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ヴァクトル  作者: 皐月/やしろみよと
3章 砂の涙

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41話 非情と冷酷

 諜報員。それは敵国の情報を秘密裡に収集する闇の者たちの総称である。情報を集める以外にも敵組織の活動の妨害、攪乱など任務は多岐に渡る。諜報員たちは政治、経済、科学、技術など様々な分野に跨っている。スパイとも呼ばれる者たちは皆、何らかの特殊技能を持っていたり、ある分野のエキスパートであったりする。

そんな彼らは一人で戦っているわけではない。いくら凄まじい天才であったとしても一人で大国を相手にすることなど不可能である。そこで彼らは巨大な組織に所属することで同志たる諜報員たちと密接な関係を持ち強大な敵と相対しているのだ。

ここ、ハングラワーにもそんなエージェントが一人思慮深く佇んでいた。


「さてと。どうしたものかね」


 その男こそトゥサイであった。


「潜入しろと言われてもなぁ」


トゥサイがいるハングラワーウルク国は人口6000万人ほどの国である。小国とは言えない人口とそれから生み出される3兆を超える経済力。さらに圧倒的な軍事力も相まって強国と呼ぶにふさわしい国家であった。

トゥサイはこのハングラワーウルク国にスパイとして潜入するため首都であるハングラワーに居るのか。答えは否である。彼はその隣国エポルシアへ侵入するためにこのハングラワーに居たのだ。


「エポルシア人民共和国。指導者はカイザンヌ。人口や軍事力を見るとマークすべき国とはとても思えないほど低いが、それ以上にこの国は危険だ」


トゥサイは今回の任務の重要性をしっかりと理解していた。今までトゥサイがこなしてきたカラクリ師としての業務より遥かに肝心な仕事だ。


「エポルシアはあのテロに関わっている可能性が高い。今回ばかりはふざけていられないな」


 潜入する際は最小限のリスクで済むようにするべきだ。たとえ何人かで潜入するとしても一人ずつ侵入していく。

 トゥサイは今、エポルシアとハングラワーの国境の街に来ていた。ここならエポルシアの情報収集をハングラワーの中から行うことができる。

 トゥサイたちスパイにとっては情報というものは時にどんな重火器よりも強い武器となりえる。情報の重大さが分からない者はこの世界では生きてはいけない。


「まずは酒場から始めるか」


 情報が集まるところといえば酒場だ。酒場とはゴシップ好きが集まる場所だからだ。もちろん組織としても情報を収集しているはずだ。それこそ情報を得ることに特化したエージェントが動いているに違いない。

 情報を集めることに特化しているわけではないトゥサイはこうして街の人から少しでも有益なものを得ることが第一目標なのだ。

 もちろん組織が集めた情報と比べると街で得た情報の精度はすこぶる悪い。噓や眉唾物で溢れている。

それでもその中から本当に必要な情報を集めることこそトゥサイにしかできない不可欠な役目だった。


 酒場に入ると喧噪がトゥサイを包み込んだ。がやがやとした大衆酒場特有の心地の良いうるささがトゥサイの耳に入って来る。


「隣町で放火だってよ」


「お隣のガンちゃん奥さんに浮気されてるんですってよ」


「今日は赤に賭ける! 今日こそ勝って借金地獄を終わらせるんだ!」


 トゥサイが少し聞き耳を立てて得た情報はどれも街の噂話と言ったたぐいのもので大半はどうでもいいものばかりだった。

 そんな中トゥサイの耳に興味を引くものが聞こえた。


「あいつエポルシアからハングラワー国まで亡命してきたって噂だぜ」


 トゥサイは居ても立っても居られずにすぐにその話をしているテーブルへと歩いた。


「ここは奢るからその話俺に詳しく聞かせてくれないか?」


そう言うとトゥサイは近くの席に座っていた男の隣に座った。


「あぁ?何だお前?」


突然現れたトゥサイを男は怪しむように見た。


「俺はこの街で商人をしているトゥサイと言う者だ。金になりそうな話を集めてるんだ。さっきの亡命者の話を教えてくれ」


 スパイであるという身分を明かせない以上この国ではしがない商人という設定を作り上げていた。


「まあいいか。いいぞ、教えてやるよ。あの女はな・・・」


それからしばらくトゥサイはその男の話を聞いた。それは大した内容ではなかったが、それでも有益なものがいくつかあった。

例えばその女の連れの男の事や亡命する事になった経緯などである。そして女の名前はチャカと言い、最近この街に流れてきたらしいという事であった。

しかしそれ以上詳しい事は聞けなかった。なぜなら男が酔い潰れてしまったからであるトゥサイは仕方なく支払いを済ませるとその男を置いて酒場を出た。

いずれその女と接触する必要があるなとトゥサイは感じながらそのまま宿へ戻った。


 「まずはその女と接触するのが情報を得る一番の近道だろうな…」


 宿のベッドで横になりながら今後の見通しを立てる。潜入捜査は身分がばれたら終わりである。トゥサイの命も終わりだし、任務もお終いだ。

亡命者と接触できる機会はこれを逃せばないかもしれない。亡命した者と話をする以上ここから先はさらに慎重に行動する必要が出てくる。どこから情報が洩れないとは限らないのだ。

