3話 世界と記憶のズレ
「暁葉くんが私を好きだって言ってくれたから、こうして一緒にいるのよ」
天城椿樹と名乗った少女の淡々とした言葉に、暁葉は思わず息を呑んだ。
「好きだって……そんなこと言った覚えはないんだけど……」
心臓が、不規則に跳ねる。
「でも、暁葉くんが私を好きって言ったのは、事実だよ?」
椿樹は小首をかしげながら、じっとこちらを見つめてくる。
「だから、私も暁葉くんのことが好きなんだけどな」
(どうして?)
暁葉の頭の中で、その疑問がぐるぐると渦巻く。
彼女の言葉は確信に満ちていた。まるで、すでに恋人同士であることが絶対の事実であるかのように――。
だが、暁葉にはまったく覚えがない。
周囲のクラスメイトたちはどうだろうか?
不安になり、視線を周囲へ巡らせる。
しかし、クラスメイトたちは特に騒ぐこともなく、二人のやり取りを見ても「またいつものことか」と言わんばかりの穏やかな表情を浮かべているだけだった。
(……おかしい。何かが決定的におかしい)
喉がカラカラに渇いていく。
「そうだ!クラス名簿!」
何かの悪い冗談なら、証拠を探せばいい。
名簿を見れば、この違和感の正体が分かるはずだ――!
暁葉は、焦燥感に突き動かされるまま教卓へと駆け寄った。
指先がかすかに震える。
迷いを振り払うように、勢いよく名簿をめくる。
そこに――
出席番号1番。
天城椿樹。
名前を目にした瞬間、背中に冷たい汗が流れた。
――ここにいる。最初から、当たり前のように。"存在していた"。
「まさか、本当に昨日のことが現実になってしまったのか?」
脳裏をよぎるのは、あのノートのこと。
暁葉は鞄から先ほど出したノートを見つめる。彼の手には昨日、何気なく手にした『実現ノート』があった。
「このノートが……本当に、すべての元凶なのか?」
開こうとしたその瞬間、
「起立、礼!」
担任の声が響き、HRが始まってしまった。
暁葉は渋々ノートを閉じ、意識を授業へと向けようとする。……だが。
どうしても、隣の「存在」が気になって仕方なかった。
椿樹は、時折こちらに視線を向けてくる。
そのたびに、どこか優しく、懐かしさすら感じさせる微笑みを浮かべながら。
(……ありえない)
理性では否定している。それなのに――
椿樹の声が、仕草が、そしてその"気配"が、どこか心の奥底に触れてくる。
まるで――
ずっと昔から知っていたかのように。
(……何なんだよ。本当に、どうなってるんだ……?)
暁葉の胸の内は、疑念と戸惑い、そして拭い去れぬ妙な感情で満ちていた。
「……おい、暁葉! 今日のお前、なんかおかしくね?」
後ろの席から大島が声をかけてきた。
本当に席が変わっているようだ。
いや――周囲から見れば、おかしいのは俺なのだろう。
「いや、今日提出の現国の課題忘れてて……ちょっとパニクってたかも」
とりあえず、ノートのことは伏せて、適当にごまかしておくことにした。……その時だった。
「ん? 現国の課題なんか無かったはずだぞ?」
――そんなはずはない。
俺は、確かに昨日、その課題を取りに学校へ戻ったのだから。
「大島くん……昨日、途中まで一緒に帰ったよな?」
そう。忘れ物に気づくまでは、俺と大島は一緒だったはずだ。
だが――
「いや、お前は天城と一緒に帰ってただろ? 教室にしばらく残ってよ」
その言葉に、暁葉の思考が凍りつく。
世界が、静かに、しかし確実に、ズレ始めていた――。