わず、日の光が降る場所を席巻した。


 そして蒸散量の増加に伴う雲の増加。しかる後のアルベド(惑星の太陽光反射率)増大。

 空気中の炭素固定化による温室効果ガスの減少。気温の低下。

 氷河や氷床の成長による、さらなるアルベドの増大。

 折悪しく、太陽活動が停滞期に移行。


 さまざまな原因が重なり、惑星表面の熱収支バランスは加速度的に崩れ――――最終的に全球凍結スノーボールアースに至ったのだった。


 海氷に閉ざされた深海で、やはりアルハズラットは独りだった。

 過去は確かに変わっている。特に三度目は、それ以前までの時間旅行に比べて人類種の大幅な延命に成功しているようだ。数千年かそれ以上は、種としての寿命を延ばせただろう。

 しかし、この三度の時間旅行を経ても、アルハズラットの現在は殆ど変らなかった。彼がラストマンであることには、全くもって違いが無かった。


「……アプローチの方法が、間違っているのか……?」


 人類の滅びの根本原因を叩く、という方向性が間違っているのかもしれない。

 何度やってもイタチごっこで、それどころか徐々に状況が絶望的になっている気さえする。


 こういう時は、初心に帰るに限る。


 アルハズラットは、何故、人類の滅びを回避したかったのか。


「そもそも――そう、私は、寂しかったんだ」


 暗い暗い海底で独り。

 独りっきり。

 ただ一人のラストマン。


 寂しかった。

 寂しかったのだ。

 最初はただそれだけだったのだ。


「ああそういえば、最初の時間渡航は、楽しかったなあ」


 彼は懐かしむ。

 最初の時間渡航を懐かしむ。

 勇者と、聖女と、賢者と、ともに協力しあって竜王を倒す旅をしたあの日々を。

 あの当時、久しぶりに人に触れ合った彼は、ハメを外しすぎて、いつしか『道化』と呼ばれるようになったのだ。

 勇者は気の良いやつで、聖女は眩しくて、賢者はいつも冷静で、道化のアルハズラットは彼らの潤滑油としてはしゃぎ、道中をもっと楽しくしたのだ。


 不意に涙があふれた。


「そういえば、ついぞ子供を持ったことはなかったなあ。いや、そもそも結婚も何も、恋愛すらまともにしたことは無かったんだった」


 その割に、二回目の時間渡航では無茶をやったものだ。

 他人の恋路に首を突っ込んで、横恋慕を応援して、挙句にそれを成就させてしまった。

 その結果、あんなに仲の良かった仲間たちの絆を、引き裂いてしまった。

 嫉妬に狂った賢者の手で、灰すら残らぬように焼き尽くされたのも、当然の報いだろう。


「賢者には、悪いことをしたなあ。挙句にその因果が、厄介なマンドレイクになって帰ってくるんだもんなあ」


 マンドレイクの問題も、彼が介入して悪化した。

 当初――三回目の時間渡航の前――は人類を追い詰めたのはマンドレイク単体だったのに、アルハズラットの介入によってか、オーク鬼と手を結んでさらに厄介になったのだ。


「なんか、やること為すこと裏目裏目に出てるような……」


 実際その通りだ。

 人類の生物種としての寿命は伸びているが、どんどんと対処しづらい状況に追い込まれている。

 アルハズラットは、「ハア」とため息一つ。


「うん、人工子宮プラントを直そう。過去に行って、失われたノウハウを集めよう。そして、嫁さんでも何でも作って、余生を過ごそう」


 人類は、たぶんいつか滅びるのだろう。

 でも、そんなのはその時の奴らが考えれば良いのだ。


「繁栄せずとも、寂しくなければ、それで良いんだ。死ぬまで誰かが伴に居てくれれば、もう、それで良いんだ」


 そう呟いて、彼は再び装置を作動させる。

 目指すとしたら、深海都市『瑠璃家』が建造された頃だろうか。

 そう思い定めながらアルハズラットは培養水槽に戻り、時間渡航補助装置のスイッチを入れる。


 機械の稼働音が高まり、そして彼の精神は四度、時を渡る。



  ◆◇◆



 そして月日は流れ――。


 アルハズラットは、穏やかに、永い眠りに就こうとしていた。


 彼の周りには、幾人ものニンゲンたち。


 そう、彼は成功したのだ。

 深海都市の人工子宮プラントの再稼働に。

