65話 帰還
目の前にはウルク大学が広がっていた。視界いっぱいに移るウルク大学での記憶が甦る。ジャルカラが失敗したこと、スタルがジャルカラの尻ぬぐいをしたこと、そしてフルが熱心に資料を読んでいたこと。
この全ての記憶はフルのものだ。ヘリアンカのものではない。しかし、フルの身体をもらい受けたヘリアンカにとっては自分の記憶のように錯覚してしまう。ウルク大学を見た時の帰って来たんだという思いも、フルのものでありヘリアンカの思いではない。
ヘリアンカの心が求めていたのか、フルの身体がそれを言わせたのか。それでも、ヘリアンカは思わずにはいられなかった。言わずにはいられなかった。ただいま、と。
「着きましたよ。ヘリアンカ様」
スタルがヘリアンカに呼びかける。ヘリアンカは今イスマンへとたどり着いた。ダンサンが運転する車を降りる。
「ダンサン、ここまでの運転ご苦労さまでした。ここからは私一人で大丈夫です」
ダンサンへとヘリアンカは声を掛ける。しかし、その言葉を聞いたダンサンの表情は暗い。
「一人じゃありません! 私たちがいます!」
ダンサンの暗さを吹き飛ばすような明るい声で横からスタルが割って入る。
「たちって誰のことやねん」
不満そうな顔でジャルカラもその声に混じる。
「もちろんジャルカラに決まってるじゃない!」
何を当然のことを、とでも言うような口調でスタルはジャルカラの顔を見た。それに対しより一層面倒くさそうな顔を見せるジャルカラ。
しかし、その顔が照れ隠しであることをいつも近くで見てきたスタルは誰よりも知っていた。ジャルカラの不満顔を見て満足そうに頷くとスタルはヘリアンカの方を向く。
「えっと、ダメでしょうか…」
ゆっくりとヘリアンカの反応を確かめるようにスタルはその眼差しを向けた。ジャルカラの方もスタルほど真っ直ぐ目線を合わせないがチラチラと横目にヘリアンカの反応を確かめている。
「ダメではありませんよ」
ヘリアンカがにっこりと笑ってスタル、そしてジャルカラを見る。ヘリアンカの笑顔につられるようにスタルもすぐ笑顔になった。ジャルカラはふん、と顔を背けていた。ヘリアンカもフルの記憶と自信の体験からジャルカラの態度については分かっていたのでふふ、と笑った。
「それにあなた方はフルさんの友人です。一緒に居てはダメなんてこと全くありません。むしろ居てくださると私も嬉しいです」
ヘリアンカの言葉にスタルは感動し目を潤める。ヘリアンカはダルサンがすっかり蚊帳の外であることに気づくとダルサンに向き直る。
「そういうわけですので、ダルサン。私は大丈夫です」
ダルサンの目を真っ直ぐに見つめるヘリアンカの瞳は晴れ渡る空のように澄んでおり、一点の曇りすらなかった。
「承知いたしました。ヘリアンカ様、どうかお気をつけて」
「ええ」
ヘリアンカはそれだけ短く言うとダルサンと別れた。
「ヘリアンカ様、私たちは一度家に帰ろうと思います」
スタルはそう言ってヘリアンカに話しかける。
「そうですね。それが良いと思います」
ヘリアンカはスタルとジャルカラ二人のことを考える。本来なら遺跡へ調査に来ただけのはずだった。だというのに、二人は大事な研究仲間であるフルを失うことになったのだ。
表面上は落ち着いて見える二人だが精神的にひどく疲れていることは間違いなかった。
「ヘリアンカ様はこれからどうなさるのですか?」
「これから、ですか」
ヘリアンカはふと考える。ヘリアンカは一度終わっているのだ。それを望まぬ形で蘇らされた。何か目的を持って蘇ったわけでは決してない。
しかし、こうして蘇ってしまったのだ。その事実を消すことはできない。ならばすることは一つだけだ。使命を果たす。
「カイザン…」
カイザンヌを倒す、と言おうとしたところでヘリアンカは止めた。そもそもこの二人はヘリアンカの復活に関与した人物というよりまず、フルの友人であるのだ。そんなフルにとって大切な人たちを自ら危険にさらすわけにはいかない。
それに、ヘリアンカにはカイザンヌと対峙する前にしなければならない約束があった。
「ヘリアンカ様?」
途中で言葉を止めたヘリアンカを不思議そうにスタルはのぞき込む。
