幸雄の堕落した生活
又三と隆彦は血縁の兄弟だけあって、何十年も疎遠だった2人は杯を交わした後、すぐに打ち解けて昔話に花を咲かせた。酒も入り、夕食の場にほのぼのとした雰囲気が充満した。同席していた幸雄は終始落ち着かない様子で、目をキョロキョロさせていた。山倉の一族が何十年ぶりかで宴席についてからすぐに幸雄は明夫を睨み始めた。あからさまに明夫に対し、敵意をむき出しにするのではなく、さりげなく明夫をぎろぎろと凝視した。明夫に自分が抱いている敵愾心を相手に知られないように必死に自分の感情を抑制しようと必死だった。幼少の頃より幸雄を甘やかし、誰よりもこの息子の現状を案じていた外祖母はいつ幸雄についての相談を切り出そうと躍起になっていたとき、突然母の幸子が「明夫さん、幸雄兄さんのこと、両親ともすごく心を悩ませてるのです。是非相談に乗って頂けませんか?」と唐突に明夫に向かって聞いた。明夫は一瞬不意打ちを食らった風だったが、すぐ我に戻り、「そうだね。今日はそのために皆で集まったんだ」と返した。
それを同席していた幸雄が聞いた瞬間「明夫は警察の回し者だ」と同席していた皆を驚かせるような大声で怒鳴った。幸雄の頬は痩せこけて、誰かと対話でもしているかの様にブツブツ独り言を呟いていた。宴席の前から、いや昼ごろから、不安を軽減するためか、幸雄は飲酒していた形跡があり、足元もふらついていて、発する言葉が言葉になっていなかった。宴席の場から逃げ出さない様に、前もって母が料亭の男子職員を数人隣の部屋で待機するよう手配していた。十代の娘には通常見られない手際の良さである。これを契機に母は徐々にしかし確実に山倉家の後継者としての道を歩んで行くことになる。
幸雄の様子を観察していた明夫は、幸雄の奇行や奇妙な風貌がだらしない性格によるものでなく、精神疾患によるものだと確信した。精神疾患の中でもヒロポン中毒を疑った。幸雄は大酒飲みで数年前から連日飲酒する様になったと母からの報告を聞き、アルコール中毒も合併しているのではないかとも疑った。この二つの疾患は現在では覚醒剤精神病及びアルコール依存症と呼ばれている。明夫の疑いは間違いではなかった。元来が女好きの酒好きの道楽息子幸雄はたびたび地元の遊廓へ頻繁に遊びに行ってたが、そこでは女を抱くだけでなく、頻繁に酒宴を開き、大量の飲酒をしていた。素行の悪い義雄は格の高い遊女屋から厭われ、格の低い女郎屋にしか通うことが許されなかった。遊廓では相当の散財をしたと思われるが、半年前ぐらいから、遊廓通いはやめ、自室に閉じこもって日本酒を自ら近所の酒屋に買いに行く以外は外出せず、自室に閉じこもって飲酒していたらしい。
幸雄は外祖母に恋人ができたと告白した。士族の末裔の娘だといい、家族の皆に紹介した。そして、近い将来、二人が所帯を持つことを認めて欲しいと懇願した。幸雄の話を外祖母は不審に思い、母は全く信じなかった。恋人と言っても将来料亭の主人となったはずの幸雄の奥さんになるような女性ではないのは一目瞭然だった。卑猥な印象を与え、着る衣装も髪型もしまりがなく、きちんとしていなかった。愛人と言った方が良いのか、今流行りの言葉でセックス・フレンドと言った方が真相に近いのか。その女性、実はヒロポンとバクチ中毒に陥った二十代後半の遊女であった。幸雄よりも九年は年上だ。数ヶ月前まで幸雄はよくその女と飲むと言っては、外出し、数日は家に戻らなかった。。幸雄は数日の外泊から家に帰った時には、頬がこけ、数日の肉体労働でも行って来た様に憔悴しきっていた。その女の存在を知った外祖父は激昂したが、もう体力的に幸雄と揉み合う体力など残っていなかった。外祖母はこれほどにも堕落した幸雄を尚も庇った。「私の見た限りは善良で勤勉そうな子よ。幸雄を将来にわたって支えてくれる子だったら、嫁が出自がどのようなものであっても問題にする時代じゃないわよ」と一人ごち、外祖父の怒りに微々たる同調も示さないかのようなフリをした。しかし、内心は極度の不安に陥っていて、幸雄の話を聞いてからは拭えない不安感情が継続し、不眠、動悸や倦怠感も同時に出現した。
幸雄は料亭から歩いて十分ほどのところにアパートを借りていた。遊女遊びに費やした遊興費、アパートの家賃にかかるぐらいのお金を今も尚外祖母は可愛い可愛い幸雄に渡していた。自分は節約しても幸雄にはお金を渡さずにはいられない病気にでもかかった風だった。幸雄はその部屋に例の女性を住ませ、ヒロポンを打ち打ちその女と連日連夜精魂尽き果てるまで性の行為を続けていたようだ。同じアパートに住む料亭に勤めるベテランの仲居が女が快楽の絶頂の時に発する雌叫を耳にしている。夜を通してあ〜あ〜と自堕落な絶叫が睡眠の妨げになるので、外祖母に幸雄のしていることを話そうと考えたが、やはり言い出しにくく、このときは言わずがままになったが、後で明夫に全てを話すことになる。