69話 心の霧
ヘリアンカは下を向いたまま黙って歩みを進めていた。その隣には同じく黙って歩いている。トゥサイはちらと横目にヘリアンカの表情を確かめる。
ヘリアンカとトゥサイはカフラスに呼ばれ宮殿まで訪れ、カフラスから過去の出来事とヘリアンカが復活した意義を聞いた。しかし、それを聞いたヘリアンカの顔には影が落ちていた。
数分前に聞いたばかりのカフラスの話がヘリアンカの頭の中にこびり付いて離れない。
「カイザンヌは私が生み出したようなもの…。それは分かっているのですが」
ヘリアンカは自分でも気づかないうちに心の声を漏らす。ヘリアンカの声が聞こえたのかトゥサイは一瞬だけ目線のみをヘリアンカへと向けたが何も言わずに黙って歩みを進めた。
トゥサイたちの前を先導していた衛兵が立ち止まった。
「何かありましたか?」
ヘリアンカは衛兵が立ち止まった理由が分からず困惑した顔で衛兵に尋ねた。トゥサイはそのヘリアンカの反応を見て眉をひそめた。
「いえ、あのここでカフラス様の敷地を抜けますので私どもはここまででございます」
「え?」
ヘリアンカが周囲を見渡すと、そこには大きなアーチがあった。それはカフラスの宮殿へと入るときに潜ったものであった。カフラスの敷地の入口を示すその巨大なアーチが目に入らないほどにヘリアンカは下を向いてカイザンヌのことを考えていたのだった。
「あ、そうみたいですね。ここまでご案内していただきありがとうございました」
ヘリアンカが衛兵に告げるがその様子は心ここにあらずという様子であった。
「あの、ヘリアンカ様。大丈夫ですか、どこかお身体でも…」
衛兵はさすがにヘリアンカの様子がおかしいと感じたのかヘリアンカを気遣う言葉をかける。しかし、そんな衛兵の態度にも関わらずヘリアンカは急に警戒を表したように衛兵から一歩下がる。
「どうして私のことを知っているのですか!」
ヘリアンカの態度の豹変ぶりに衛兵はたじろいだ。トゥサイは冷静に衛兵を観察している。
「ヘリアンカ様! 急にどうなされたのですか!」
「え、だってあなたは私の正体を知っていて…」
ヘリアンカはそう言いながら自分の発言のおかしさ具合を自覚する。そもそもこの衛兵はカフラスの宮殿の敷地に入ったときから案内してくれていた者だ。敷地に入る際にボディーチェックまでしたほどである。
そのためこのフルの身体に宿っているヘリアンカのことは当然知っている。だというのにヘリアンカは目の前の自分の身分を知っている衛兵を身分がばれているから敵だと勘違いしたのだ。
そもそも敵であるならば隣にいるトゥサイが何かしら行動しているはずだ。トゥサイが何も行動していない以上目の前の衛兵が敵であるはずがない。
「すみません…」
ヘリアンカは力なく謝る。先ほどから頭を離れないカイザンヌの存在のせいでヘリアンカは普段の調子をすっかり無くしていた。
「いえ、謝らないでください! 私は全く気にしていませんので!」
衛兵はすぐに大きな声で即答した。しかし、その声ですらヘリアンカの心までは響かず、ヘリアンカの心を悩ませるものを取り除くことはなかった。
ヘリアンカはすっかり気落ちして衛兵に感謝を小さく述べるとゆっくりと力ない足取りで進みだした。
「ご苦労だった」
トゥサイも衛兵に労いの言葉をかけたあとゆっくりと歩くヘリアンカの後を追った。
「トゥサイ、帰りは車を呼ぶことにして来るまで少し話ませんか」
ヘリアンカは後ろから同じペースで歩くトゥサイへ振り返って呟いた。
「ヘリアンカ様、帰りの車なら既に待機させています」
トゥサイはそう言って目の前の車を指さす。ヘリアンカはアーチに続きまたしても周囲が見えていなかった。目の前にあるのに気づかずに馬鹿なことを言った恥ずかしさといつまでもカイザンヌのことが頭から離れない情けなさでヘリアンカは口を噤んだ。
「話なら車の中で聞きますよ」
トゥサイはヘリアンカの様子を見て話をしなければならないと感じた。まずトゥサイは車の扉を開けヘリアンカを中へと促す。
「ヘリアンカ様、まずは車へお入りください」
ヘリアンカはトゥサイの言葉に小さく頷くのみで言葉を返さずに静かに車の中へと入る。トゥサイはヘリアンカが車の中へ入ったのを確認すると自分は運転席へと座りハンドルを握った。
トゥサイが運転する車は速すぎることなく、しかし遅すぎるということもなく適切な速度を保って車を走らせていた。既に車に乗って数分は経っていたがヘリアンカが口を開けることは無かった。
このままではいけないと思ったトゥサイはヘリアンカへと話かけた。
「ヘリアンカ様、言いたいことがなければ何も言わなくても構いません。けれどもし何か話したいことがあるのならいつでも話は聞きますから」