「いえ、何でもありません。フルさんの身体をもらい受けた以上、責任を果たさなくてはいけませんね」
「責任ですか」
その意味を噛みしめるようにスタルは呟いた。
「つまり、フルの家族に会うんですか」
「ええ。私にはそうしなければならない責任があります」
スタルは悲しい顔をして俯いた。スタルの顔を見れなかったヘリアンカにとってはその顔が意味することを察することしかできない。
「そう悲しまないでください。いずれは必ず訪れることでした。それが少し早まっただけです」
「ですが…」
「早く行ったほうがええですよ」
今まで黙っていたジャルカラが急に口を挟む。それはとてもぶっきらぼうな言い方だった。
「ジャルカラ! そんな言い方ないんじゃないの?」
スタルがすぐ嚙みついた。
「そりゃ本人の同意を得ずにフルの身体を奪ったのは許されないことだよ。でもそれはヘリアンカ様が望んだことじゃない! あいつらが勝手にやったことじゃない!」
「それがどうしたんや」
口調が荒くなるスタルとは対象にジャルカラは至極冷静に冷徹とまで思えるような口調を貫いていた。
「どうしたって、ヘリアンカ様の気持ちが分からないの! 望まない選択を強いられて、その結果ヘリアンカ様がどれだけ辛い思いをなさっているのか少しは考えなさいよ!」
スタルの怒号にもジャルカラは冷たい目を向けたままだった。そしてヘリアンカもまた黙って二人を見ていた。
「だからそれが何やってわいは言ってるんや。フルの家族や大切な人はもっと辛いんやないんか?」
ジャルカラの言葉にスタルは声を出せなかった。ジャルカラは冷静に続きを述べる。
「ヘリアンカ様が辛い思いをしてるんも分かる。でもな、もっと辛い人もおる。それはフルの帰りを待ってる人らや。わいらなんかとは比べもんにならんほどショックを受けるやろな。それをヘリアンカ様が辛いからって後回しにしてええんか?」
ジャルカラは語気を荒げることはなく諭すようにスタルに話す。
「それにな、ヘリアンカ様は一言も辛いなんておっしゃってないぞ。誰が一番辛いのかヘリアンカ様はよく分かってるんや。その気持ちをお前は踏みにじるってことやぞ」
スタルはそれ以上何も言い返すことができなかった。そんな状況を見かねてヘリアンカはやっと口を挟む。
「ジャルカラさん、スタルさんありがとうございます。もう大丈夫です」
「ヘリアンカ様」
ジャルカラは口を閉じる。
「ジャルカラさんの言うことは当然のこと。私は事実を伝えにいかねばなりません」
ジャルカラは何も言わずにただ深く、大きく、そして力強く頷いた。
ジャルカラとスタルと別れたあとヘリアンカは一人マトミの家へと向かっていた。列車に乗り心地よい揺れに身を任せる。
列車に乗っているとフルの記憶が呼び起こされていく。初めてテロに巻き込まれた時のことを。
変な恰好をした変な男。それが初対面のトゥサイの印象だった。神について高説を垂れ流す害悪をその拳で鉄拳制裁を加えたのだ。
「この感情は…」
ヘリアンカの心の奥底で今まで体感したことのない気持ちが湧き上がってくる。
「これは、恋。いや、もっと純粋なもの…」
憧れだ。フルは自覚していたのか分からないがトゥサイに対して憧れの感情を持っていたのだ。なんだかフルの触れてはいけない気持ちに触れてしまったようでヘリアンカは申し訳なく思い、揺れに身を任せてゆっくりと瞼を閉じる。
ジャルカラたちと別れてからかなりの時間が経過した。ヘリアンカはマトミの屋敷へと来ていた。フルにとってはもう一人の母親のような存在だ。きっとマトミもフルの帰りを待っていただろう。
マトミは丁度買い物から帰ってきたところだったのか屋敷に入ろうとしているところだった。外から屋敷を眺めていたヘリアンカがマトミに気づかれるのは時間の問題のように思えた。
「あれ、フル? フルですよね!」
「マトミ、お姉さま…」
ヘリアンカはマトミの顔を直視することができない。
「フル? どうかしたんですか?」
ヘリアンカはマトミに自分がフルではないこと、フルとはもう会えないことを伝えなければならない。これからマトミの身に降りかかる辛さを思うと自然と涙が出た。
「フル! どうして泣いているんですか! とりあえず上がってください」