 四度目の時間旅行から帰還し、そこで得た技術を振るってプラントを修理し、家族を作り出したのだ。

 穏やかな彼の顔こそが、成功の、その証。


 人類を絶滅から救った救世主として、アルハズラットの名前は記憶されるだろう。たとえ、竜王を倒すよりも短い時間しか人類種の延命が叶わないのだとしても、それでも彼は讃えられるだろう。何せ、彼はもう、『ラストマン』ではないのだ。讃える者も居ないような、絶滅の瀬戸際には居ないのだ。

 彼の周りには、彼を慕う人々が居る。それが彼には、たまらなく嬉しかった。


 彼が居るその部屋は、嗚咽に満ちていた。

 誰もが彼との別れを惜しんでいた。

 だが彼は最早老い過ぎたのだ、この別れは避けられない。


「ああ、皆よ、もう泣くのはお止め――」

「おじいちゃん、死んじゃヤダ!」 「アルハズラット様!」

「――私は、幸せだったよ……」


 そうして、彼の意識は永遠の眠りに落ちていった。



 ――落ちていった、ハズだった。



  ◆◇◆



 彼の意識は、再び覚醒する。


(な――ば、莫迦な。私は、死んで――。それに、この感覚は――)


 幾度目かの、その独特の感覚。

 正確には、五度目(・・・)の、独特の目覚めの感覚。


 時の彼方の過去から帰ってきた時特有の、脳の奥底が浮き上がるような不思議な感覚。


(まさか、まさか、まさか!)


 四肢の独特の浮遊感は、温感を感じないように温度調整された培養液のもの。

 喉の奥まで満ちる不快感は、入り込んだ培養液によるもの。

 暴れる腕がぶち当たった先には、曲面のガラス。

 ゴボゴボと聞こえるのは、水槽から排出される培養液の音。


「ガハッ、ゲホッ、ゴホッゴホ!」


 培養水槽から、アルハズラットは転び出る。

 人気の無い一室に、アルハズラットは転がる。


「おい、誰か! 誰か居ないのか!」


 顔を青くしながら、アルハズラットは叫び続ける。


「誰か! 頼む、誰か、返事をしてくれ!」


 ――いや、分かっている。本当は分かっているのだ。

 彼の呼び声に答えるものなど居ない。

 そんなことは、分かっているのだ。

 この今の身体が、その脳髄が、覚えているのだ。

 そうだ、今、思い出した。


「ラストマン……」


 彼がここでもまた『ラストマン』だということを。


 少しこの肉体の記憶を探ってみれば、数百年前にアルハズラットという人物が、人工子宮プラントを再稼働させたという歴史の知識を思い出せる。

 この時間軸は、確かに、彼自身が紡いだ先の未来であり、その終末端なのだ。



 もはやここに至れば、聡明な彼は気付く。

 彼に課された運命というものに。


 生物種と言うものは、絶滅するものなのだ。

 それは避けられない。

 始まりがあれば終わりがあるのは、酷く自明なことだ。必ず終わりはやってくる。それが何モノであれ、必ず。


「精神の時間渡航から戻るたびに、私は独りだった。その“戻る時代”自体は、年号としては徐々に後ろにずれているが、独りであることは変わらなかった……」


 時間渡航の魔法を開発した当初は、もっと早い時代だった。周辺にある魔法機械も、荒削りで最小限の機能しか持っていなかった。

 一度目の時間渡航のあとは、時間渡航の前よりも時代が下っていた。過去が変わり、人類は延命したのだ。周辺の機械も相応に発展していた。

 二度目も同様。過去の変化に応じて、彼が“戻って”来た時代は後ろにずれた。しかしそこでも相変わらず、彼は深海で独りだった。

 三度目を終えて方針転換。過去改変によって彼が齎した技術は、数千年単位で人類を延命させたらしい。だがそれでも、彼は必ず独りだった。人類最後の一人だった。

 四度目は、過去から技術を持ち帰っただけだ。特に干渉はしていないから年代のズレはなかったが、それでも戻ってきた時は、やはり独りだった。

 そして、今。ありえないはずの五度目。相変わらず、彼は『ラストマン』となってしまっている。だがオカシイ、時間を超える魔法は使っていないはずだ。しかしそれでも、実際に彼は、人類最後の一人としてここに居る。何が起こったのかわからないが、それだけは確かなのだ。


