1話 放課後のノート
4月。放課後の校舎には、新入生を部活動へと誘う声が賑やかに響き渡っている。
サッカー部や野球部といった花形の部活動から、山岳部や新聞部、さらにはオカルト研究会のような一風変わった部まで。廊下や階段、校庭のあちこちで勧誘の声が飛び交い、校内は熱気に包まれていた。
そんな熱気の渦中、2年に進級してなお、どの部にも所属しない胡蝶暁葉は、ひとり冷めた眼差しでその光景を見下ろしていた。
(スポーツ科の二階堂……あれは、うちのクラスの夕闇か? 毎年よくやるな……)
廊下を歩きながら窓の外を見下ろす彼の視線は、まるで別世界を見るかのように遠かった。
やがて時は過ぎ、勧誘の声も徐々に薄れ、校舎には静けさが戻ってくる。
春の夕日が廊下の窓から射し込み、床に長い影を落とす。薄暗くなったその空間は、現実と非現実の狭間のようで、すれ違う生徒の顔さえも朧げにしか見えない。
まさに――黄昏時。
静寂の中、時計の針がコツ、コツ、と一定のリズムで響く。その音が、余計にこの静けさを際立たせていた。
机と椅子だけが残された教室は、まるで無人の舞台セットのようにぽつんと佇んでいる。
部活に所属していない彼が、この時間まで学校に残っているのには理由があった。
「危なかった……課題のノート忘れたら……現国の松本、うるさいからな……」
要するに――忘れ物である。
暁葉は教室に入ると、自分の机へまっすぐ向かった。
しかし、机の中を見た瞬間、動きが止まった。
――違和感。
そこにあるはずの自分のノートの上に、見覚えのないノートが重なっていた。
「ん? なんだこれ……?」
小さくつぶやきながら、ノートを手に取る。表紙には、黒々とした筆跡でこう書かれていた。
『実現ノート』
(誰かが入れ間違えたのか……?)
疑問を抱きつつ、ノートをめくる。
そこには、黒い文字と赤い文字で奇妙な言葉が並んでいた。
『いじめの撲滅』――実現完了。
『嫌いな教師を消して』――実現完了。
『宝くじに当たる』――実現完了。
暁葉の指が、ぴたりと止まる。
(……冗談だろ)
ぞくりとした寒気が背筋を駆け上がる。
何度もページをめくる。
『サッカー部全国大会優勝』――実現完了。
『美術コンクールで金賞を取る』――実現完了。
『友人を助けたい』――実現完了。
書き込みは無造作に続いていた。字体からして、複数の人物が書いたもののようだ。
だが――。
「実現完了」と記された赤い文字だけは、どのページも同じ筆跡だった。まるで、それだけが“確定事項”であるかのように。
「……なんだ、これ……」
ぞくりと背筋が粟立つ。喉がカラカラに渇き、指先がかすかに震えた。
ノートの赤文字は、まるで血で書かれているかのように生々しく、異様な存在感を放っている。暁葉は強い不安を感じながらも、その手を離せなかった。
(実現ノート……単純に考えれば実現するという決意表明だが……)
――もし、このノートが本物なら?
不安と恐怖、それに好奇心がない交ぜになった感情が、彼の思考を支配する。試してみるべきか、否か。
逡巡した末に、彼はペンを取り出し、ページに言葉を記した。
『巨乳美少女に抱きつかれる』
「……まあ、ありえないけどな」
軽い気持ちで書いた、何気ない一言。しかし、その瞬間――
むにゅんっ
突然、背後から柔らかい感触が押し付けられた。
「……は?」
首筋にふわりと甘い香りが触れる。次の瞬間、腕がしなやかに回り込んできた。
「ちょっ……は!? なんで……!?」
心臓が跳ね上がる。背中に押し付けられた柔らかい感触――ありえない。
恐る恐る振り返ろうとした瞬間――
「きゃっ♡」
耳元で、甘く可愛らしい声が弾けた。
ありえない。こんなことが起こるはずがない。
暁葉の全身が総毛立つ。振り返ることをためらい、本能のままに駆け出した。ノートを握りしめたまま、教室を飛び出していた。
――背後で、少女の声が聞こえた。
「……どうして逃げるの? 暁葉……」
振り向くこともできず、ただ走る。心臓の鼓動が激しく鳴り響く。
そして、ふとノートを見下ろした瞬間――
『巨乳美少女に抱きつかれる』
その文字の横に、赤く刻まれた『実現完了』の文字があった。
「まさか……」
彼は、思わず息を呑んだ。
――これは、本当に「実現ノート」なのか?
暁葉は、まだ気づいていなかった。
軽い気持ちで記した一文が――
存在しなかった“誰か”を、世界に創り出してしまったことに。
彼女は、どこから来たのか。なぜ暁葉の名を知っていたのか。
『実現ノート』を巡る物語が今、始まった。