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曇りなき“善人”たる自負に酔え

作者: 皿日八目

 どうか許して下さい。許して下さい。私は今まで自分のしていたことに気づかなかったのです。


 あまつさえ、私は害を加えられた被害者だとばかり思い込んでおりました。私は自分に非があるなど夢にも思わず、一途に己の正しさを信じ切っていたのです。


 莫迦でした。

 愚かでした。


 私は或る人と一緒に住んでいます。どうか、その人と私とのあいだにどういう関係があるかは聞かないで下さい。その他のことは、すべてお話しします。


 私はその人のことがとても嫌いでした。時々、殺しても構わないくらいに憎くなることもありました。そうしたときには、手に持っているものを壁にぶち投げて壊さないよう、急いで床に落とさなければなりませんでした。


 その人のしたことですか?


 その人は、別に私を殴るわけではありません。蹴りもしません。法に触れるようなことは、何一つしたことがない人です。


 でも、私はその人が大嫌いなのです。

 

 時々、その人は不機嫌になることがあります。特に、お酒を飲んだ時です。そうなると、ほんのささいなことでも理不尽なほどに腹を立て、怒鳴ったり、物を壊したりするのです。

 

 私に向かっても、たびたび声を荒らげました。こちらは決して気に障ることを言ったつもりはないのに、あの人は激しく怒って、私が何度謝っても聞こうとしないのです。


 そして酔いが覚めると、自分のしたことを何一つ覚えていないのです!


 私は、あの人の顔も、声も、もう見たくも聞きたくもないと思いました。しかし同じ屋根の下ですから、そういうわけには参りません。激しく憎み、呪いながらも、付き合っていかなくてはなりませんでした。


 私があの人を嫌いなのは、私はあの人に何もしていない、それどころか心を尽くして親切にしているつもりなのに、相変わらず理不尽な怒りをぶつけてくるためです。


 嫌い憎いと申しましても、あの人の一緒の時に、私はそんな素振りを少しも見せないように努めていました。


 不機嫌でなければ、良い人なのだと必死に自分に言い聞かせます。あの人に話しかけられれば明るい声で答え、顔を合わせるときには笑みを絶やさず、あの人が欲しいと思うものは先回りして全て揃えていました。


 私は理不尽な目にあわされても、それに対してこちらも怒りで応えるということをせずに、ただあの人に親切にし続けたのです。


 そしてどうなったか?


 あの人はいつまでも変わりませんでした!


 私がそれとなく、酔いの覚めたあの人に昨夜の狼藉のことを教えると、しおらしく謝ります。しかしあの人は、いつまでも同じことを繰り返しました。


 私がこんなに優しく、咎め立てず、責めず、親切に接しているというのに、あの人はそれをなんとも思っていないのでしょうか。私はそう思って、さらに激しく、深く、憎しみを強めました。


 しかし、つい昨日、たまたま手に取った本のために、私は気づいたのです。


 その本の中には、なんとも立派な方がいました。その方は多くの人に親切を施したうえ、何の見返りも求めませんでした。恩知らずな振るまいをされても、決して怒らないのです。


 でも何より私が驚いたのは、その方が一度も、「自分は善人である」と言わなかったことでした。思ってもいないようでした。


 私は呆然となり、自分のしてきたことを考えました。私はずいぶん、あの人に親切にし続けていたつもりです。


 私はそうする理由を、ただあの人が気持ち良く過ごせるようにするためと、そう考えていました。


 でも。


 本当にそうだったでしょうか?


 私は友人達によく、あの人に私のする親切と、それでも行いを変えようとしないあの人について話しました。友人は皆、私に同情し、私はとても立派な人だと惜しみなく称賛しました。


 私は―― 


 私は、自分が友人達の称賛するような「立派な人」であることを証明しようとして、親切を振りまいていたのではありませんか?


 私はあの人よりも、ずっとずっと人間として優れているのだということを、そしてそんな私に繰り返し当たり散らすあの人はとてもとても低劣な人間なのだということを、私自身に証明したかったのではありませんか?


 また、私はあの人がどれほどひどいことをしても、それを直接咎めず、ただ親切でもって報いることにしていました。


 その理由は?


 私は、あの人を正当に憎み、怒るための権利を欲したのではありませんでしたか? 


 怒りを向けられたからといって、こちらも怒りで応酬しようとしないことを、世間では立派と言います。


 しかし、私はただ、自分の権利を確保しようとしていただけなのです。


 私が親切と善行とを積んだのは、誰にも恥じることのない大義名分を得て、あの人を思う存分に攻撃したかったから。


 “善人”なる圧倒的強者の立場に身を置き、その安全圏からあの人のことをたっぷり誹りたいと思っていたからなのです!


 私が自分で優しさだと思っていたもの、良心だと信じていたもの、慈悲だと自負していたものは、すべて、次のごとき「見返り」を求めてのものでした。


 相手に恩を売って「私を攻撃するな」と脅迫するため。


 いざ自分が害を受けた時、堂々と反撃できる“保険”をかけるため。

 

 自分と同じような「善行」をしない人びとを見下し軽蔑するため。


 “無辜”という称号を勝ち得るため。


 自分は“良い人”だと自覚し自画自賛し満足するため。


 ああ、なんとおぞましいのでしょう! このような見返りを得ることを下心に、人に親切を施し、善行を積むとは! 


 私自身は、自分が良いことをしていると思いこんでいたことが、なおおぞましい! 悪人のほうが、自分の悪行を自覚している以上、どれほどましでしょうか!


 世の中で、自分が正しいと信じ切り、悦に入る人びとほど始末に負えない者はいません。善人よ、正義よ、恥を知るがいい!


 そして私も、そうした人びとの一人なのでした。


 つまらない話を聞いてくれて、どうもありがとうございました。私は家に帰ります。あの人が待つ家へ。


 私は、相変わらずあの人に親切にするでしょう。優しく話しかけ、笑顔を見せるでしょう。


 でも、私はもう、見返りを求めません。あの人にも何も期待しません。私はただ、怒りや憎しみを、もう心に抱きたくないだけです。


 あの人が変わることは死ぬまでないでしょう。そうと決まっている以上、それについて思い悩むことは、ただ私にとって有害なばかりです。


 私は、本で読んだあの方を見習おうと思います。いえ、見習いたいのです。私はもう自分が良い人だとも善人だとも思いません。でもせめて、あの方の何十分かの一でも、善を育めればと思うのです。


 今は、それが私の救いです。


 

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