6話 異変と記入者
――まさか……椿樹は、俺がノートで“作り出した”存在なのか?
その可能性が、暁葉の胸にじわじわと現実味を帯びてのしかかってくる。頬を伝う嫌な汗は、決して暖房のせいではなかった。
「実現ノートか……もっと調べる必要があるな。胡蝶くん、そのノート、持ってるかい?」
亮は真剣な表情で、鋭く問いかけた。
「これです……。状況的に見ても、ノートが現実を改変したとしか……」
暁葉は鞄からノートを取り出し、そっと亮に差し出した。
亮はノートを手に取り、じっくりと観察し始める。その目には、未知の現象を研究する科学者のような鋭い熱意が宿っている。
「うん、これが『実現ノート』なのか……一見すると普通の学習ノートだが……」
慎重にページをめくる。その手つきは、貴重な遺物を扱うかのように丁寧だった。
会員たちも、息をのんで見守る。
「この書き方、明らかに異なる筆跡があるな。つまり、書いた人が他にもいるかもしれない。しかし――」
亮の指が、ページの隅に記された赤い文字をなぞる。
「『実現完了』……これはすべて同じ筆跡だ。」
亮はノートのページをさらにめくり、書かれた内容を読み上げる。
『いじめの撲滅』――実現完了。
『嫌いな教師を消して』――実現完了。
『宝くじに当たる』――実現完了。
『サッカー部全国大会優勝』――実現完了。
『美術コンクールで金賞を取る』――実現完了。
『友人を助けたい』――実現完了。
一つ一つの文字が、まるで過去の秘密を暴いているかのように響いた。
「これらの内容が現実になったということは、その後の影響についても考慮しなければならないな」と亮は続ける。
「特に、天城の存在は明らかにおかしい。もし『実現ノート』で彼女が生まれたのだとしたら――彼女の家は?両親は?どれほどの記憶を持っている?何が本当に“実在”していて、何が作られたものなのか……まるで見当がつかない。人間ひとり分の人生を、まるごと創り上げているわけだからな」
「周りの記憶と共に、一人の人生が作り上げられたのなら、暁葉の記憶はなぜ改変されないのだろうね?」
黒江が、亮の後ろに回り込みながら問いかけた。
「それは……」
亮は考え込むように、ノートを見つめた後、静かに口を開く。
「記入者が、このノートの影響を受けないという証拠かもしれない。」
「つまり、書いた本人だけは"本来の世界"を覚えているってこと?」
三つ編みの言葉に、暁葉はごくりと喉を鳴らす。
"俺だけが、この世界の違和感に気づいている……?"
ぞくりとした寒気が背筋を這い上がる。
「まあ、それも仮説に過ぎないが……」
亮はノートを閉じ、部室にいる全員を見渡した。
「今後、オカルト研究会は『実現ノート』の事象解明をテーマにしていく。」
その言葉に、会員たちはざわめいた。亮の瞳には、探究心と警戒心、そしてわずかな決意の色が宿っていた。
「これは……俺自身の研究とも関係しているかもしれない。ノートが見つかったのがこの学校なら、過去の記入者もこの学校の生徒のはずだ。文芸部が管理する文集と筆跡を照らし合わせるぞ」
亮はスマートフォンに何かを打ち込みながら、言葉を続けた。
「どんな記入者がいて、どんな理由でこのノートを書いたのかを探る必要がある。特に、どんな目的でこのノートを使用していたのかを知ることが重要だ。」
亮の言葉をを皮切りに、オカルト研究会は『実現ノート』の調査を開始することになった。
ノートに書かれた内容を検証し、過去の記入者やその意図を明らかにするために、会員たちはあらゆる手段を講じることを決意した。
静かな部屋の中、暁葉は机に座り、目の前に置かれた『実現ノート』を見つめていた。
ノートの表紙は、一般的な学習ノートと遜色ないのにまるで闇そのもののように光を吸い込んでいるように見えた。
――このノートが、俺の願いを叶えたのなら。
彼の脳裏に、天城椿樹の姿が浮かぶ。
彼女の笑顔、優しい声、触れられそうなほど近くにいる温もり。
「彼女は、なぜあの黄昏の教室に『彼女』として現れたのか……」
そして――
「ノートは、なぜ俺の机に入っていたのか……」
その疑問が、幾度となく彼の頭の中で渦巻く。
答えは、まだ見つからない。
「実現ノートが一体何なのか……。ノートの謎を解くことだけが、異変解決の糸口なんだ」
ノートを手に取ったまま、暁葉は自らに言い聞かせるように、静かに呟いた。