亡命者を嗅ぎまわっている不届きものがいると騒ぎになれば動きにくいことこの上ない。


「だが、まずはチャカとかいう女を探さないと話にならない」


トゥサイは女がどこにいるのかおおよその見当をつけながら沈むように深い眠りについた。


輝かしい朝日が顔を覗かせている。


「うーん。今日も良い一日だ」


翌日、トゥサイは朝の4時に起きるといきなり変装に取り掛かった。この国に来てから既に変装していたが、昨日酒場に入ったため昨日の顔はかなり知られている。そのため顔を少し変える必要があった。今日の顔は髭をたっぷりと蓄えたダンディなおじさまスタイルだ。

街に出て早速チャカを探す。とはいえエポルシアからの亡命者が居るところなど限られている。

亡命者はまず金がない。エポルシア自体が豊かな国ではないし、亡命に資金を使っているはずなので高級なホテルには居ない。

次にエポルシアからの難民であるということ。どの国でもそうだが難民の大抵は快く受け入れらない。それは国際情勢も絡んでくる。

エポルシア人民共和国は他の国からしても胡散臭い国として認知されているのだ。そんな国から来たものを受け入れようとする人のほうが少ない。

三つ目に隠れる必要があるということ。エポルシアでは亡命は死罪に等しい重罪だ。ばれたら殺される。したがって身を隠すことができる場所に居る可能性はかなり高い。


「これらを加味するとチャカとかいう女がいるのは、ずばり…」


 スラム街だ。トゥサイは確信した。スラムならば亡命者が人に紛れて隠れることができる。しかもどこから来た者か興味を持つ者もいない。皆その日を生きるので精いっぱいだからだ。

 トゥサイが到着するとそこは凄まじい異臭を放っていた。


「この中から探すのは一苦労だな。まずは聞き込みからだな」


 以外にもすぐに情報は集まった。トゥサイが髭を蓄えている金持ち顔をしていることが幸いしたのか金をばらまけば一瞬で情報が集まった。

 トゥサイが聞いたことは一つだけだった。


「最近ここに出入りするようになった女はいるか?」


 ハングラワーのスラムの住人は仲間意識が低い。そのためお互いに助け合おうという精神がなく近くにいる者の名前も知らない。

しかし、新入りの者となれば話は別だ。すぐに噂は広まり誰もがその存在を認知していた。


「最近見るようになった顔の女なら向こうの廃屋にいることが多いよ。それよりあんたこんなに貰っていいのか」


 汚れた服装だが目に光が灯っている顔をした男の話が決定打となりチャカの場所が分かった。トゥサイはあげた金を使って何か事業を起こして成功するかもしれないなと勝手に思っていた。

廃屋につくと虚ろな目をした女がそこにいた。


「お前がチャカか?」


女は顔を上げずに頷くことすらしなかった。


「お前に聞きたいことがある」


そう言うとトゥサイは札束を女の目の前に置いた。


「お前はエポルシアから亡命してきたチャカで間違いないな?」


札束を置いてもう一度聞くと女はかすかに頷いた。


「どこからどうやってこの国まで来たのか教えろ」


チャカという女はゆっくりとその顔を上げると濁った眼でトゥサイを見つめた。


「私を殺すのですか」


 トゥサイは失念していた。目の前に女は国外逃亡してきたのだ。いつ殺されるか分からない不安の中今日まで生きてきたにちがいない。

 戦闘は得意なトゥサイだが人心掌握は少し苦手なのであった。細心の注意を払って会話することに専念する。


「いや、殺さない。これから殺す相手に金を渡しても仕方ないじゃないか」


そう言うと女は少し安心したのか警戒を緩めた。


「それでどうやってこの国まで逃げてきた?」


チャカという女は再び顔を床に向けるとぽつりぽつりと話し出した。


「国境の近くに兵士が脱走しないように見張っています。それをかいくぐるのは不可能に近いのです。国境付近に近づいただけで撃たれます」


女はがくがくと震えだした。


「私にも仲間がいました。けれど彼らは私の代わりに銃で撃たれました。結局私一人だけが生き残ってしまいました」


さらに声はどんどん小さくなる。


「それでどうした」


「はい。必死で逃げました。逃げて逃げて逃げて、ここまでたどり着いたのです」


 トゥサイは深く考えこむ。この先国境を超えようとすればチャカの仲間が撃たれたという国境警備兵とぶつかることになる。戦闘行為は目立つためなるべくならば避けなければならない。

