71話 地獄の華
風が激しく吹き荒れ、砂埃が空中を舞い踊る。カイザンヌが率いる敵が侵攻を開始した昼過ぎ、ハングラワーウルク国の最前線で戦う若き青年グェンは、胸に緊張と希望が入り混じったまま、カイザンヌの軍勢に立ち向かっていた。
グェンの目には決意が宿り、手には銃という死の道具が握られていた。敵国は悪名高きカイザンヌによって支配されていた。その統治は残酷で非情でありグェンたち列強の人々は恐怖に怯えていた。
「これが終われば、きっと…」
グェンは、この戦争がカイザンヌの支配から人々を解放し、平和をもたらすための闘いであると信じていた。 しかし、戦場はグェンに現実を教えてくれた。銃声がすぐ近くで鳴っている。敵の銃弾が飛び交い、地面に仲間の兵士たちが倒れていく。先ほどまで生きていた彼らが捨てられた人形のように地に横たわっていた。
「くそっ」
グェンには特別な能力や技量があるわけではなかった。無力なグェンはただただ仲間が倒れていく様子をただただ見ることしかできない。グェンは自分の情けなさに打ちひしがれた。
仲間を救うことのできない恥ずかしさがグェンを支配していくと同時にグェンの心の恐怖は膨れ上がっていた。味方の兵が地に伏す度に次は自分かもしれないという思いがグェンの頭から離れない。
グェンの目の前でまた一人、戦友が倒れる。戦友の顔は血と涙でぐちゃぐちゃになっていた。グェンの脳裏に上官の言葉がどこからか響いてくる。
「お前たちがこの戦争を勝ち抜くためには、弱さを捨てる必要があるんだよ。憐れみや情けは敵じゃないか?」
グェンのすぐ横でまた銃声がしたが上官の言葉が頭から離れない。グェンは違う、と独り言をつぶやく。
「それらを抱えたままでは、生き残れるはずもない! いいか、敵は人間じゃない」
人間じゃないか。グェンは心の中でここにはいない上官に異を唱える。
「なんせ敵はカイザンヌに操られている操り人形だ。奴らは人のように動くだけで所詮は人形なのだ。情など捨てろ!」
上官の言葉は無慈悲にして冷酷だった。上官は敵を人として扱っては生き残ることができないという戦場の厳しさを教えるつもりだったのかもしれないが、その言葉はグェンの心に今も深く刺さったままだ。
でも、とグェンは思う。敵を人形と思わなければ生き残れない、それでもグェンは情を捨てることなどできない。それを捨てるということは人としての大切なものを失うようにグェンには思えた。
グェンは戦場を駆けていく。しかしグェンの心は戦場ではなく上官の言葉を聞いたあの日にあった。上官のありがたい言葉を聞いた味方の兵の顔がどうしてもグェンの心から消えない。
背の高い穏やかな顔つきの彼は上官の言葉を聞くまでカイザンヌや敵兵や死ぬことに恐怖していた心の優しいやつだった。そんな人物が上官の言葉を聞き終えると、気持ちの悪い笑みを浮かべて小刻みに頭を縦に揺らしていた。まるで無理やり上官の考えを心に刻み込んでいるかのようだった。その味方の兵はその日から容赦なく敵を殺し、殺し、殺していった。
そこにはかつての彼の面影は全くなかった。加えて彼は以前のように恐怖することもなかった。薄ら笑い笑みを浮かべて敵へ突撃していく彼を見てグェンは何もできなかった。そして彼は死んだ。頭の中の上官がグェンにささやく。
「お前も情など捨てて目の前の敵を一人でも多く殺せ。死んだ味方など忘れろ。現に私の考えで救われている兵だっているんだぞ。先の背の高いやつだって私が恐怖から救ってやったじゃないか」
上官に返す言葉が見つからなかった。グェンはこれでもかというほど戦争の悲劇を目の当たりにしてきた。無慈悲な戦いは何も生まないことを理解していた。
心の中で上官の顔には冷徹な笑みが浮かぶ。
「お前はまだ若い。戦場の真実を知らない。悲しみと犠牲がつきものだ。だからこそ、それを忘れてはいけない。お前の心が軟弱になることが許されるのは戦場で死んだ時だけだ」
グェンは黙ったままで、言葉に詰まっていた。上官の言葉はグェンに葛藤の種を植え付けるものであった。
その後も、上官の無慈悲な命令がグェンの心に残る。戦場でグェンは数々の厳しい決断を強いられた。無慈悲に敵を排除することが戦場で生き残るための唯一の道だと教えられているかのようだった。
しかし、グェンの心の中でその真理に対して疑問が生じる。
「本当にこれが正しい道なのか?」
グェンは内なる声に問いかける。グェンは敵と向き合うことになった。その敵は彼と同じく若い青年であり、恐らくは家族や夢を持つ普通の人間だったのだろう。
