第11話 ノー・セーブの明日
風の音が聞こえる。 草の匂いがする。 遠くで、教会の鐘が鳴っている。
「……ッ、はぁ!」
俺は弾かれたように上半身を起こした。 呼吸が荒い。心臓が早鐘を打っている。全身が熱い。 俺は自分の手を見た。 震える手。爪の間に泥も血も入っていない、綺麗な手だ。 腰に手をやる。 あの相棒のように手に馴染んでいた「ミスリルの短剣」はない。あるのは、ギルドで支給されたばかりの、安っぽい鉄の短剣だけだ。
「戻った……のか?」
周囲を見渡す。 見覚えのある草原。街道の向こうに見える、始まりの街「アインベルク」。 間違いない。過去の俺が転移してきた場所だ。
俺は恐る恐る、視界の隅に意識を集中させてステータス画面を開いた。
【相葉カケル】 Lv:1 HP:25/25 MP:5/5 スキル:なし
レベル99の力も、数万回の戦闘で磨き上げた身体能力も、すべて消滅していた。 そして、何よりも重要な項目。
【システム通知】 ・規約違反へのペナルティを執行しました。 ・固有スキル『死に戻り』を剥奪しました。 ・以降、あなたの人生におけるリセットは不可能です。
その文字を見た瞬間、俺は空を見上げて笑った。
「……ははっ、上等だ」
リセット機能の喪失。 それはつまり、次に死ねば本当に終わりだということだ。 ゴブリンの一撃で死ぬかもしれない。風邪をこじらせて死ぬかもしれない。 俺はただの、無力で脆弱な人間に戻った。
──なのに、どうしてだろう。 あの孤独な玉座にいた時よりも、ずっと心が軽い。
「会いに……行かなきゃ」
俺は立ち上がり、走り出した。 足が遅い。すぐに息が切れる。体力がなさすぎて笑えてくる。 それでも、俺は足を止めなかった。 街へ。あの酒場へ。 まだ他人同士の、あいつらがいる場所へ。
◇
冒険者ギルドの酒場「陽だまり亭」。
扉を開けると、そこには懐かしい喧騒があった。
視線が吸い寄せられる。
中央のテーブル席。
まだ誰も座っていない特等席に、彼らはいた。
大盾を手入れしている巨漢、ガルド。
メニューを見ながら悩んでいる聖女、リーナ。
地図を広げて眉間に皺を寄せている魔導士、エルフィ。
生きてる。
動いてる。笑ってる。
幻覚じゃない。
「……ッ」
目頭が熱くなり、駆け寄って抱きつきたくなる衝動に駆られる。
だが、俺はぐっと拳を握りしめて足を止めた。
(ダメだ、落ち着け)
今の彼らにとって、俺は「赤の他人」だ。
いきなり泣きながら「仲間に入れてくれ」なんて言っても、不審者扱いされて終わりだ。特にエルフィは、感情論で動く人間じゃない。
思い出せ。過去の記憶を。
あの時、俺はどうやって彼らに取り入った?
予知能力めいた演出で有能さを見せつけ、エルフィの疲労を見抜き、心の隙間に入り込んだんだったな。
(……やることは同じだ)
俺は深呼吸をして、涙を拭った。
手順は変えない。
俺はカウンターへ行き、なけなしの初期所持金を叩いて、「あるもの」を注文した。
そして、震える足を押さえつけ、彼らのテーブルへと歩み寄る。
◇
俺はエルフィの対面に、音もなく立った。
「……『右翼の守りが薄い』。悩んでるみたいですね、リーダー」
エルフィの手が止まる。
眼鏡の奥の瞳が、鋭く俺を射抜く。かつて俺を戦慄させた、冷徹な査定の目だ。
「……盗み聞き?」
「いいえ。ただの分析です」
俺は以前と同じセリフを口にする。だが、その口調には傲慢さの代わりに、切実さが滲んでいた。
「ガルドさんの盾は優秀ですが、攻撃に転じると視野が狭くなる。リーナさんの回復は一級品ですが、詠唱中は無防備だ。あなたが広範囲魔法で敵を散らしていますが……MPの消耗が激しすぎて、夜も頭痛で眠れないんじゃないですか?」
図星を突かれ、エルフィの眉がピクリと動く。
ここまでは前回と同じ。
次だ。
俺はテーブルに指で3つの点を描く。
「証明します。僕の目が、あなたの役に立つことを」
その瞬間。
俺の脳内でカウントダウンが始まる。
(あと3秒で、入り口から酔っ払いが転がり込む。2秒後、店員がジョッキを落とす。1秒後、ガルドが戻ってくる)
