67話 謁見
ヘリアンカは姿見の前で自身の体をゆっくりと眺める。黄緑色の髪をした若い女性の体がそこにはあった。
鏡と対峙しながらヘリアンカは手を開いたり閉じたりする動作を繰り返す。その場で飛んでみたり、しゃがんだり立ったりを何度も行う。この一見すると意味の分からない行動にはヘリアンカだけが理解することができる実感があった。
「もうこれは私そのものなのですね」
今ヘリアンカが動かしている体は本来ヘリアンカのものではない。フルという少女の体だった。しかし、望まぬ形でヘリアンカから体を奪うことになり今に至る。
フルの体はヘリアンカとよく波長が合った。ほとんど生前の体と同じような感覚だった。けれども、はじめは自分のものではないという微かな違和感がヘリアンカにはあった。
しかし、ヘリアンカがフルの体を得て復活してからもう約三カ月経っていた。ヘリアンカには自分のものではない微かな違和感は完全に薄れ、この体で何年も過ごしてきたのではないかと思うほどになっていた。
「ヘリアンカ様! ここにおられましたか!」
へリアンカを呼ぶ声が部屋の外からした。ヘリアンカは今“ヘリアン・ウルル”という組織に加わっていた。
ヘリアンカは今ウルクにいた。ウルクにある“ヘリアン・ウルル”の所有する屋敷で過ごしていた。
ウルクには来ていたがジャルカラたちとは会っていない。これからヘリオスはカイザンヌと対峙するため二人に危険が及ぶと思ったからだった。
組織の者がヘリアンカを呼ぶと。ヘリアンカはええ、と短く返事をすると部屋から出て使いの者と相対する。
「今日のご予定はカフラス陛下との謁見です」
使いの者は端的に述べる。
「ご連絡ありがとうございます。でも大丈夫です。きちんと分かっていますよ」
「はっ。失礼いたしました」
ヘリアンカは使いに優しく言うと朝の食事をとるために食卓へと向かう。食卓にはすでに料理が運ばれていた。先ほどの者が気をきかせて用意しておいてくれたのだろう。
ヘリアンカはありがたくいただくことにする。野菜がたくさん入ったポタージュだった。
ヘリアンカは朝食を食べながらこの三ヶ月間のことについて考える。フルの体が自分の体のようになったこと。フルの体に慣れたというよりは馴染んだというのが正しい。ヘリアンカは嬉しいような寂しいような、またフルに申し訳ないような複雑な感情のままスプーンを口に運ぶ。味はあまり感じられなかった。
複雑なのはヘリアンカの心の中だけではなかった。世界的な情勢もまた複雑化していた。スタルキュラ公国において大きな動きがあったのだ。
その話は昨夜トゥサイから聞かされたものであった。
スタルキュラ国家労働者解放党の党首であるフルド・トイメンが政権を握った。トゥサイは冷静にヘリアンカに告げた。それはまるで至って何もないというようだった。しかし、その言い方がかえって事の重大さを浮き彫りにしていた。
政治と国際情勢は密接にかかわっている。無知な人たちはそのことを分かっていない人たちがいる。
その人たちは国家労働者解放党が政権を握ったから何だと言うかもしれない。しかし、ヘリアンカが所属するヘリアン・ウルルや諸外国は警戒を強めるかたちとなった。
なぜなら、国家労働者解放党が政権はカイザンヌが後ろ盾となって支援している政党なのだ。そんな政党が政権を握ったということは、カイザンヌが握ったのと同じことだった。
党首のフルドはお飾りだ。実際にはカイザンヌの操り人形となっていることだろう。
「そうですか」
ヘリアンカはトゥサイの話を聞いてこれだけのことを言うので精一杯だった。もはや時間は残されていないのだと強く実感する。
「ヘリアンカ様、そこで皇帝陛下から貴方にお呼びがかかっています」
「皇帝陛下が、ですか」
「はい」
そんな情勢を鑑みてウルクの現皇帝であるシュルメ・カフラスがヘリアンカに接触しようとしていた。