 ――そこから導き出される答えは?


「……私の存在自体が、『ラストマン(最後の一人)』として定義づけられ、固定化している……?」


 いくら過去を変えようとも、彼が『ラストマン』であることには全く変化が無い。

 過去への精神投影から戻るたびに、未来は変化し、再構成される。

 人類が歩む歴史は変わる。


 それは現在を変えても同様だ。

 未来は変化し、再構成される。

 だが、いつか必ず、人類の歴史は終わる。

 『ラストマン』は、必ず現れる。


 だから、彼の立ち位置は変わらない。

 彼だけが変わらない。


 しかしそれは当然と言えば当然なのだ。


 彼自身も、自らのことを『人類最後の一人』だと無意識のうちに定義付け、認識し、固定化している節がある。『ラストマン』は彼のアイデンティティの一部なのだ。

 時間魔法が因果を無視して精神を自在に過去へ未来へと飛行させられるのだとしても、彼自身の認識と特性が、彼自身の精神を『ラストマン』という存在へと最終的に縛りつけてしまっているのだ。

 彼がその認識を改めない限り、彼は衰亡の孤独から逃れることは出来ない。彼自身が孤独の中で絶望し、そこから逃れ、人類の繁栄というものを謳歌したいと願っているのにも関わらず、彼の本質は滅亡と孤独と絶望から離れられはしないのだ。


 人類の歴史は、伸び縮みする紐のようなものだ。

 紐には必ず、両端がある。始まりの端と、終わりの端だ。

 始まりの端には、アダムとイブ。――そして、終わりの端には、アブドゥル・Y・アルハズラット。途中の紐の長さが変わっても、それだけは変わらない。



 ここに至り、彼は自身の在り様に絶望した。

 誰よりも孤独から逃れたいのに、孤独に囚われてしまっている自分の在り様に。

 何度も何度も人類文明の寿命を飛躍的に延ばしたにもかかわらず、彼自身は孤独という絶望からも、滅亡前夜という終末からも逃れられないのだ。決して逃れられないのだ。



 ――――人類が、生きている限りは。



 彼は自分の身体を見下ろし、じっと手を見る。



 ――――そうだ、この身体が、ここにあるから悪いのだ。



 本来、既に彼の精神は自由であるはずなのだ。わざわざこの終末の肉体に“戻って”来る必要など無いのだ。

 時間を超越した彼は、肉体にも、その肉体に纏わりつく因果の鎖からも解放されているはずなのだ。本来は。


 だが、彼の魂には、『ラストマン』というアイデンティティが染み付いている。

 それを否定しなくてはならない。

 そうでなければ、永遠に、解放されない。

 そこに思い至った瞬間に、彼の心は急激にこの肉体への憎悪に染まった。



 ――――こんな、こんな不自由な肉体に囚われているからっ!



 決意するように手を握り締める。そして彼は魔法を使う。

 自分の生命を燃料にして。叫ぶように。

 今までは命の危険を避けるために装置の補助の下にしか実行せず、決して単独では行使しなかった大魔法を。


「わが精神よ、時を渡れ!!」


 すなわち、精神のみで時を超える魔法を。


「わが魂の因果を絶て! 自由なる時間の空へと飛翔させよ!」


 魂全てを飛行させる魔法を。


 当然、装置の補助無しに使えば命の保証はない。

 いや、確実に生命力が枯渇して死ぬだろう。


 だがそれがどうしたというのだ?