だが、戦場では彼はただの敵だった。グェンの指が銃の引き金に触れる瞬間、グェンは上官の言葉を思い出す。
「あれはただの人形だ。さぁ撃て」
上官の声が止まることはない。だが、同時にグェンは心の中で別の声を感じた。
「戦争にはもっと違った解決策があるはずだ」
それはグェンの内なる声だった。戦場で瞬間が永遠のように感じられる中、グェンは最終的に引き金を引くことを止めた。彼らの命はただの数字ではなく、家族や夢を持つ人々の一部だったのだと気づいた。グェンは敵と向き合い、戦闘を回避する方法を探ろうと決意した。
グェンの心に新たな光が灯った。無慈悲な戦いを選ばずに和解や平和を求める道があるような気がした。グェンは戦場での闘争だけでなく平和への努力と人々の絆を取り戻すことを誓う。グェンは戦いを続けながら優しさと希望を持って戦場での日々を過ごしていくことを決めた。
その瞬間、グェンが先ほどまで撃とうとしていた青年が倒れる。
「え…」
味方が青年を撃ったのだ。グェンに宿った光は一瞬のうちに消え去った。自分が殺さなくても誰かが殺すのだ。この戦場という地獄に救いはないのだとグェンは知った。グェンの決意など無慈悲な戦場では何の意味もなかった。
グェンは自分が無力な人間だということを改めて思い知った。自分には戦争を止めるなんてできるわけがない。できるのはただ目の前の敵を殺すことだけだ。グェンは引き金を引いた。心の中の上官は上機嫌だった。
「怯むな! 進め!」
仲間の兵士が叫びながら前進する。彼らは勇敢で意気揚々としているが、戦場はその雄姿を一瞬で奪い去る。激しい砲撃が行われ、友と敵の区別がつかないような混乱が広がる。
グェンは息を殺し、銃を構える。これが俺の戦い。グェンは自らに言い聞かせる。
戦争は簡単に終わらない。何よりも多くの犠牲が必要だった。 グェンは何度も銃を撃ち、敵を倒す。しかし、自分自身も何度も命の危険に晒される。
戦争の悲劇は、グェンの心を確実に壊していく。上官が心に現れたのもそのせいかも知れなかった。
「そうだ。俺はとっくに壊れていたんじゃないか」
気づいたら心が晴れやかになった気がした。心の中の上官も頷いている。自分が壊れていることを認めたとたんに引き金が軽くなった。もはや引き金を引くことに躊躇などなかった。
この戦争が終わった日、自分は一体何を見つけるのだろうか。それは戦争によって傷ついた世界の復興のための希望なのか、それとも自らの心の闇に呑まれてしまうのか。考えることすら億劫になりグェンは引き金を引いた。
戦闘は初期に比べると明らかに激化していった。その原因の一環にテロがあった。
敵は小型魔結晶爆弾を開発し大陸各国にそれを放った。爆弾は小さなものだがその威力は絶大だった。罪なき人たちが死んでいった。兵たちは復讐の炎に燃え学徒出陣までもがなされた。戦闘は激しく過酷になっていく。
また上官の声が頭に響く。
「壊せ、もっと人形を壊せ!」
銃声がした。すると頭の中の上官の声が急に聞こえなくなった。心が澄み渡っている感じがした。やっと解放されたのか、とグェンは安堵した。グェンは死んだ。
ここにまた一人戦場を走る青年がいた。走っている男の名はエリオット・マクダウェルと言った。
いつものようにエリオットがヘリアン・ウルルで働いていたときそれは急に訪れた。徴兵令だ。エリオットは命令に従い従軍した。
「兄さん、本当に行くんですか! 兄さんが戦争で兵として戦うなんて絶対に合ってませんよ! すぐに死ぬだけです! トゥサイさんを頼ってなんとかしてもらいましょう!」
妹のクラレットはエリオットに猛反対した。クラレットの言うことはもっともだった。エリオットは自分でも戦争をするなんて似合っていないなと思った。
「クラ、気持ちは嬉しいけどそれはだめだよ。トゥサイさんだって今も戦っているはずだ。僕と同じくらいの年齢の人たちだってね」
クラレットは悲しみに顔を染めていく。その様子を見ていながらもエリオットは話すのをやめない。
「それに学徒出陣もされるって聞いた。それなのに僕だけが戦いに出ないわけにはいかないよ。クラもそれくらいは分かるだろ」
クラレットは悲しみを隠すことなくエリオットに抱き着いた。エリオットも優しく抱きしめ返す。
エリオットは分かっていた。自分のような兵は戦場で真っ先に死ぬだろう。それでも目の前の妹を守ることに繋がるなら戦いに行かなければならないと思った。例え自分が死ぬことになったとしても。
