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ヴァクトル  作者: 皐月/やしろみよと
6章 再びここへ帰る

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73話 兄妹

 この戦いは苛烈を極めていた。ヘリアン・ウルル陥落から1ヶ月、スタルシアの王都防衛線に配置されたエリオットはいつ死ぬか分からない不安に怯えながら懸命に命を燃やしていた。

 目の前を死が通る。つい先ほどまで共に戦場を駆けていた仲間が赤い血を噴き出しながら血っていく。エリオットはこの地獄から目を背けることは決してできなかった。


「どうしてこんなことに…」


 エリオットは自身の過去を振り返ってみても今自分が戦場にいる理由を探し出すことができない。人を殺すことに理由が必要なのだろうかとエリオットは頭を必死に働かせる。考える傍らでエリオットは銃を構える。引き金を引いた。そしてエリオットは気づいた。


「理由なんてないのか」


エリオットがその答えにたどり着いたのと敵に弾が着弾するのが同時だった。理由など最初から必要なかったのだ。今はただ目の前の敵を殺すだけだ。それ以上は何も要らなかった。

 エリオットは理由などないと認めてしまうと身体が軽くなる。頭はもはや真っ白で何も考えることができなかった。


「ッハッハ」


エリオットは自分でも何を口走っているのか分からない。もはやエリオットは正常な精神状態ではなかった。開戦当初は妹を守るために自分は戦うのだと思っていた。しかし、いざ戦場に出るとその考えはすぐに消え去った。

エリオットを支配したのは恐怖だ。死が目の前で繰り広げられる戦場という地獄で死への恐怖だけがエリオットを走らせた。死にたくない、その一心でエリオットは敵に銃を向け撃つことができた。

最初の銃を撃てなかった頃と比べるともう別人だった。銃を撃っても全く当たらなかったのに今ではエリオットの弾は敵の身体をしっかりと撃ち抜いていた。死への恐怖はエリオットを兵士へと作り替えた。


「死ね」


エリオットは地面で転がっている敵を見て銃身でその頭を殴打した。弾を身体に受けた敵は動くこともできずにうずくまっていたのだ。

その敵を見てエリオットは迷うことなく頭を殴った。その残虐な行動は敵が完全に死んでおらず、自分の存在を脅かすかもしれないという不安から来たものだった。エリオットは目の前の存在が死体でないと安心できないのだった。

 エリオットは敵を殺すのに何度も頭を銃で殴りつける。エリオットは非力なため一度では殺しきれなかった。しかしそうしている間にも次の敵が来る。敵の弾が飛んでくる。

 エリオットは敵に気づくことができずに敵から死体へと姿を変えるために必死に殴りつけていた。エリオットが気づいたときには敵は刃をエリオットに向けていた。


「避けられない」


エリオットが避けられないと感じたその瞬間に敵の首がことり、と地面に転がった。包帯を顔に巻いた味方が首を切ったのだ。


「また、助けられた」


包帯を巻いていることから味方の兵に“包帯”と呼ばれているその兵は一人で何十人もの敵を短刀で切り殺していく。その手さばきは鮮やかで戦場に咲く花のようだった。

エリオットも負けないようにと銃を敵に向ける、しかし撃つべき敵は包帯が全て切り殺していた。


「すごい」


 敵の波が止んだ。塹壕に身を潜めエリオットたちにひと時の休息が訪れたのだ。


「はぁ、はぁ」


 エリオットは今まで息もまともに吸えていなかったのだと気づいた。深呼吸をして落ち着きを取り戻したエリオットは改めて周りを見渡した。敵と味方の死体が広がっている。

 仲間の死体をエリオットが引き上げる。死体の身体は腹を切り裂かれ内蔵が飛び出ていた。顔は苦痛の表情に歪んでいた。


「ひどい」


エリオットは戦場の高揚感によって辛い現実から目を背けていた。恐怖心から敵を殺し、いつしか敵を殺すことが快感になっていた。


「うううぅ」


エリオットの目から涙が溢れてきた。今まで蓋していた心の栓が取れたように止めどなく涙は溢れていく。


「どうかしたのか」


その様子を見た一人の兵が声を掛けてきた。包帯だった。


「いぇ、何でもありません」


 エリオットは涙声のまま包帯に返答した。


「無理をするな」


「え」


 包帯は無口なことで有名だった。そのため声を掛けてきたことも珍しいのだが、エリオットは自分の顔と泣き声がよほど不快だったため声を掛けてきたのだと思った。しかし、それ以上に声を掛けてくることが不思議でならなかった。しかも人を気遣うような言葉を出したことが不思議でならなかった。


