63話 決別
ヘリアンカがゆっくりと瞼を閉じた先の真っ暗な世界で一人の女性が泣いていた。それはまさしくフルだった。ヘリアンカがゆっくりと近づきフルを抱きしめたとき暗闇は晴れて景色は生き生きとした草原へと変わった。
「もう怖くないですよ、フルさん」
フルは暗闇の中で肩を震わせて一人で泣いていたのだ。フルはヘリアンカの存在に気づくと泣き止みヘリアンカを優しく抱きしめた。
「ヘリアンカ様、私、一体何が起こったのか分からなくて」
フルはまだ涙声のままヘリアンカにそっと呟く。
「ええ。怖かったですね。もう大丈夫です」
ヘリアンカはフルを落ち着かせようと精一杯抱きしめる。
「急に変な人たちが現れて、それで…。そうだ! サトさんは無事ですよね! あの子は何もされてないですよね!」
フルは自分が意識を失う直前のことを必死に思い出した。そして自分を襲った相手が誰だったのかということよりも、サトの無事を心配したのだった。
そんなフルの優しさを見てヘリアンカの顔は一気に暗くなった。油断していると涙が出そうなほどだった。ヘリアンカはそのたびに泣きたいのはフルのほうだ、私が泣くことは許されないと何度も自分を叱責した。
「はい。サトさんならば何の心配もいりません。彼女は今も無事ですよ」
サトの無事をヘリアンカの口から聞いたフルは心底安心といったようすでほっと息を吐いた。
「それでヘリアンカ様、一番気になっていたことなのですが私を襲った連中は何なのですか?」
フルはサトの無事が分かると一番の疑問をヘリアンカにぶつける。
「奴らはアンリレの秘宝を持っていたし、カラクリ師だと名乗っていました。さらにヘリアンカ回生主義とも。これってヘリアンカ様を復活させようとしている人たちってことですよね?」
ヘリアンカは先ほどのフルの優しさに触れてからフルに全てを打ち明けようと決心した。フルにとってはとてつもなく辛いことになる。このことはヘリアンカが直接引き起こしたことではない、しかしヘリアンカは関係者それもその中心に居る人物としてフルにはしっかりと説明する責任があると感じていた。
「フル、よく聞いてください。おそらくあなたにとってはとても辛い話になります」
「え? 急にどうしたんですか? 辛い話なら慣れてるので大丈夫です!」
フルは問題ないというように屈託のない満面の笑みでヘリアンカを見つめた。けれどヘリアンカにはフルの笑顔が眩しすぎて視線を交わすことはできなかった。
「何と言っても私は以前テロリストに殺されそうになったんですよ! それに比べればどんな話でもへっちゃらです!」
蘇らされて、その代償に目の前の若者の未来を奪ってしまったことへの罪悪感と望んでもいないのにそれを強行したダルサンたちに強い怒りがヘリアンカの心を支配していた。
「フル、私はあなたに謝らなければなりません」
「謝ることですか? ヘリアンカ様は今まで私を何度も助けてくれたじゃないですか。謝罪なんて全く必要ないですよ!」
フルはヘリアンカに何故謝るのかと不思議そうな顔を向ける。
「フル、あなたは私のことをずっと研究してきたから当然知っているでしょうけど、私は既に死んでいる身です」
フルは何を当然のことを今更、と言った面持ちでヘリアンカの話を聞いている。
「ではどうして死んでいる私がこうしてあなたと話せるのか、それは夢だからです。夢は体内の魂が集う場所なんです。私とあなたの魂はとてもよく似ていたのです。そのため私はあなたの夢に入ることができるのです」
「なるほど。それは分かりましたけどどうして夢の話なんです?」
フルは夢の話が本題ではないように思えてヘリアンカに尋ねる。
「あなたになぜ死んだはずの私と会話できるのかを知ってほしかったんです」
「そうですか…」
フルはこの夢の話からどのように続きが展開されるのかを考えた。そのとき、フルの頭に良くない考えが走った。
ヘリアンカは既に死んでいること、そこへ現れた回生主義者の連中、さらにフルとヘリアンカの魂は似ていること。極めつけはこの夢だ。フルが今夢を見ているのはその連中に眠らされたからだと思っていた。しかしそれではおかしいとすぐにフルは思い着く。
まさか、そんなはずはないと心で否定しても頭ではその考えを否定することはできなかった。
「ヘリアンカ様、答えてほしいことがあります」
フルの強張った表情を見てついに来たかと観念するような顔をヘリアンカはフルに見せた。