「ありがとうクラレット。僕は行くよ」
エリオットはクラレットの頭を二回ほど撫でたあと抱きしめていた手を解く。
「兄さん死なないで…」
エリオットは何と答えようか少し戸惑った。
「うん。死なない」
それだけ返すのがエリオットの精一杯だった。
エリオットはスタルシア国王都防衛戦線に配置された。ここが落とされるわけにいかないことくらいは生粋の軍人ではないエリオットにも分かることだった。
エリオットは銃を構える。しかし、その手が自分でも震えているのが分かる。エリオットは戦場に立ってなお人を殺すことができないでいた。
それはエリオットの技術的側面もあった。射撃訓練ではまったく的に当たらず担当官から相当に怒鳴られた。挙句にはお前は手榴弾でも持って敵に突っ込めと言われる始末だった。
このまま敵を殺せず何もせずに死ぬくらいならとエリオットは自作した爆弾を腰に巻いていた。クラレットに知られたらなんて言われるか分かったものではなかった。
しかし、その爆弾を使う機会はまだ訪れなかった。何故ならエリオットたちが配置された王都防衛戦線には敵を物凄いスピードで屠っていく味方の兵がいたからだ。
エリオットの近くの敵が一人また一人と倒れていく。一瞬で死体に変わっていく。
「す、すごい」
エリオットはその光景をただただ銃を握りしめて見つめることしかできなかった。
エリオットが見つめている獅子奮迅の活躍の兵は仲間内から“包帯”と呼ばれていた。その由来は簡単でその兵士が顔に包帯を巻いているからだった。
包帯を巻いている理由について様々な噂が飛び交った。顔をやけどしているからだとか、純粋に怪我をしているのだろうという真っ当なものもあれば、実は敵から逃亡してきた兵で包帯を巻くのは顔が割れたくないからだという荒唐無稽なものまで雑多に噂は流れた。
しかし、包帯が他の兵と全く関わろうとせず、話しかけても無視するという性格だったため包帯の謎は解けないままだった。
包帯の戦い方は至ってシンプルだった。死体を盾に敵に接近し短刀で切りつける。そして殺した死体を盾に敵を切り裂いていく。それだけだ。その単純すぎる動作に敵が倒れていく。
包帯は他の兵士より背が低い。その分俊敏に動き敵が照準を合わせる前に敵の命を奪っていった。誰が敵で誰が味方なのか、倒れているのが生きた人間なのか死体なのかすぐに分からない混沌とした戦場では包帯の動きを捕えるのは至難の業だ。
一度エリオットは包帯に助けられていた。目の前に敵が来ていることに気づかず敵の刃の光が鼻先をかすめた。自分はここで死ぬのだとエリオットは悟った。死ぬ前に妹の顔だけ見たかったと思っていたその時だった。包帯が敵の首を撥ね飛ばした。
首が繋がっていた部分から赤い鮮血が噴水のように噴き出す。包帯が顔に巻いているものが血に赤く染まっていた。
気づけばエリオットの服も敵の血で赤く染まった。服が染まる赤黒い血が自分のものだったかもしれないと思うとぞっとした。と同時に命を助けてくれた包帯が神のように思えた。
「あ、ありがとうございます」
エリオットは包帯に命を救われて初めて話しかけた。
「死なないで」
すると包帯はそれだけ言うと次の敵を殺しに行った。その声はエリオットには男の声というより女性の、女神が発していたように思えた。
それからエリオットは包帯について行くように足を走らせた。それは包帯の近くにいれば自分の代わりに敵を殺してくれるからなのか、それともこの戦場で暴れ回る包帯と一緒にいれば死なずにすむかもしれないからか、息を切らして走っているエリオット自身にも分からなかった。
ただ、時おり包帯が自分に目線を送っているような気がしていた。もしかしたらまだ敵を一人も倒せていないエリオットに失望しているのかもしれなかった。それでもエリオットは包帯の近くを離れることはできなかった。
機械のように淡々と敵を殺していく。エリオットはそんな包帯と積み上がる死体の山を見ながら、自分がこれほどの活躍ができたらきっとクラレットも安心してくれるかもしれないのにと思う。
けれどエリオットには敵を殺す道具を持っていてもそれを使う技量がない。エリオットは見惚れるようにその洗練された動きを目で追うことしかできない。戦場でエリオットは無力だった。
「クラ、僕頑張るから」
ここにはいない妹のことを思いながら銃口を敵に向け引き金を引いた。
エリオットはまだ知らない。目の前の包帯が妹のクラレットであるということを。