ヘリアンカにはもちろん断る理由はなかった。カイザンヌを打倒するためには味方は多いほうが良い。
「分かりました。お伺いする旨を伝えておいてください」
「承知しました」
トゥサイとのやり取りを思い出しながら食べる朝食は最悪なものだった。
「味がしないのはトゥサイのせいではないのはわかっているのですけどね」
緊迫していく国際情勢によって朝食の楽しみが奪われているのだが、その知らせを持ってきた直接の原因ではないトゥサイを責めたくなってしまう。
「俺が何ですって?」
ヘリアンカの独り言を聞いていたのか、どこからかトゥサイがやってきた。
「俺のせいで朝食がまずくなったという風に聞こえましたが?」
ヘリアンカは慌てて否定する。
「いえいえ! そんなことないですよ!」
「もし、そうなら情報をヘリアンカ様に伝えるんじゃなかったですかね」
トゥサイが本気で失敗したような顔をした。このままの流れで行ってしまえば、今後重要な情報がヘリアンカに届かない可能性がある。それは避けなければならない。
「ち、違うんです! 本当にそんなことありません! トゥサイにはいつも感謝しています!」
「本当にそう思ってますか」
トゥサイの目が本気な気がしてヘリアンカは首がとれるのではないかというくらい一生懸命に首を縦に振った。傍から見たらおかしな光景に違いなかった。
「はい!ほんっっとうです!」
首をぶんぶん振りながら話すヘリアンカの言葉を聞いた瞬間トゥサイがニコッと優しく笑った。
「まさか、演技だったのですか…」
「さあ? どうでしょうね?」
トゥサイは不敵な笑みを浮かべる。
「もう!」
ヘリアンカはその笑みを見て確信した。
トゥサイの目が本気だと思ったのもヘリアンカをからかうための演技だったのだ。トゥサイにからかわれていたフルもこんな感じだったのかなと今はもういない体の持ち主に思いをはせた。
「さぁ、ヘリアンカ様。朝食が冷めてしまいますよ」
誰のせいでこんなことになっているのだと言いたくなったヘリアンカだったが、口にすると負けた気がするので言葉を出す代わりにスプーンを頬張る。
「…美味しい」
先ほどまで感じなかった味が口いっぱいに広がった。
「ヘリアンカ様、美味しいのは当然です。こんな非常時とはいえ、ヘリアンカ様にまずいものを食べさせるわけにいかないでしょう。それともまさか、我々が出す料理はまずいものだとでも思っていたのですか?」
「いえ、そんなことはないのですが…」
そこまで言ってヘリアンカは気づいた。これはトゥサイのお陰だと。トゥサイによる馬鹿げた演技によってヘリアンカの緊張が薄れていたのだ。
昨夜の話を聞いて深刻そうな顔をしているヘリアンカを見てトゥサイが一芝居打ってくれたのだ。
「そういうことなら言ってくれれば良かったじゃないですか!」
ヘリアンカはトゥサイに文句を言うが当のトゥサイは何のことですか、としらばっくれていた。
これ以上追及するのは野暮だと思ったのでヘリアンカは心の中でトゥサイにお礼を言う。
勇敢に敵に立ち向かう戦士としてのトゥサイとはまた違った一面を見ることができたと感じた。これがトゥサイの優しさなのだと思いながらポタージュを嚙みしめる。
ヘリアンカは朝食を食べながらゆっくりトゥサイに微笑んだ。
ヘリアンカは朝食のあと身支度を整えたてカフラスの元へと向かった。車はトゥサイが運転してくれている。
「このタイミングで皇帝陛下に呼ばれるということはやはり国家労働者解放党の件ですよね」
ヘリアンカが車に揺られながらトゥサイに尋ねる。
「ええ。そう考えて間違いないでしょう」
「しかし、陛下のほうからお声がけいただいて助かりました。どのみち陛下とは一度話さなければと思っていたんです」
「そうですか。それはタイミングが良かったですね」
「ええ、本当に」
車が宮殿に着くと衛兵が出迎えてくれた。カフラスの宮殿はとても大きくフルの記憶にあるエフタルの屋敷より広かった。
