第20話(最終話) 愛おしき回り道
パリリン。
乾いた音がして、マグカップが床で砕け散った。
朝の宿屋の一室。
俺は寝ぼけ眼で、自分の左側──無いはずの左腕でカップを取ろうとして、空振りしてしまったのだ。
「あーあ……」
床に散らばる陶器の破片。中に入っていた水が床を濡らす。
かつての俺なら、反射的に指を鳴らしていただろう。
0.5秒前に戻って、カップをキャッチする。
あるいは、1分前に戻って、そもそもカップをそこに置かない。
「失敗」なんて、俺の人生には存在しなかった。
でも今は、ただ呆然と破片を見つめるだけだ。
時間は戻らない。水は戻らない。割れたカップは元には戻らない。
「カケル? どうしたの、大きな音が……」
隣の部屋から、着替え途中のエルフィが顔を出した。
シャツのボタンを掛け違えている。寝癖もついている。
かつての完璧主義な彼女なら見せなかった姿だ。
「悪い。手を滑らせた」
「あらら。……怪我はない?」
「ああ。でも、このカップ、宿の備品だ。弁償だな」
俺がしゃがみ込んで破片を拾おうとすると、指先がチクリとした。
赤い血が滲む。
「痛っ……」
「もう、不器用ね。待ってて、箒を持ってくるわ」
エルフィがパタパタと走り去っていく。
俺は滲んだ血を舐めた。鉄の味がする。
面倒だ。痛い。金もかかる。
最高に「非効率」だ。
ふと、俺は割れたカップの破片を拾い上げ、窓から差し込む光にかざしてみた。
不揃いな断面が、キラキラと光っている。
「……綺麗だな」
失敗したからこそ見える景色があるなんて、レベル99の俺は知らなかったな。
◇
宿を出発したのは、昼前だった。
今日の目的地は、隣町の「花の都フローラ」。
かつて俺が、最短ルートを通って半日で駆け抜けた場所だ。
「こっちの道の方が近道だぜ!」
ガルドが自信満々に獣道へ入っていこうとする。
俺は地図──ボロボロになった紙の地図を片手で広げ、首を傾げた。
「いや、ガルド。地図だとそっちは沼地だぞ。街道沿いを行った方が安全だ」
「何言ってんだ! 俺の『野生の勘』がこっちだって叫んでるんだよ!」
「ガルドさんの勘、昨日も外れて行き止まりでしたよね?」
リーナがジト目でツッコミを入れる。
俺たちは顔を見合わせて笑った。
以前の俺なら、ガルドの提案を即座に却下しただろう。
『そっちはエンカウント率が高い』『泥で足を取られて移動速度が30%落ちる』と、データで論破していたはずだ。
でも。
「……ま、いいか。行ってみようぜ」
俺は地図を畳んでポケットに突っ込んだ。
「えっ、いいの? カケル」
「ああ。急ぐ旅じゃないしな。泥だらけになるのも、たまには悪くない」
そうして俺たちは、あえて「効率の悪い」獣道へと足を踏み入れた。
◇
結果から言えば、最悪だった。
道はぬかるんでいるし、変な羽虫は飛んでくるし、途中で突然の雨にも降られた。
俺たちは泥まみれになりながら、ようやく森を抜けた。
「ぺっ、ぺっ! 泥食ったわ! 最悪だ!」
「もう、ガルドのバカ! 私のローブ、洗濯したばっかりなのに!」
「俺のせいかよ! カケルが賛成したんだろ!」
三人がギャーギャーと言い合いながら、丘の上に立つ。
時刻はもう夕暮れ。
本来ならとっくに街に着いて、宿で休んでいる時間だ。
完全に時間の無駄。大失敗だ。
しかし。
「……わぁ」
リーナが小さな声を上げた。
雨上がりの空。
夕焼けに染まった雲を背景に、森の向こうに大きな虹がかかっていた。
雨に濡れた木々の葉が、宝石のように輝いている。
それは、街道沿いの「正解ルート」を通っていたら、絶対に見られなかった景色だった。
「すげぇな……」
ガルドが口を開けて見とれている。
エルフィも、文句を言うのを忘れて眼鏡を直した。