ヘリアンカは招かれるままにマトミの屋敷へと入った。フルの身体は何回もこの屋敷に入っているが、ヘリアンカは初めて入るのだ。良く知っている場所に初めて入るという妙な感覚を伴いながらヘリアンカはリビングへと足を進めた。
「それでどうしたのですか」
ヘリアンカはマトミに促されるままにリビングのソファに座った。目の前の机にはマトミが入れてくれたお茶が飲まれることなく静かに置かれていた。
「マトミお姉さま、いえ、マトミさん」
今までのフルとは全く違う雰囲気にマトミの顔が固くなる。
「え? どうしたんですかフル。声は同じですけどまるで別人のような…」
やはり分かるのだなとヘリアンカはその事実に心底落ち着いていた。しかし、それで良いのだ。
「もうフさんルはいません」
「いないって、でも目の前に…」
マトミの目には今にも涙がこぼれそうだった。それはヘリアンカも同じだった。しかし、ここでヘリアンカが泣くわけにはいかない。泣いていいはずがないとヘリアンカは真顔のままマトミを見る。
「私はフルではないのです。私は遥か昔に生きていました。けれど今、フルさんの身体を借りて生きています。私が望んだことではないとしても本当に申し訳なく思っています」
ヘリアンカの話を聞いていたマトミが弱弱しく尋ねた。
「フルは…。フルはどうなったのですか」
ヘリアンカは申し訳なさでいっぱいになる。
「フルさんはもう…」
ヘリアンカが最後まで話し終える前にマトミが叫んだ。
「もういい!」
ヘリアンカは口を閉ざす。
「もう結構です。一人にさせてください」
マトミの気持ちを察するのにはその言葉だけで十分だった。ヘリアンカは黙ってマトミの屋敷から出た。
「おい、あんた」
屋敷を出たヘリアンカは見知らぬ人物に話しかけられた。顔をローブで覆っているため誰かは分からない。しかし聞き覚えのある声だった。
「さっきのことは本当なのか」
「さっきのことですか」
この男とはここで初対面のはず。さっきも何もないとヘリアンカが言おうとしたそのときだった。
「フルがもういないということは本当なのか」
「どうしてそれを!」
「どうしてって、マトミは俺の姉だ」
そう言ってローブを脱ぐとそこには知った顔があった。トゥサイだった。
「トゥサイさん」
「俺の一家はわけ合って危険な状況だ。フルの顔をしたやつが姉にちょっかいをかけようとしてるかもしれないと思って中の様子を聞いていた」
「そうでしたか」
「それで本当のことなのか」
ヘリアンカは噓を言っても仕方ないと正直に話す。
「はい、本当です」
「そうか…」
少しかんがえこむトゥサイだったがすぐに口を開いた。
「ならお前は誰なんだ」
「当然の疑問ですね」
ヘリアンカは質問が来ることをわかっていたかのように自然と口を開ける。
「私はヘリアンカです」
「ヘリアンカって、あのヘリアンカ様か?」
「はい。その認識で間違いありません」
トゥサイは少し驚いたような顔をしたがすぐに落ち着きを取り戻す。
「どうして、フルの身体に? そしてどうしてここにいるんだ?」
ヘリアンカはフルの身体のことそしてカイザンヌを倒すことを包み隠さず全て話した。
「にわかには信じられない。だが本当のことなんだろう」
「信じてくださるのですか?」
「ああ」
「どうして?」
「噓を言っているようには見えなかったから。それが理由じゃいけませんか?」
「いえ…」
ヘリアンカは複雑な心境を抱きながらも曖昧に返事をする。
「ところで、俺たちもカイザンヌを倒す計画を立てています。もしよろしければお力を貸していただけませんか?」
これはヘリアンカにとっても願ってもないことだった。カイザンヌは強大な敵である。一人で立ち向かうことはできないとヘリアンカは考えていたところだった。
「ええ。私でよければ喜んで力を貸しましょう」
「ありがとうございます。これからよろしくお願いします」
トゥサイはゆっくりと頷く。
「改めて言う必要はないかと思いますが、一応。俺はヴァラガ・トゥサイです」
そう言ってトゥサイは右手を差し出す。
「私はヘリアンカ」
そしてヘリアンカはその手を力強く握った。その手はフルの意志も感じられるほどに固く握られていた。