ヘリアンカはトゥサイの言葉に反応して運転席でアクセルを踏んでいるトゥサイに視線を向けるが、その視線はトゥサイの背中へと向けられているためトゥサイと目が合うことはなかった。
ヘリアンカはトゥサイの背中に視線を送っただけで口を開くことはなかった。トゥサイがヘリアンカへと言葉をかけたが、ヘリアンカが口を閉ざしたままであることをトゥサイは一切咎めることはなかった。ヘリアンカが自発的に口を開くのをトゥサイは待つことにした。
車は二人を乗せたまま静かに道を走っていた。
「あの、今更なのですが私たちはどこへ向かっているのでしょうか」
車が出発してから一時間ほどが経とうとしていたときヘリアンカが急に口を開いた。
「ヘリアン・ウルルのウルク拠点へ向かっています」
トゥサイは今までのヘリアンカの態度を気にすることなくヘリアンカからの問いに答える。
「そうですか」
ヘリアンカは一言返事をすると再び口を閉ざしてしまった。トゥサイもそれ以上何も言うことはなかった。
もうヘリアンカが話すことはないかもしれないとトゥサイが思っていたときだった。ヘリアンカはいきなりトゥサイに話しかけた。
「あの、トゥサイは先ほどからの私の態度が気にならないのですか」
「気にならないと言えば噓になります」
「やはりそうですよね…」
ヘリアンカは自分から聞いたことであるにも関わらずショックを受けている様子で下を俯いた。
「けれど」
トゥサイは運転しているため俯いているヘリアンカが目に映ることはない。そのためヘリアンカの態度をよそに話を続ける。
「けれど俺はそれでもいいと思います」
トゥサイから予想外の言葉が出てヘリアンカは驚く。
「どういうことですか?」
「ヘリアンカ様はきっとカイザンヌのことで悩んでいるのでしょう」
「なぜそれを知っているんですか!」
トゥサイに自分の心を見透かされているような気がしてヘリアンカは恥ずかしくなる。
「そんなことくらい顔を見ていれば分かりますよ」
ヘリアンカは自分の悩みがトゥサイに筒抜けだったことを知って顔から火が出そうなほどだった。そんな顔を真っ赤にしているヘリアンカに構わずトゥサイは続ける。
「俺が言いたいのは悩むことは悪いことではないということです」
「悩むのは悪いことではない、んですか…」
「ええ。そうです。悩むことは次へ進むために必要なことだと俺は思います」
トゥサイはヘリアンカを責める様子など微塵もないようだった。
「人は進むときに必ず悩みが付くものです。それを乗り越えたときこそ成長に繋がるんです。だから、精一杯悩んでいいんですよ。何なら俺にその悩みを打ち明けてくれても構いません」
ヘリアンカは静かにトゥサイの話を聞いていた。
「悩みを聞くくらいなら俺でもできるので」
トゥサイの話し方には優しさがにじみ出ているようにヘリアンカは感じていた。今のトゥサイになら打ち明けることができるとヘリアンカは強く感じた。
「あの、聞いてほしいことがあります」
ヘリアンカは今にも消え入りそうな弱弱しい声でトゥサイに話しかける。
「ええ。何なりと」
「では、僭越ながら…」
ヘリアンカはゆっくりと語り始めた。
「世界平和のためにはカイザンヌを殺すしか道はないのでしょうか」
トゥサイはまだ口を挟まず黙ってハンドルを握っている。
「確かにカイザンヌは悪です。まぎれもない悪だということは私にもわかります。そしてカイザンヌがいる限り平和が訪れることがないということも理解しています」
「その通りです。カイザンヌは倒さなけばなりません」
「そうは言ってもカイザンヌを必ず殺さなければならないのでしょうか」
「ヘリアンカ様はカイザンヌを憐れんでおられるのですか?」
ヘリアンカは首を横に振る。
「いいえ。決してカイザンヌを憐れんでいるわけではありません。カイザンヌにどのような過去や経緯があったとしてもあの男は地獄に落ちるべき男です」
「それがお分かりになっているなら何を迷うことがあるのですか」
ヘリアンカは一呼吸置くとゆっくりと口を開けた。
「私たちは平和のために行動するのですよね」
「当然です」
トゥサイは何を分かり切っていることを、といった調子で答える。
「では平和のためならば人を殺しても良いのですか? 人を殺すという平和と最もかけ離れている行為をしても許されるのですか?」
トゥサイはヘリアンカの言葉を聞いて咄嗟に反論できなかった。トゥサイは今まで諜報活動としてその手を何度も汚してきた。そんなトゥサイがヘリアンカが言うことを否定する資格はないように思えた。
「しかし、カイザンヌを野放しにしていれば大きな犠牲者が出ます」
何とか返答したトゥサイだったがそれにヘリアンカが声を大にして返す。
「誰も野放しにするとは言っていません。殺さなくとも無期懲役ではいけないのですか?」
「それは…」