「さっき私がサトさんの無事を聞いたとき確かにヘリアンカ様は無事だと答えましたよね」
「はい」
ヘリアンカは起伏の無い声で答える。
「私はこの夢が回生主義者に眠らされたから見ていると思ったんです。でもそれだとおかしいですよね? だってもしこの夢が奴らに眠らされたことで見ているならどうしてサトさんの無事が分かるのですか?」
ヘリアンカは何も言わずにフルの次の一言を待った。
「だって考えてもみてください。ヘリアンカ様は先ほどサトさんの無事を断言してくれました。ヘリアンカ様は噓を付くような方ではないのは良く知っています」
フルは流れるように続ける。
「それならサトさんの無事を確信できる状況にあったということです。しかし私が眠らされていた時点ではサトさんが何もされていないことは見ていても、私が眠っている間にサトさんが無事でいることなんて分かるわけがないんです」
フルはまくしたてるように早口になった。それをヘリアンカは黙って聞いていた。
「つまり、ヘリアンカ様は私が眠っている間のことも知っているということですよね」
「フル、今から全てを話します。心して聞いてください」
ヘリアンカはフルの質問に答える代わりに全てを告げると宣言する。
「待ってください! 私の質問に答えて!」
ヘリアンカはフルの言葉を無視するように先を進めた。
「単刀直入に言います。あなたの身体は私が支配しています」
「は?」
フルはヘリアンカが何を言っているのか全く分からなかった。そのため返答の代わりに腑抜けたような一言がフルの口から出る。
「フルが言っていたようにあなたを眠らせた人は回生主義者たちです。先ほど私とあなたの魂は似ていると言いましたよね」
ヘリアンカはフルの目をまっすぐ見据えた。
「彼ら回生主義者たちは私と近い魂を持つフル、あなたの身体を使って私を蘇らせました。そこには私の意志や決定権などはありませんでした」
フルの顔はだんだんと紅潮していたが、言葉を発することはなかった。
「このような形であなたと会うことになって本当に申し訳なく思っています。本当にごめんなさい、フル」
ヘリアンカはフルに対して真摯に向き合い頭を下げた。
「えっと、ヘリアンカ様。まだ状況を読み込めてないというか…」
頭では理解していてもフルの心が理解するのを拒んでいた。
「私の身体が私のものじゃない。そんなことってあるんですか? 噓、ですよね」
フルは縋るようなか細い声でヘリアンカに尋ねる。
「ごめんなさい」
ヘリアンカはフルの問いにただ、ごめんとだけ伝える。
「えっと、本当なんですか? そしたら、謝罪なんて後でいいですよ。まずは元に戻してください」
フルはまだ事態を呑み込めていないように混乱している。
「それも、できません」
「できない? ヘリアンカ様は神様ですよね? できないわけないですよね?」
「本当に申し訳ないのですができません」
「え? 私の聞き間違いかな。ハハッヘリアンカ様、私もう耳が遠くなったみたいです。まだまだ若くてこれからだってのに、私できないなんて聞こえたんですよ。全くおかしいですよね」
フルは笑って現実から目を背けようとする。
「できないんです。フル。あなたに体を返してあげることはできません。本当にごめんなさい」
はっきりとヘリアンカの口から断言される。
「うわぁぁあああああああああ」
突然フルが大きな叫び声をあげる。それはまるで野生の獣が放つ咆哮のように獰猛だった。
「フル、落ち着いて!」
急に叫び出したフルを鎮めようとヘリアンカはフルに手を伸ばす。
「フフフッツ」
するとフルは叫ぶのを止めた代わりに大きな笑い声をあげた。
「フル、どうしたの! 落ち着いて」
「フフ、ハッハッハ!」
フルの笑い声は収まるどころかますます大きく狂気的になっていった。
「落ち着けですって!? おかしなことを言いますね。おかしすぎて笑いが止まりませんよ!」
フルは大きく目を見開き焦点が合っていないままヘリアンカに怒鳴りつけた。
「全てあなたが仕組んだことだったんですね! やっとわかりましたよ! そんなに蘇りたかったんですか!? 浅ましい女ですね!」
フルの口からはとめどなく言葉が溢れる。
「フル、待って、私の話を聞いて!」
「話を聞けだって!? 話を聞いた結果がこれですよ! 私はね、ヘリアンカ様のことを信じて来たんですよ! このイガシリにだってヘリアンカ様が訪れろとおっしゃったじゃないですか! 忘れたんですか?」