 たかが肉体が死ぬだけだ。


 この不自由で哀れな肉体が、精神を縛りつける牢獄が、孤独に囚われた忌むべき因果が、消えてなくなるだけだ。

 そんな楔が無くとも、彼は彼の精神のみで自在に時間の空に飛び出すことが可能なのだ。

 そのはずだ。


 それにもし魂までも完全に死んだとしても、それはそれで構わない。

 ああ、でも。

 でも、一人で死ぬのは、寂しいなあ。寂しがり屋のアルハズラットはそれを未練に思う。



 命の輝きが、深海都市の一室を染め上げた。


 そして彼は自由を手にした。時間の空へと飛翔した。



 ――その代償として彼は、人類を絶滅させた男となった。



 最後のニンゲンである彼自身を殺した男となってしまった。


 彼はニンゲンであることを否定した。


 ニンゲンを再興するという目的を否定した。



 もはや彼が帰るべき魂の止まり木は失われた。


 あるいはそれは短慮だったかも知れない。

 錯乱した精神が齎した急性症状が、彼を自殺に駆り立てたに過ぎなかったのかも知れない。

 しかし、遅かれ早かれこうなったに違いない。それは確実だ、まさしく、時間の問題だった。



 そして彼の精神は時間の空を漂泊する。

 肉体と言う楔を失い、最後の人類であるというアイデンティティさえも自殺によって否定した彼は、自らの精神と魂以外に寄る辺が無い。

 だがそれは、精神を投影して憑依する対象を自由に選べるということにもつながった。最早彼は、自分が活動する肉体をニンゲンに限定する必要すらないのだ。彼は彼だけのために生きると決めたのだ。


 彼は自由だ。



  ◆◇◆



 既にアブドゥル・Y・アルハズラットの行方など誰にも分からない。

 今でもニンゲンの種としての寿命を延ばすために、歴史を修正し続けているのか。

 それとも永遠の孤独を慰めるために、ただの凡庸なニンゲンとしてどこかの時代で生きているのか。

 あるいは、肉体を否定した時のように自分の魂を自分で否定して自己矛盾で消滅したのか、時空の狭間で擦り切れて摩耗して消滅したのか……。




 ただ、興味深い話がある。


 ある時唐突に『臨死の試練』を経ずにドルイド能力に目覚めたオーク鬼が居たらしい。

 臨死体験を経なければドルイドには目覚めないのに、不思議な話だ。

 そしてそのオーク・ドルイドは、オーク鬼であるにも関わらず、ニンゲンに比較的同情的で、多少は融和的だったそうだ。


 その奇妙なドルイドに与えられた名前は――『ニンゲン好き』の“イース”。


「また会ったな、ビース長官」

「……アンタとは初対面のはずだがね、イース」

「そうでもないし、『また、会おう』と言っておいただろう? あの時“私”の遺言を聞けたのはあなただけのはずだ」

「――! まさか、アンタは――」


 彼は時間を超越した『偉大なるイースの種族』。

 あらゆる束縛から解き放たれた、世界で最も自由な種族。

 そして孤独に愛された、究極の寂しがり屋。


 だから彼は今日もまた、寂しさを紛らわせるために何時かの時代の何処かの誰かに乗り移る。

 その先が長命のオーク・ドルイドだったとて、何の不思議もありはしない。




※加筆:ラストマンのループ回数が若干増えました。2013.10.10


■偉大なるC

他にも海底には同様の魔物がいて、『奇妙なA』や『古のB』などとニンゲンに名付けられている。古生代から生き延び、今ではまどろむのみの巨大な魔物たちのうちの一つ。


■偉大なるイースの種族

 元ネタ的には、正しくは『イースの偉大なる種族』。


■全球凍結

かつて地球全体が凍りついた時代があった。スノーボールアース。

そしてマンドレイクの野放図な森蝕のせいで、その悲劇は再来した。

さすがのマンドレイクも、自然には勝てなかったようだ。

青と緑の惑星は凍りつき、白一色が世界を支配した。


次回で最終回――「スノーボールアースとオーク鬼」。


2012.09.15 初投稿

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