カイザンヌを殺す以外の考えが無かったトゥサイはまたしてもヘリアンカの問いに即答することができない。トゥサイは自分がカイザンヌを殺そうとしているのは平和のためだけではないのかもしれないと思った。
世界平和のためという口実でトゥサイ自身がカイザンヌを殺すことを正当化しているのではないか。トゥサイは世界を混乱に陥れようとし大勢の死者を出しているカイザンヌに対する怒りでカイザンヌを殺したいと思っているのではないか。世界平和のための手段であったカイザンヌの抹殺はいつしかカイザンヌを殺すこと自体が目的にすり替わっていたのではないか。
カイザンヌがしていた行動を思い出す度にトゥサイはその怒りで全身を震わせていた毎日だった。それを思うとトゥサイの中でカイザンヌ殺害が目的になっていた可能性は十分にあった。
それでもトゥサイは思う。この行動がトゥサイの私怨から来るものであったとしても純粋に世界平和を願う気持ちでなかったとしても、やはりカイザンヌを生かしておくわけにはいかないのだと。
トゥサイは車を停める。車はウルクにあるヘリアン・ウルルの拠点に着いた。
「ヘリアンカ様、やはりカイザンヌを生かすことはできません」
トゥサイは振り返って後部座席にいるヘリアンカの目を見て言った。
「どうしてですか」
「死んでいった者たちのために同じ目に合わせてやるんです。目には目を歯には歯をですよ」
「それは…」
トゥサイの口から出た言葉に何と返答すれば良いのかヘリアンカが考えているとトゥサイが先に話しだした。
「なんてね」
ヘリアンカはそのままトゥサイの話の続きを待つ。
「そんな風に個人的な感情が理由です、と言えれば楽なのでしょうがね。そんな理由ではヘリアンカ様は納得しないのでしょう」
「ええ」
トゥサイは顔を引き締める。
「理由は二つあります。一つは見せしめです。カイザンヌは自分の思想を広め現時点も信者を着実に増やしています。カイザンヌを捕えたとしてもその信者の中から次なるカイザンヌが現れないとも限りません。カイザンヌを処刑し世界を混乱に陥れようとした者がどうなるかを見せつければ次なるカイザンヌの出現を抑制することはできると考えます」
「なるほど」
ヘリアンカはトゥサイの話に口を挟むことなく聞いていた。
「もう一つの理由はなんですか」
「もう一つは単純に世界平和のためです」
「世界平和」
「そうです。仮にカイザンヌを殺さずに捕えたとしましょう。しかし、カイザンヌが死んでおらず捕えられただけだと信者たちが知ったらどうなると思いますか?」
「信者がカイザンヌを取り戻すため暴動が発生する」
「その通りです。その可能性が高い。そのようなことが予測できていたとしても完全に抑えることができるかは分かりません。もしカイザンヌに逃げられるようなことがあれば、それこそ戦争の嚆矢となるでしょう。それを防ぐためにもカイザンヌを殺す必要があります」
ヘリアンカはトゥサイの話を聞き終わると黙って上を見る。
「分かりました。というより本当は私も分かってはいたんです。カイザンヌを殺すしかない。平和のために人を殺す、そんな矛盾した行為が必要な世の中であるということも。でも心のどこかで割り切れない思いがあって、それがきっと靄のように纏わりついていたんだと思います」
「ヘリアンカ様」
トゥサイは手でトゥサイの目線が重なる位置にヘリアンカの顔を動かした。
「俺の手は既に汚れ切っています。今になって一人分増えたくらいどうってことありません。ヘリアンカ様が直接手を下すことはありません」
「いいえ! それは違います。私は既に一人の少女の命を奪ってしまっています」
そう言ってヘリアンカは自らの手を胸に当てた。
「この手は貴方のものと同じなのです。この両手は既に汚れているのです」
「ヘリアンカ様、しかしフルのことはヘリアンカ様のせいでは…」
「いえ、私の意志が介在していなかったとしてもこれは私の罪です。一人の少女を奪った責任を私も果たさなければなりません」
トゥサイの目をはっきりと見つめるヘリアンカの言葉にはもう迷いはなかった。その目を真っ直ぐに見つめたトゥサイは短く頷く。
「どうやら悩みは晴れたようですね」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「いえ、問題ありません」
ヘリアンカとトゥサイは車を降りると拠点へと足を進めていた。その歩みは力強いものだった。
トゥサイたちが車を走らせているのと同じ頃一人の男の名が広まっていた。しがない商人にすぎなかったその男は弱冠21歳にして石油を掘り当てたことで一気に金持ちの仲間入りを果たした。その男の名は“ラスター・アズキンス”。
「俺様の時代が来たぜぇ!」
ラスターは声高に札束をばら撒くのだった。