かつての俺は、これを黙って見ていた。
「ほら、予言通りだろ?」とドヤ顔をするために、店員がジョッキを割るのも、酔っ払いが暴れるのも放置した。
──でも、今は違う。
「店員さん! お盆、滑りますよ!」
俺は咄嗟に声を張り上げた。
近くを通った店員が驚いて足を止め、傾きかけたお盆を立て直す。
ジョッキは落ちなかった。割れるはずだった音は響かない。
直後、入り口のドアが開く。
泥酔した冒険者がよろめきながら入ってくる。
その軌道上には、トイレから戻ってきたガルドがいるはずだ。以前の世界線では、ぶつかって酒をこぼされ、小競り合いになった。
「ガルドさん、右に一歩!」
俺は反射的に、まだ名前も名乗っていない男の名を呼んでいた。
ガルドが「あ?」と反応し、無意識に右へ避ける。
その横を、酔っ払いが「うぃ〜っ」と通り過ぎて床に倒れ込んだ。
騒動は未然に防がれた。
店員が「あ、ありがとう兄ちゃん! 助かったよ!」と俺に手を振る。
俺は安堵の息を吐き、向き直った。
そこには、口をポカンと開けたガルドとリーナ、そして目を見開いて絶句するエルフィがいた。
「……あなた、何者?」
「未来が見える……なんて大それた力はありません」
俺は首を振った。
予知能力者のフリなんて、もうしない。
「ただ、観察するのが得意なだけです。……あなたが無理をしていることも」
俺はカウンターで買ってきたものを、テーブルに置いた。
冷えた「ミント水」だ。
頭痛や眼精疲労に効く、安価だが効果のあるハーブ水。
「これ、よかったら。少しは楽になると思います」
「……私の頭痛のこと、どうして?」
「眉間のシワと、こめかみを押さえる癖で分かりました。……いつもお疲れ様です」
エルフィが虚を突かれた顔をする。
俺は一歩下がって、深々と頭を下げた。
「俺の名前はカケル。レベル1の、弱い盗賊です」
「戦力にはなりません。足手まといかもしれません。でも……俺は目がいい。危険を察知して、皆さんが戦いに集中できるようにサポートすることはできます」
顔を上げる。
涙が出そうになるのを堪え、真っ直ぐに彼らの目を見た。
「荷物持ちでも、雑用でも構いません。……どうか、俺を置いてくれませんか。俺は、あなたたちの背中を守りたいんです」
店内が静まり返る。
メリットの提示としては弱い。レベル1の雑用係なんて、代わりはいくらでもいる。
だが、この「ミント水」と、店員たちを救った「行動」は、言葉以上の説得力を持っていたはずだ。
沈黙を破ったのは、ガルドだった。
「……ガハハ! なんだそりゃ! いきなり来て『俺は弱い』だと? そんな売り込み文句、初めて聞いたぞ!」
ガルドが腹を抱えて笑う。以前と同じ、豪快な笑い声。
「でもよぉ、さっきの指示、悪くなかったぜ。俺の名前、なんで知ってるか知らねぇけどよ」
「ガルド、笑い事じゃないわよ」
エルフィが呆れたように言うが、彼女の手はミント水のグラスをしっかりと握っていた。
彼女は一口飲み、ふぅ、と息を吐いて眼鏡の位置を直した。
「……悪くないわね」
「え?」
「タイミングも、気遣いも。……それに、その目」
エルフィが俺を覗き込む。
「自分の利益じゃなくて、パーティ全体の安全を考えている目だわ。……合格よ、カケル」
「私は大賛成です! カケルさん、すごく優しそうな方ですし!」
リーナが花が咲いたような笑顔を見せる。
以前、俺が「嘘と計算」で勝ち取った合格。
それを今、俺は「正直な弱さ」と「小さな気遣い」で、再び勝ち取ったのだ。
「いいのか……? 俺で、本当に」
「おうよ! その代わり、死ぬ気で働けよ新人! 俺の背中は広いからな、安心して隠れてろ!」
ガルドが背中をバンッと叩く。
痛い。でも、温かい。
俺は今度こそ、心からの笑顔で応えた。
「……ああ! よろしく頼む!」
こうして、俺の──いや、俺たちの「二度目の冒険」が幕を開けた。
攻略チャートも、安全地帯もない。
ただ、この温かい仲間たちと、予測不能な明日へ向かう旅が。
(第12話へ続く)