しかし、不可避だとしたら闘うしかない。


「なるほどな。その国境を警備している部隊は銃を持っているだけか?」


「はい。そのはずです」


銃だけならば制圧できるかもしれない、とトゥサイは思った。


「手間を取らせて悪かったな」


「いえ、とんでもありません。本当にこれをいただいてもいいのでしょうか」


「ああ。好きに使うといい」


 ありがとうございます、ありがとうございます、と必死に頭を下げる女を冷たい目でトゥサイは見つめていた。

 女は金を隠そうとしたのか札束を手に取り廃屋に打ち捨てられていた古びたタンスにしまおうとした。

 そのときポスっと乾いた小さな音がした。そして女は何が起きたのか分からないと言った表情をしながらゆっくりと倒れた。その眼から光が失われるのをトゥサイは確認する。


「すまなかったな」


一言呟いてからトゥサイは廃屋を出た。


スパイとは絶対に正体がばれるわけにはいかない。例え人を殺すことになろうともその原則は絶対なのである。そのためならば非情にもなる。

金で人を買うことは可能だが所詮は金の関係に過ぎない。また金が欲しくなると情報を売るに決まっている。どんな些細なことから正体が割り出されるとは限らないのだ。

しかし死体は何もしゃべらない。例え金をいくら積んだとしても死体はしゃべることはできないのだ。長く話した相手など重要な証拠に成り得る者は消すしかない。

そんなスパイであるトゥサイは今非情になるべき時に来ていると感じていた。

トゥサイは今、国境を越えてエポルシア人民共和国へと足を踏み入れようとしていた。


「ここから見える警備兵は3人か」


トゥサイは殺人に快楽を見出す異常者ではない。できる限り殺人はしないつもりだ。先ほどのスラム街に住む住人は誰かが死んでいたとしても厄介ごとに巻き込まれたくない一心から詮索したりはしないだろう。

しかし、この兵士は別だ。もし殺そうものなら侵入者が出たという決定的な証拠となり警戒は一層強まる。そのため戦闘行為すらしてはいけないのだ。


「幸い警備は緩いな」


トゥサイの居る地点では外から侵入してくる者は少ないと踏んでいるのか3人中2人は内側を見張り、1人だけが外を見張っていた。

まるで外からの侵入を防ぐためというより脱走者を出さないためだと言っているようだった。


「一人だけならなんとかなるか」


外を見ている男は何も起こらないことに飽きたのか目を閉じて大きなあくびをした。

 それを好機と見たトゥサイは足音を殺しすごい速度で衛兵に忍び寄る。

 

「うわぁ!」


 その声と共に発砲音が鳴った。衛兵からは見えない角度で潜り込んだと思っていたがまさか見つかっていたのかと焦るトゥサイだったが違った。

 銃声は内を見張っている2人から発せられたものだった。トゥサイがまさに侵入しようとした瞬間、同時にエポルシアから抜け出そうとした者がいたのだ。


「これはチャンスでしかない」


 トゥサイはあくびをしている男の首元を狙って手刀を放つ。男の目が一瞬で白目になる。


「これで1人」


 内を見張っていた2人はまだトゥサイの存在に気づいていない。後ろから銃を構えている1人を手刀で倒す。すると横にいたもう一人の兵士の腹から血が噴き出るのが同時に見えた。

 撃たれた男とは別の脱走しようとする男がナイフを片手に突っ込んできていたのだ。


「脱走しようとするおいらたちを殺すか?」


トゥサイは間髪入れず答えた。


「いや、殺さないよ」


 撃たれた男とナイフを刺した男とは別にもう1人男がおりこの脱走騒ぎは3人で仕掛けたものらしかった。

 トゥサイが話している男とは別のもう1人の撃たれてない男が懐から短刀を出しトゥサイが気絶させた兵士の首を切りつけていた。


「ほら、行けよ」


男たちは撃たれた者がいる自分たちが不利だと感じたのか、追っ手が来ることを恐れたのかトゥサイを睨みつけるとすぐにハングラワーの方向へと走っていく。

 後ろを振り返らずに一心不乱に走る彼らを見ながらトゥサイは銃の照準を冷静に合わせ引き金を順に引いた。

 3人の男はエポルシアから出る前にぱたりと倒れる。

 トゥサイはエポルシアへと先を急いだ。


 トゥサイはエポルシアの中心である首都ソクナムへと辿り着いた。ここで仲間の諜報員と落ち合う手筈だった。


「あいつだ」


エージェント同士は歩き方を見れば見分けられる。すぐにトゥサイは近づいた。


「次の店で一緒に食事はどうですか?」


帽子をかぶった諜報員はトゥサイの問いかけに頷くと並んで歩きだした。


「上手く侵入できたようだな」


諜報員の男がトゥサイに尋ねる。


「ああ。幸運にも脱走者とかち合った。衛兵は彼らが殺してくれたよ」


「証拠は消したか?」


トゥサイは逃げようとしていた3人の男を思い出した。


「抜かりはない」


「ではこの先の作戦を練るぞ」


トゥサイは服の内側に収めている銃の重みを感じながらゆっくりと頷く。


「まったく最悪な気分だ」


誰にも聞かれないほどの小さな声でトゥサイは心無く呟いた。


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