俺は、片腕のない肩で風を感じながら、その光景を目に焼き付けた。
リセット能力を持っていた頃の俺は、こんな景色を知らなかった。
常に「最短」を走り抜けていたから、「寄り道」の先にある美しさに気づけなかったのだ。
「……写真機能がないのが残念だな」
俺は軽口を叩いた。
「心のアルバムに保存するしかないわね。……容量、足りるかしら」
「俺のメモリは無限大だぜ。ま、お前らとの思い出専用だがな」
俺が言うと、エルフィが顔を赤らめ、ガルドが「ヒュー!」と茶化し、リーナが嬉しそうに微笑んだ。
◇
その夜。
俺たちは野営をすることになった。
街には辿り着けなかったけれど、誰も不機嫌じゃなかった。
焚き火を囲み、ガルドが仕留めた野ウサギを焼く。
俺はナイフで肉を切り分けようとして、苦戦していた。片手では肉が動いてしまうのだ。
「貸して、カケル」
エルフィが自然にナイフを受け取り、手際よく切り分けてくれる。
リーナが俺の口元を拭いてくれる。
ガルドが良い部位を俺の皿に乗せてくれる。
情けない。
介護されているみたいだ。
かつての「万能の勇者」の面影はどこにもない。
でも、不思議と惨めじゃなかった。
俺の「欠けた部分」を、仲間たちが埋めてくれている。
パズルのピースがハマるように、俺たちは一人一人が欠けていて、だからこそ四人で一つの形になれる。
「なぁ、カケル」
ガルドが串焼きを齧りながら言った。
「お前、日本……だっけか? 元の世界に帰りたくなることはねぇのか?」
三人の視線が集まる。
俺は夜空を見上げた。満天の星空。
元の世界には、便利な道具も、娯楽も、安全もあった。
両手もあった。
「……たまに、思い出すよ。コンビニの弁当とか、ネット動画とかな」
俺は正直に言った。
みんなの顔が少し曇る。
「でもな」
俺は左肩をさすりながら、笑顔で続けた。
「あっちの世界には、失敗を許さない空気があるんだ。一度レールを外れたら終わり、みたいな息苦しさがあった。……俺がリセットに逃げたのも、そのせいかもな」
就活の面接で逃げ出したあの日。
俺は「失敗」を恐れるあまり、人生そのものから目を背けていた。
「ここでは、道に迷っても虹が見られる。皿を割っても笑い話になる。腕をなくしても、お前らが助けてくれる」
俺は三人の顔を一人ずつ見た。
「俺は、この『やり直しのきかない、失敗だらけの世界』が好きなんだ。……ここが俺の、本当の世界だよ」
リーナが泣きそうな顔で笑い、エルフィがフンと鼻を鳴らして照れ隠しをし、ガルドがバシンと俺の背中を叩いた。
「いってぇ!」
「ガハハ! なら覚悟しとけよ! 明日はもっと険しい山道を行くからな!」
「えぇ……街道を行こうぜ、頼むから」
笑い声が夜空に吸い込まれていく。
セーブポイントはない。
リセットボタンもない。
明日のことは誰にも分からない。
だからこそ、明日は今日よりもきっと楽しい。
俺たちは寄り道をしながら、ゆっくりと、一歩ずつ進んでいく。
終わりのない旅路へ。
(全20話・完)
番外編 「未知」という名の宝箱
その宝箱は、鬱蒼とした森の奥にある廃墟の真ん中に、ぽつんと置かれていた。
豪奢な装飾が施された、いかにも怪しい宝箱だ。
「……なぁ、カケル。これ、開けてもいいか?」
ガルドがゴクリと唾を飲み込み、斧を構えながら振り返る。
エルフィは杖の先端を宝箱に向けたまま、訝しげに眼鏡を光らせた。
「怪しいわね。魔力反応があるわ。……ねえカケル、あなたの『記憶』にはないの? この宝箱の中身」
三人の視線が俺に集まる。
俺は、ないはずの左腕を無意識にさすりながら、苦笑して首を振った。
「残念ながら、記憶にないな。俺がソロで回ってた時は、最短ルートしか通らなかったから……こんな寄り道エリアの宝箱なんて、見たこともないよ」
