免許が必須となった社会
「えっ、2ヶ月後に出産予定ですか?」
対面に座る男が、目を丸くしながら顔を上げる。箸を動かす手も一瞬止まるくらいに、大きく驚いていた。
教習所の昼休み。
ランチのために食堂へ行くと、見知った顔があったので彼と同じテーブルに座った。
学科教習だけでなく技能教習でも何度か一緒になった男であり、教官からは「田中さん」と呼ばれていたので、それが彼の名前なのだろう。
外見的には額が広いのが特徴だが、どうやら生まれつきではなく、前髪の生え際が後退し始めているらしい。私よりも10歳は若いだろうに、なんだか可哀想な話だ。
いや傍から見れば、30を超えてからこのような教習所に通っている私の方が、彼よりも可哀想に思われるかもしれない。
お互い顔は知っていたものの、今まで個人的に話したことはなかったので、食べながら簡単な自己紹介となった。
田中さんは貿易会社勤務で、まだ独身だという。一方、小さな研究室で働く私は、既に結婚7年目であり、それどころか妻が妊娠中。その旨を告げたところ、冒頭のように酷く驚かれたのだった。
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「ハハハ……。そうですよね、今さら教習所に通うなんて何やってんだ、と思われるかもしれませんが……」
私も食事の手を止めて、かるく頭をかきながら、言い訳じみた言葉を口にする。
「……大丈夫ですよ。ほら、教習所の卒業までに取らなきゃいけない単位は、学科が36時間で技能が22時間でしょう? 私はそれぞれ32時間と19時間、履修済みですから、残りはあとわずかです」
ちなみに、妻は結婚前に免許取得済み。「こんなもの、花嫁修行の一環よ」と彼女は言っていた。
いずれにせよ、妊娠してから教習所や免許センターへ行くのは肉体的に難しいから、わざわざ説明せずとも「妻の方は免許取得済み」と田中さんも理解しているようだ。
「それにしても……」
田中さんの表情が、驚きから心配の色に変わる。
「……いくら『残りはあとわずか』といっても、結構ギリギリじゃないですか? いっそのこと教習所に通ったりせず、いきなり免許センターで一発試験の方が、時間的には良かったのでは……?」
「いや、その方が早いと考えられるのは、よほどの自信家だけですよ。だって、ほら……」
法律によって定められたところによれば、確かに、免許センターで試験を受けて合格するだけでも免許は取得できる。ただしその場合、免許センターでは学科試験に加えて技能試験も必要。一方、教習所を卒業しておけば、免許センターでは学科試験のみとなり……。
「……免許センターの技能試験は厳しい、と言いますからね。なかなか一発合格は出ない、って話でしょう? だったら、かえって時間的には遠回りですよ」
「そういえば……」
田中さんも、私の言葉に納得したみたいに頷いている。
「……教習所では僕たち、実技の教習でアンドロイドを使っていますが、免許センターの実技試験では生身の子供だそうですね。無免許でいきなり生きた人間相手なんて、考えただけでも恐ろしい……!」
本当に怖そうに、田中さんはブルッと体を震わせた。
そんな田中さんに対して、私は言葉を続ける。
「知っていますか? ほんの100年くらい前まで、こんな免許制度は存在しなかったそうですよ。法律やら何やらで資格を保証されなくても、みんな自然に出来ていたんです」
「ええ、それくらい僕も聞いたことあります。確かに、歴史を紐解けばそうなるんでしょうけど……」
田中さんは、何やら考え込むかのように、眉間にしわをよせる。
「……でも当時は色々と問題が起こったからこそ、免許という仕組みが出来た。少なくとも僕はそう教わりましたし、現行のシステムに納得も賛成もしていますよ」
――――――――――――
ランチタイムにおける田中さんとのやり取りから3週間後。
私は無事に、教習所の卒業試験を合格して……。
早速その翌日、一番近い免許センターへと向かっていた。
見上げれば、青く晴れ渡った空。朝から清々しい一日だった。
電車とバスを乗り継いで、降りたバス停の真ん前が免許センターだ。
清楚な白い塀に囲まれた敷地内に、横長の二階建てビルが二棟。左が赤色、右が青色の建物だった。
免許取得だけでなく、更新手続きもこの免許センターで行われているはずだが、どちらも同じ建物内で行われるらしい。「取得」と「更新」の違いではなく、免許の種類によって、会場となるビルが区別されているようだった。
というのも、女性は全て左側の建物へ、男性は右へ向かっているからだ。
この流れに従って行けば、行き先を間違えるはずもないだろう。
我が国の現行の法律では、両親の免許が揃っていない家庭で生まれた子供は、政府機関に取り上げられてしまう。生みの親たちに代わって、政府が責任をもって育てていく、という制度だ。
この制度が始まって以来、親による子殺しの事件が減ったり、少子化問題が改善されたりしたそうだが……。
いざ自分たちの子供が取り上げられるのを想像すれば、なんとも恐ろしい話! そんな事態を避けるためにも、私は今日、絶対に免許を取得する必要があるのだった。
だから……。
私も人々の流れに乗り、左側の建物――「母親免許」関連――でなく、右の青いビルに足を踏み入れて、「父親免許」受験受付へと向かうのだった。
(「免許が必須となった社会」完)