ー18-
滝見里の地に来て、与市のそばで暮らすようになってどれくらい経っただろうか。季節も代わり、生活にも慣れ始めた頃だった。
食うに困らぬ暮らしと心の安寧は、人の心根を変えていくのだろう。
銀次自身、何気に顔つきも穏やかになったような気がしてきていた。
目の見えにくい与市のそばで過ごす日々は、かつて許されなかった自身の父親との生活に重なったのかもしれない。
許されぬことをした過去を忘れるには、十分な時季も過ぎていたのだろう。
このまま、こんな穏やかな日々が続くと錯覚し始めた頃のことだった。
いつものように湯屋で髪結として客を取っていた時のこと。
江戸の方から来たと言う旅の男が口にした『黒狼』の話が、ふいに耳に入ったのだった。
弥吉からも聞いていた黒狼と言う名の盗賊。その名を直に耳にし、思わずその話に耳を傾けていた。
なんでも江戸近辺を拠点に点々と動き、盗みをしているらしい。
寝込みを襲うやり方は他と変わりはないが、大きく違うところは住人に対し容赦がないことだった。
富のある家では用心棒を雇う。雇入れられた以上、盗賊に入られて隠れる訳にいかないので、最初に切られる者はこういった者たちなのかもしれない。
用心棒だけならまだしも、顔を見た者は住人であろうと即座に切りつけるらしい。歯向かう者には容赦ないやり方は、何をどう差し引いても人の恨みを買ってしまう。
弥吉は兄仲間の太一ではないかと言った。銀次は太一の話しを遠い地の噂話くらいにしか聞いたことがないので、現実的に考えるのが難しかった。
いや、考えたくない。信じたくない思いが勝っていたのかもしれない。
たとえ仲違いしたとは言え、縁を得て兄弟の契りを結んだ相手だ。その思いだけでも無碍にはしたくなかったのかもしれない。
「今日、湯屋で黒狼の噂話を聞きました。なんでも、少しずつ北に上って来てるらしいです」
銀次は黒狼の話を聞いた日、さっそく与市たちに話して聞かせていた。
それを聞いた与市と権八は顔を見合わせ、無言で話を聞いていた。
銀次は聞いた話の詳細を話すうち、二人の様子が変わったことに気が付いた。
「どうしたんすか? 黒狼、が?」
銀次の問いに与市が声をかける。
「おめえ、何か聞いてるんか?」
その問いに、銀次は素直にうなずいた。
「へえ。実は、弥吉から少しだけ聞いてます。でも、それは弥吉の想像でしかないって。俺は信じてません。信じたくないです!」
「そうか……」
銀次の声色を読み取った与市は、静かに話し始めた。
「弥吉の想像を俺は知らねえが、たぶん当たってると思うぞ。
……、そうだ。黒狼の正体は、太一だ。
太一は自分が頭になって盗みに押し入ってる。それは長松も確認してるから間違いねえ」
「……、やっぱり。でも、なんで。なんでなんっすか?」
「太一は俺を恨んでるんだ。かつてのあの日、あいつを助けてやれんかった俺を。だから、今のあいつの行動は俺への当てつけだろう」
「そんな、あれは不可抗力じゃないですか。顔を見られたから仕方ないって。
みんな、そう思ってるんじゃないんですか?」
「そう思ってるのはおめえだけだよ。銀次……、おめえだけだ」
口数の少ない権八が与市の言葉を遮ってまで、口にした。
まるで、銀次以外はみんな太一を恨んでいるかのようなその言葉に、納得が行かなかった。
「確かにあのことが無ければ、あのままずっとみんなで仕事が出来たかもしれねえけど。それでも、仕方がないって、みんな思ってたんじゃないんですか?
だって、あれは。不可抗力だって……。ねえ、そうですよね?」
「おめえは人が好過ぎるんだ。仲間を思う気持ちは大事だが、それだけじゃそのうち足元をすくわれる。この世界じゃ、良いやつは食われちまうんだ」
寂しそうな顔をする与市に、銀次は何も言えなくなってしまった。
確かにお人好しな所はあるかもしれない。それでも、仲間を疑いたくない思いは皆が持っているはずだろうし、だから何だと言うのか。
「あいつの仕事は知ってるか?」
「え? 確か絵描きでしたよね」
「そうだ。似顔絵や瓦版なんかの挿絵を描いていた。だから誰よりも情報が早かったし、詳しくもあった。あいつはそれをいいことに、俺らを出し抜いて自分ひとりで金もうけをしてたんだ。
金もうけをすることをとやかく言うつもりはねえよ。金は大事だからな。
だが、仲間を出し抜いて私欲ばかりに走るのはいただけねえと、俺は思う」
「それは……」
「情報を手に入れて、自分一人で盗みをしてた。それだけならまだ良かった。
それくらいなら目を瞑ることも出来た。だがな……。
あいつは、俺たちを売ってたんだ」
「え? 売る?」
権八の言葉に銀次は驚きの声を上げた。
「ああ。俺らの情報を少しずつ噂話として瓦版屋に売ってたんだ。
絵師を頼めるなんざ、相当の金持ちばっかりだ。そんな家に出入りしてたやつは、そこら辺からの情報だって嘘をついて少しずつ漏らしてたんだ」
「そんな、こと……」
「おかしいと思ったんだ。強盗に入った家のもんはなぁ、俺ら全員の姿なんざ見てねえんだよ。大抵はこの権八が家人を集めて見張ってる。だから、正確に仲間が何人だとか、年恰好なんかわかるはずがねえんだ。
見るとしたら権八か、耳打ちしに行く太一くれえだ。それが、段々と内情がバレ始めて行った。噂のうちは良いが、それが本気だとバレたら役人がいつか動き出す。そうなりゃ俺たちみんな一斉にお縄だ。
誰かがタレ込んでると、そう踏んだんだよ」
銀次はそれ以上何も言えなかった。あの当時おかめ盗賊は市井でも人気があった。瓦版屋にネタを売れば、結構な稼ぎになっただろう。そう思うと、銀次はようやく皆の気持ちが理解できた。
「俺は何も知らないで。すいません」
与市たちの前で深々と頭を下げて見せた銀次に対し、与市は彼の肩を叩き顔を上げさせた。
「おめえは知らなくて良いと思ったのは俺だ。あえておめえには教えなかったんだ、だから知らなくても仕方ねえさ」
銀次は一番年若くに与市に拾われ、育てられた。だからなのか、与市にとって銀次は自分で育てた息子のような思いを持っていたのかもしれない。
「権八が襲われたのも聞いてるんだろう? だから俺らのそばに居る決心をしたんじゃねえのか?」
「へえ、その通りです。俺でも役に立つことがあるんじゃねえかと思って。
権八兄さんは未だに足を庇ってらっしゃるから。少しでも側に居れたらって」
「そうか、ありがとうな。おめえみてえのが居るだけで、俺らも安心だ」
与市の笑みに、つい銀次の顔にも笑みがもれる。
だが、それもほんの一瞬のことだった。
「あいつが北に上って来てるってんなら、今度は本気なんだろうな。この前は脅しだったろうが、次は違げえだろう。腹、くくんねえとなんねえな」
与市の言葉に権八も黙って頷いていた。