「お前は戦場には向いていない。この場は私がなんとかするからお前は休んでいろ」


 エリオットはその言葉に黙ってしまった。確かに包帯の言う通りエリオットは自分でも兵士が合ってないことは分かっていた。


「自分が兵士に向いていないことなんて自分が一番良く分かっています。ですが、それはできません」


「何故だ?」


包帯は臆することなく冷静に尋ねた。


「妹が、妹がいるんです。僕はそのことを忘れていました。違いますね、忘れようとしていました。けれどあなたの言葉で思い出したんです。僕が闘うのは妹を守るためだと」


包帯を巻いているせいでエリオットの話し相手の表情は読めなかった。


「そんなに妹が大切なのか」


「はい。僕にとってただ一人の家族なんです」


「そうか」


包帯は何か思うことがあったのか黙り込んだ。そして間があったあと包帯が声をかけた。


「それなら生きて帰らねばならないな」


「はい」


エリオットの目には生気が宿っていた。


「実は私にも家族がいてな」


「ご兄弟ですか」


「そうだ。兄がいる。とても愛しい兄だ。愛している」


唐突の愛してる発言には面食らったもののエリオットは話を続ける。


「そうだったんですね。そしたらあなたも生きて帰らないといけませんね」


「そうだな」


包帯が少し笑ったようにエリオットは思った。


「ところで敵は来ませんね。何かあったのでしょうか」


「それは、分からんな」


「次の指令が出るまで待機ですよね。もうこのまま敵が来なければいいのに」


「そんなことは…。いや、そうだな」


「ええ、本当に」


エリオットは会話がずっと続けばいいと思っていた。しかしこの時を後悔することになる。敵が来ないことに疑問を抱くべきだったのだ。

エリオットの耳にものすごい轟音が響く。鼓膜が破れるほどの爆音だった。


「この音はなに!」


「様子を見てくる。お前はここで待て」


そういうと包帯は前に出て行った。


「待って!」


「大丈夫だ。お前はここにいろ」


エリオットの引き留める声を聞かずに包帯はエリオットから離れて行く。次の瞬間エリオットは包帯に突き飛ばされた。


「伏せろ!」


エリオットの目は閃光に焼かれた。


「うわあああああ」


何が起きたかすら分からずあまりの痛みと熱さでエリオットはのたうち回った。


「痛いぃぃ!」


 目が痛い、足が痛い、腕が痛い、頭が痛い、全身の部位という部位が痛い。エリオットは感じたことの無い痛みで何もできない。


「あああああ」


閃光がエリオットを襲ってからまだ5分と経っていなかった。エリオットの痛みは全く引かなかった。しかし、エリオットの意識はしっかりと認識し始めた。


「そ、そんな」


エリオットの目の前に広がっていたのは仲間の死体だった。その中には包帯のものもあった。

焼け焦げた包帯を見るに顔はもはや見ることができないだろう。しかし、エリオットが一番驚いたのは包帯の右手だった。それは見覚えがあるなんて程度のものではなかった。


「この腕はまさか」


包帯の右手は義手だった。しかもただの義手ではない。エリオットが作ったものだった。


「噓だ…」


エリオットは義手を一度しか作ったことがない。そしてその義手を持っているのは一人だけだ。そうクラレットだけなのだ。


「噓だぁあ!」


エリオットは包帯に駆け寄った。そして顔の包帯を剥ぐ。しかし、その顔は爛れてクラレットの面影を見つけることが出来なかった。

顔を見ることができなくても包帯の右手の義手がこの人物がクラレットだという現実を突き付けていた。そうしているうちにクラレットはみるみる血で赤く染まっていた。


「血が」


クラレットの身体を見ると頭から血が流れていた。しかしその血の量はクラレットの身体を赤く染め上げるのには不十分な量だった。


「この血はどこから」


そう考えて手をクラレットに伸ばしたときだった。エリオットは自分の左腕がないことに気が付いた。


「腕が、腕がなぃ!」


エリオットは腕がないという実感と腕から止めどなく血が噴き出していることに耐えられなくなり戦場だということも構わず大声を喚き散らす。


「うああああ」


 その声をかき消すように別の声が聞こえた。それは敵兵の雄たけびだった。エリオットは腕から血が流れるのを見ながら考えた。この状況で敵が攻めてきた。おそらく敵は兵を引き爆撃し、こちらの軍が混乱に陥っているところを一気に叩く作戦だったのだ。

 エリオットは自分がもはや助からないことが分かっていた。エリオットはクラレットの義手を残った手で拾い上げた。


「うおおおお!」


エリオットは敵に向かって一直線で走り出した。敵の弾がエリオットの横腹を貫く。


「うっ」


それでもエリオットが止まることはなかった。エリオットは敵の波に向かって突っ込んだ。


「うわあああああ!」


エリオットは義手を握りしめた。クラレットの義手には自爆装置が付いていた。エリオットは敵のど真ん中で爆発させた。

今、エリオットは恐怖から解放されていた。エリオットを支配していた恐怖はもう無い。エリオットにあるのはただ、クラレットと同じところへ行けるという安堵だけだった。


「兄さん、そんな顔してどうしたんですか?」


エリオットの目の前にクラレットがいた。


「クラ、こんな情けない兄でごめん」


これは死を迎えるエリオットの脳が生み出した幻影だ。


「そんなことないよ。兄さんは私にとっての誇りだったよ」


「ありがとう」


「ありがとうを言うのは私のほう。エリオット兄さん本当にありがとう。私は今まで幸せだったよ」


エリオットの目から温かい涙が溢れだす。


「私は先にいって待ってるからね」


クラレットはエリオットの手を優しく握った。


「うん。僕もすぐ逝くよ」


戦場でクラレットの義手が閃光を放つ。スタルシアの王都に激しい轟音が響いた。





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