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源助は湯屋で銀次から髪を結い直してもらった後、己の考えに身震いした。
『あいつは、間違いない』
それは長く十手を握っていた岡っ引きの勘と言える。そんな勘などあてにならぬと言う者もいるが、そんなものこそが大事になる時も多い。
鈴が殺されたあの日以降、宮浦の地から姿を消した者たちをしらみつぶしに聞き漁った。
一番に上がったのは瓦版の挿絵を描いていた絵描きの男。
こいつは瓦版屋にネタを売っていたこともわかっている。源助はこいつが一番クサイと踏んでいた。
次は材木屋で力仕事をしていたガタイのいい男。
他に小間物屋で下男をしていた若い男。
それに、急に店をたたみ消えた飯屋の店主。
そして、髪結いの見習いとして働いていた……、若い男。
それが銀次だと源助は踏んでいる。
確信は無い。それでも己の中の勘が叫び続ける。
間違いないと。
十手を返した今の源助に銀次をお縄にできる権利はない。
お上に情報を渡したところで証拠が無い以上、すぐにお縄にできるわけでもなく、その間に逃げられるのがおちだ。
ならば首に縄をつけてでも宮浦に連れて行き、高木の元に引きずり出せばなんとかなるのではないか。いや、高木ももうすでにいい歳だ。すでに十手を返しているはずだろう。ならば、高木の後輩にあたる人間に……。
などと、ぐるぐると思考を巡らすが結局はこれといった答えは出ない。
だが、一つだけわかることがある。
なんとしても、鈴を守りたい。それだけは譲れない思いだった。
銀次と鈴に血の繋がりがないことは、一目見てわかった。
どういう経緯で一緒に暮らしているのかはわからない。
それでも鈴の様子を見るに、無理矢理強要されているわけではなさそうだとは思う。銀次を兄として心から信用しているのが見て取れる。
だからこそ、源助は迷った。
なんとか、鈴の意思であの男から離してやりたいと。
他人に何を言われても、その奥の心根が簡単に変わらぬことを知っている。
知っているからこそ、そこから本当の意味で逃れるには自分の意思が必要なのだ。半端な状態で連れ出しても、また戻ってしまう。
同じ時を過ごし、同じ環境下で暮らした記憶は、思った以上に体に沁み込んでいる。心もまた同じ。
「なんとかしてやらないと」
妹、鈴と、今を生きる鈴がどうしたって重なってしまう。
違うのだと、全く違う人間なんだと思っても、どうしたって切り離すことができない。あまりにも似たような環境の自分たちを比べれば、どうしたって同調してしまう。
源助もすでに逃れられない思いに浸りきっているのだろう。
それなのに、それに気が付かず。いや、気が付かないふりをして、鈴を守ると言う大義名分をかざしている。
結局は自分の妹を守れずいた、そのことの呪縛から自分を逃がすために、今を生きる鈴を身代わりにしているに過ぎないのだ。
源助も歳をとった。人ひとり守れる力は、もはやぎりぎり。
早く、一日も早く鈴を救い出したい。と、そう心に誓うのだった。
源助に家の近くまで送り届けてもらった後、鈴は長屋に戻り一人考えた。
ずっと気になっていたことを、他人の源助に指摘されたのだ。
夢に見る景色がよみがえる。大きな屋敷に、顔のわからない大人たち。
温かく、優しい雰囲気が伝わってくる。
それなのにそこに兄、銀次の姿は無い。一度として出てきたことが無いのだ。
それを不思議にも思わなかった。夢自体がただの幻なら、そこに銀次がいないことは不自然ではないから。
源助に会い、そして彼の口から出た言葉を銀次に話すわけにはいかない。
元々鈴は誰かと深く付き合う事をしてこなかった。だから、こんなことを相談できる人間が一人もいない。
自分ひとりで悩むには、ことが大きすぎた。鈴は迷いの渦に沈みそうになっていく。
―・―・―
その日いつものように鈴に見送られ、銀次は仕事場である湯屋へと向かった。
仕事道具の箱を右手に持ち、考え事をしながら町中を歩く。
最近の鈴の様子がどうもおかしいと思っていたのだ。
いつものように笑い気遣ってくれてはいるが、それがどこかよそよそしい感じを肌で感じていた。
思い起こせば、源助がこの町に来てからだと思う。
髪結いに来てからまだ日が経ってはいないが、彼の同行は権八や弥吉も含め注視はしている。とくにおかしなことをしている風ではなかった。
ただ、鈴に関わりを持とうとしている感がある。それは銀次も強く感じていた。だが、それを止めることは出来ない。下手に動いて探りを入れられるわけにはいなかいのだから。
何か余計なことを吹き込まれていなければいいが。と、そんなことを考えながら歩いていた。
その時、湯屋に向かう途中で脇の小道から人目を気にするように出て来た男達の姿を見た。普段なら気にも留めない日常の景色なのだろうが、そこに映った男の姿に銀次は思わず足を止めてしまった。
すぐに歩き出したことで、相手には気が付かれていないはず。
銀次は冷静を装い、つかず離れずの距離を保ちながら後を付けた。
全部で四人。その中で一番年上の男。歳の頃から言えば権八と同じくらい。
すでに十年以上の年月が過ぎたとは言え、見間違えるはずがない。
『太一兄さんだ』
震えそうになる足を踏ん張り辿った先で、男達は一軒の飯屋に入って行った。
それを見届けると、銀次は湯屋とは反対の方向に向かって急ぎ歩き出した。
まだ仲間がいるかもしれない。下手な動きを見せられない。
銀次は町の一角にある地蔵の前にしゃがみ、手を合わせた。
そして地蔵の前にお供え物を置くふりをして、地蔵の足元に髷をしばる元結の紐を差し込んだ。
銀次が与市と連絡を取る手段として用いていた方法。定期的にこの道を通る権八や弥吉がこれを見つければ、湯屋に来るなりして話を付けるのだった。
それまでは気兼ねなく与市の店に通っていた。だが、源助が来てからというもの、中々そういうわけにはいかなくなってしまった。
太一がこちらに向かっているらしいという情報がある以上、その影を意識せずにはいられない。
そうして銀次が湯屋で客待ちをしている時に、弥吉が湯屋に姿を現した。
「太一さんを見た」
冷やかしの客を装い、近づき小声で話しかける弥吉。
「どこで?」
「西川に続く小道から出て来た。全部で四人。他は若い男達だ」
「人相は?」
「一人は短髪。一人は上背が高い。もう一人はガタイの良い男だった。
太一さんはあんまり変わってない。見ればすぐにわかる。
橋のたもとにある飯屋に入って行った」
話を聞き終わると「ま、金が溜まったら世話になるわ。じゃあな」と、弥吉は湯屋を出て行った。
銀次は少しだけ肩の荷が下りたような気になり、大きく息を吐いた。
その日結局客は一人も来ず、銀次は家路につくのだった。
様子のおかしい鈴のことを気にしながら歩いていたら、後ろから声をかけられた。
「髪結いさん」
咄嗟のことで無防備に振り返ると、そこには避けていた男。
源助が立っていたのだった。