「ええ、確かに覚えています。けどこんなことになるなんて知らなくて」
「え!? 知らなかったら人の身体を勝手に乗っ取っても許されるんですか! さすが神様は寛容ですね! でもね、私はあんたとは違うんだよ! 許せるわけないだろ!」
フルの言葉はまるで決壊したダムのように止まることはなかった。
「私はまだまだ、やりたいことがあったんだ! 研究だって続けたかった。ジャルカラとスタルさんとまだまだ一緒にやりたかった!」
フルの語気はどんどん強くなる。
「会いたい人もたくさんいた! エリオに会ってこんなに立派な研究成果を挙げたんだぞって自慢したかった! マトミお姉さまにも会いたい! 一緒に買い物をしたりゆっくりお話したり…。お母さんにだって、まだまだ話していないことたくさんあったのに…」
ヘリアンカがフルを見るとその眼には涙が今にも溢れそうでその涙が光を反射していた。
「私はそんな毎日が送れれば幸せだったんだ。それをお前は、私の未来を奪った!」
フルは目に涙を浮かべながらヘリアンカを睨みつけた。それを受けてヘリアンカはフルがこれだけ怒り狂うのも当然だと思った。そして謝らなければならないとも。
「フル、本当にすみません。許してもらえるとは思いません。でもこれだけは信じてください。私はあなたのことが憎くてこんな仕打ちをしたわけではないということを」
フルは深々と頭を下げるヘリアンカを冷酷な瞳で見つめていた。
「そんな口だけの謝罪なんていらないんですよ。本当に謝罪する気があるなら頭を地面にこすりつけるくらいしたらどうですか」
ヘリアンカは神だからプライドが高くそんな真似はできないだろうとフルは踏んでいた。しかし、その予想はすぐに外れることになる。
「それであなたの気が少しでも晴れるなら」
ヘリアンカはそう言うと頭を垂れて地面に付けた。フルは想像していなかっただけに動揺してしまう。しかし、ヘリアンカがこんなこと何でもないというふうに嫌な顔ひとつせず涼しい顔でやってのけたことにフルは嫌味すら感じますます腹立たしいと感じた。
「こんなこと何でもないって言うのか! どこまで人を馬鹿にすれば気がすむんだ!」
「違う! 私はただ…」
「もういい! うるさい! 黙って頭を下げてればいいんだよ!」
猛烈な怒りから来る悪意がフルの中にみなぎっている。フルはその悪意に身を任せ、手をヘリアンカの頭へと伸ばした。
「そうやって形を真似したところで何の意味もない! 謝罪はこうするんだよ!」
フルはヘリアンカの頭を掴むと思い切り上へ持ち上げた。そしてそのまま下の地面へとヘリアンカの頭を叩きつけた。ごん、と鈍く低い音がした。
「ほら! どうした! 謝罪はもっと頭を付けるんだよ!」
フルはそのままヘリアンカの頭を上から思い切り地面へと押しつける。
「ほら、もっとちゃんと謝れよ!」
再びフルはヘリアンカの頭を持ち上げ地面へと叩きつける。鈍い音が夢の中に響き渡る。ごん、ごん、何度も何度も何度もフルはヘリアンカの頭を地面へと叩きつけた。
「何とか言ったらどうなんだ!?」
フルはそれだけでは飽き足らずヘリアンカの頭を上から踏みつけて地面へと押し付ける。力いっぱいフルは足を何度もヘリアンカの頭上に振り下ろした。
フルは数え切れないほどヘリアンカの頭を地面へと叩きつけたあとヘリアンカの頭を再び上へ上げた。顔を確かめるためだった。
「顔を見せろよ」
フルはヘリアンカの顔がどんな風に歪んでいるのかと見てやろうと思ったのだ。しかし、ヘリアンカの顔は何一つ歪んでおらず、整った顔のままだった。夢の中であるため傷はつかないようだった。
ヘリアンカはただ静かに澄んだ瞳をフルに向けていた。その目はフルのことを憐れんでいるようでさえあった。
「ックソ。なんなんだその眼は!」
そんなヘリアンカの態度がより一層フルを激昂させた。ごん、とまた音が響く。
「もっと泣いて許しを乞えよ!」
ごん。低い音はまだまだ止まない。
「どうして私をそんな目で見るんだ!」
ごん。鈍い音が響き渡る。
「どうして…」
ついに音が止む。そしてフルの目から涙が溢れた。
「フル!」
ヘリアンカはフルのことを抱きしめようと地面に着いていた顔を上げる。その姿をフルは涙で霞んだ視界の端で捉えた。
「何を勝手に頭を上げようとしてるんだぁ!」