そう。
かつての俺は、効率至上主義だった。
経験値効率の悪い森や、レアアイテムのドロップ率が低い廃墟なんて、目もくれずに素通りしていたのだ。
「つまり、中身は『分からない』ってことか!」
ガルドが目を輝かせる。
かつてなら、「中身が不明な箱を開けるリスク」を冒すなんてあり得なかった。
ミミック(人食い箱)かもしれないし、爆発する罠かもしれない。
リスクヘッジのために、「無視する」のが正解だ。
でも。
「……ワクワクするな」
俺の口から、自然とそんな言葉が漏れた。
中身が分からない。何が起こるか予測できない。
それがこんなに楽しいことだなんて。
「ですね! もしかしたら、伝説の聖剣とか入ってるかもしれませんよ!」
「いや、リーナ。このエリアのレベル帯じゃ、せいぜい薬草か小銭よ」
夢を見るリーナと、現実的なエルフィ。
俺はニヤリと笑って、ガルドに合図を送った。
「よし、開けてみようぜ。罠だったら罠だったで、また笑い話が増えるだけだ」
「おうよ! 英雄様の号令だ、行くぜぇッ!」
ガルドが豪快に蓋に手をかけ、勢いよく開け放った。
ギィィィ……!
──パカッ。
「「「……」」」
全員が固まった。
箱の中には、金銀財宝も、伝説の武器も入っていなかった。
入っていたのは、鋭い牙と、長い舌と、ギョロリとした目玉。
「「「ミミックだぁぁぁぁぁッ!!」」」
「ケケケケケッ!」
ミミックが奇声を上げて飛び出してきた。
ガルドの顔面に噛みつこうとする。
「うわっちゃァァァ! 離れろこの野郎!」
「だから言ったでしょ! 『ファイア・アロー』!」
「きゃあ! エルフィさん、それだと宝箱の中身ごと燃えちゃいます!」
廃墟に大騒ぎが響き渡る。
ガルドがミミックを引き剥がそうと暴れ、エルフィが魔法を誤射し、リーナが慌てて水をかけて消火する。
カオスだ。
スマートさのかけらもない、泥沼の戦い。
俺は?
俺は、片手で必死に石ころを拾って、ミミックに投げつけていた。
「こっちだ! こっち向け、ポンコツ箱!」
コツン。
石が当たり、ミミックが俺の方を向く。
その隙に、ガルドが体勢を立て直した。
「よくも俺の鼻を噛みやがったな! お返しだぁッ!」
ドカァァァン!!
ガルドの渾身の拳骨が炸裂し、ミミックは星になって飛んでいった。
◇
「はぁ……はぁ……」
「ひどい目に遭ったわ……」
戦闘終了後。
俺たちは煤だらけの顔で、地面に座り込んでいた。
戦利品はゼロ。
ガルドの鼻は赤く腫れているし、エルフィのローブは少し焦げている。
完全な「徒労」だ。
効率的に言えば、マイナス100点の行動だ。
沈黙が落ちる。
数秒後。
「……っぷ」
誰かが吹き出した。
それにつられて、全員が爆笑した。
「あはははは! ガルドさんの鼻、トナカイみたい!」
「笑い事じゃねぇよ! 痛ってぇ……! でもまぁ、すげぇ噛み心地だったな!」
「カケルの石投げも酷かったわよ。全然当たってないんだもの」
「うるさいな、片手じゃバランス取るのが難しいんだよ!」
俺たちは腹を抱えて笑い転げた。
何も得られなかったけれど、何よりも楽しかった。
「攻略本」には載っていない、俺たちだけの馬鹿げたエピソードが、また一つ増えた。
「次だ、次!」
俺は立ち上がり、服の汚れを払った。
「この先に、もっと凄い宝があるかもしれない。……懲りずに探しに行こうぜ」
「望むところだ!」
「次は罠探知の魔法、二重にかけますからね」
「私も、回復の準備しておきます!」
俺たちはまた歩き出す。
地図にない道へ。予測不能な明日へ。
やっぱり、この世界は最高だ。
リセットできない毎日が、こんなにも輝いているんだから。
(番外編・完)