衛兵たちはヘリアンカとトゥサイのボディチェックを念入りにした。このような情勢であるため、トゥサイたちがカイザンヌのスパイであることを危惧したのだろう。
カフラスが呼んだにも関わらずここまで念入りにするとは信用していないのか、と少し不快であったがもし自分が同じ立場だとしても同じように入念に調べるだろうとヘリアンカは思い、考えを改めた。
危険な武器の類を持っていないことが分かると衛兵たちは宮殿へとヘリアンカたちを招き入れる。その際にヘリアンカとトゥサイのボディガードとして二人の衛兵が着いてきた。
二人とも背が高く屈強な男だった。彼らに案内されるかたちで宮殿の奥へと進むと大きな部屋の前に通された。
「ここに陛下がいらっしゃるのですか」
「そのようですね。ヘリアンカ様、緊張しておられるのですか?」
「いえ、緊張はありません」
衛兵が部屋の大きな扉を開けるとヘリアンカは部屋の中へ歩いていく。
広間の扉が開くと、ヘリアンカは壮麗な景色に圧倒された。天井には美しい彫刻が施され、壁には歴代の皇帝の肖像画が飾られている。大広間の奥には豪華な玉座があり、そこにカフラス皇帝が座っていた。
カフラスがヘリアンカが入ってきたことに気づくとすぐに玉座から降りた。
「ヘリアンカ様、この度はご足労いただき本当にありがとうございます」
ヘリアンカが部屋に入るとまずカフラスが頭を下げた。カフラスは豊かな白髪の初老の男性だった。物腰は柔らかく知的な眼差しをしていた。
「こちらこそお話の機会をありがとうございます」
続けてヘリアンカも礼をする。
「ヘリアンカ様の後ろのお方は…」
カフラスがトゥサイに目を向ける。
「はい、彼はヘリアン・ウルルに所属しているトゥサイと言います。カイザンヌを打倒するという志を同じくした同志です」
ヘリアンカに紹介されたトゥサイは深くお辞儀をすると簡単に自己紹介を始める。
「お初にお目にかかります。ウァラガ・トゥサイと申します。先ほどヘリアンカ様から紹介していただきました通り、ヘリアン・ウルルで活動しております。今回はヘリアンカ様の護衛というかたちで同行させていただきました」
「ふむ。護衛ですかな」
「ええ。彼は腕が立つ人物です。私が保障いたします」
ヘリアンカはフルの記憶からトゥサイの活躍を思い浮かべながら話した。
「ヘリアンカ様がそこまで仰るのならトゥサイ殿は素晴らしい腕前の持ち主なのでしょう。君を信用することにしよう」
「ありがとうございます。陛下」
トゥサイは再び深々と頭を下げた。
「ヘリアンカ様今回お呼びだてしたのは他でもありません…」
挨拶もそこそこにカフラスは本題に入る。
「カイザンヌのことですね」
「さようでございます」
カイザンヌの名前が出た瞬間に先ほどまでの柔らかな雰囲気は消え、緊張が一同に走った。
「私も昨晩トゥサイから聞きました。スタルキュラで政権を握ったと」
「さすがお耳が早い。そうなのです。もはや我々に残された猶予はあまりありません」
「そのようですね」
「労働者解放党が政権を握ったことを知っておられるということは、大体の事情はご存じですか?」
ヘリアンカは一瞬考えるとすぐに口を開く。
「いえ、お恥ずかしい限りですが私が眠っている間の出来事は分かりません」
「さようですか。では少しお話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
カフラスは力強く頷きヘリアンカに話し始める。
「アンリレ様の死後ヘリアンカ様の教えは様々なかたちで分かれていきました」
「それは何となく知っています。いろいろと派閥ができたと」
「その通りでございます。しかし、それが争いの種でもありました」
「争いの種ですか」
そのカフラスから発せられた言葉はどの言葉よりも重々しくヘリアンカには感じた。そしてこれからヘリアンカたちの行く末さえも暗示しているかのようだった。