フルはヘリアンカの腹を目掛けて下から思い切り蹴り上げた。ヘリアンカはうっと声を小さく上げたが怒りの表情をすることは全くなかった。
「どうしてだ! お前は泣きわめいて許しを乞わないんだ! どうして!」
「フル! あなたは…」
「うるさい! 口を開くな!」
フルはヘリアンカの頭を横から蹴りつける。その衝撃でヘリアンカは横に回転しながら数十センチ先へと転がった。
「ッ。どうして、どうして!」
フルの心は限界だった。フルは泣かないと決めていても涙が一向に止まらなかった。この涙がどうして出るのかすらもフルにはちゃんと分からなかった。
自分の身体を、これから生きるはずだった未来を奪われた哀しみ。フルの身体を勝手に使って復活したヘリアンカへの怒り。そしてそれを暴力でしか表すことのできない自分の未熟さからくる悔しさ。そのどれかがフルが涙を流す理由であるようで、全てが原因であるようにフルには思われた。
「うわぁぁあああああああああ!」
一度流れた涙を戻すことなどフルには出来なかった。流れ出してしまえばもう止まらない。フルの視界は涙で覆われ何も見えなくなる。声を上げてフルは泣いた。
「うっ」
フルが落ち着くと涙で見えなくなっていた視界が戻って来る。目の前にはヘリアンカが心配そうに佇んでいた。
ヘリアンカはフルがあんな仕打ちまでしたのにそんなフルを心配しているのだ。本当はは知っていた。ヘリアンカが勝手に人の身体を使って復活したりしないということを。ヘリアンカを研究してきたフルは、夢の中で何度も話してきたフルには分かっていたことだったのだ。こんなにも優しく慈愛に満ちている人、それがヘリアンカなのだ。
分かっていたのに、それでも酷い態度を取るしかなかったのはフルが体を取られたと認めたくなかったからだ。
「フル…」
ヘリアンカが恐る恐るフルに声を掛ける。
「すみません。もう大丈夫です」
「そうですか。良かったです」
フルとヘリアンカの間に静寂が生まれる。どちらも発する言葉を探しているような間だった。
長い時間が経ったあとフルがゆっくりと口を開いた。
「すみませんでした」
ヘリアンカはフルが謝ることを想定していなかったのかびっくりした顔を向ける。
「謝るのは私のほうです!」
フルに向けてすぐに答える。
「いえ、本当は分かっていたんです。ヘリアンカ様が勝手に人の身体を乗っ取るようなことをする人じゃないってことくらい。それなのに、それなのに…」
フルの目から再び涙がゆっくりと流れる。ヘリアンカは慈しむような微笑みでフルを抱きしめる。
「いいんです。フル。いいんですよ」
「それなのに私は、分かっていたのに、怒りの矛先が無いから、ヘリアンカ様に当たって、それで…」
「大丈夫、ちゃんと分かってます」
ヘリアンカはフルの頭をなでるようにフルの話をゆっくりと聞いている。
「ごめんなさい、ヘリアンカ様」
「いいんです。今のフルのことを思えばこんなことくらい何ともありません」
そうしてヘリアンカがフルを抱きしめてしばらくの時間が経った。
「ヘリアンカ様、決心がつきました」
「フル」
フルはしっかりとヘリアンカの目を見て話す。
「まだ怒りがないって言ったら噓になります。けどもう起きてしまって仕方のないことです。それにヘリアンカ様が復活したことには意味がある、そうなんですよね?」
フルの問いかけにヘリアンカは力強く頷いた。
「ならしっかり使命を果たしてください。私の身体まで使って復活したんです。きちんと果たさないと許しません」
「ええ。約束します。必ず使命を果たすと」
「よろしいです」
フルは満足そうに短く答えるとヘリアンカの背中を押した。
「ほら、早く行ってください。こんなところで時間を使うわけにはいかないでしょ!」
ヘリアンカはフルがまだ辛い気持ちを我慢しているのだと気づいていた。しかし、そんなフルが勇気を振り絞ってヘリアンカの背中を押したのだ。ヘリアンカはその気持ちに必ず応えなければならないと思った。
「そうですね。では行ってきます」
そう言ってヘリアンカは歩き出した。その直後フルがヘリアンカを呼び止めた。
「ヘリアンカ様、私、こんなことになったけど、やっぱり、ヘリアンカ様と出会えてよかったです!」
フルの目に何度目か分からない涙が流れている。
「私もです。あなたのことは決して忘れません。フル」
そうしてヘリアンカは夢の世界を後にした。その目に涙を浮かべながら。




