兄弟の和解
外祖父の一粒種の幸雄を男らしい、器の大きな子、と褒めて来た外祖父も、幸雄を無条件に溺愛して来た外祖母も幸雄の奇異な行動を不安視するようになった。「やはり俺が幸雄の性格を見誤った。これでは料亭の後継の心配もしなくてはいけない。今のアイツでは料亭の後継など到底無理だ」。幸雄を褒めて褒めて育ててきた外祖父が初めて幸雄をアイツ呼ばわりした。「ここは頭を下げて子沢山の兄貴の又三の次男坊五郎を養子に貰うことも考えよう」と幸雄を切り捨てるような自責的な発言をしたと思いきや「外祖母の溺愛が幸雄を駄目な男にした」などと自分の妻に責任の一環を押し付けるような言葉も吐いた。
一方、母は将来幸雄の世話をするために養女に迎え入れた存在であったため、母が山倉家に来た当初あまり大事にされなかった。しかし、幸雄の悪意に満ちた、そして攻撃的かつ奇妙な行動がしばしばになって来た期間中に母は彼女の聡明さや多才ぶりを発揮するようになった。母は幸雄の状況を目の当たりにして、ただただ狼狽する養父に兄のことを養父の兄又三の長男で精神科医でもある明夫に相談するよう進言した。外祖父は母の進言を聞き、間髪入れずに「甥の明夫に幸雄の無様な姿を見せて俺に恥をかかせる気か」と怒り狂ったが、外祖母は一息深呼吸し「幸子の言うことも考慮したら」と言い、夫の怒りを鎮めようとするような口ぶりで呟いた。
幸雄はある組織に追っかけられている、彼らに監視されていると度々訴えるようになり、終日怯えながら、自室に閉じこもるようになった。打つ手が無くなった外祖父は渋々自分の兄貴に電話をかけ、幸雄の現状を事細かく説明した。そして、衰えが少しづつ進行している老体に残る全ての勇気を奮い起こし「明夫さんに一度様子を見に来てもらえないだろうか」と電話機を前にして平身低頭した。
外祖父の3歳年上の兄又三は神保町で料亭を経営していた。又三はその料亭の三代目の主人となる。若い頃、この料亭で板前をしていた外祖父の隆彦は些細なことで兄の又三と仲違いし、隆彦は又三との喧嘩の仲裁に入った自分の父の支援を得て、横浜の伊勢崎町で料亭を開業した。それ以来、この兄弟はお盆の法要の時以外、顔を合わせることが殆どなかった。しかし、又三は隆彦から電話をもらったことが嬉しかった。懐かしさも手伝い、又三は涙を流しそうになった。甥の幸雄のことが心配になり、すぐに長男の明夫が勤務するT大学部の精神科に勤務する明夫に電話し、従兄の幸雄が陥っている惨状を説明した。
明夫は都内の国立大学T大学の精神科医局に在籍し、薬物やアルコールを含めたあらゆる依存症の研究及び治療に従事していた。幸雄とは従兄ながら父親同士が半目しあっていた関係で子供の頃に遊んだ記憶はほとんどない。しかし血縁のある従兄のひどい状況を無視するわけにもいかなかったので、父親の又三の往診の要請を電話で受けた時二つ返事で了承した。日曜日は休みだったが、午後に東京精神科診療所協会から講演の依頼を受けていたので、夕方に幸雄の様子を見に行くことにした。又三も同伴することになった。又三と外祖父が仲直りをするため久々に夕食を共にするという口実を設け、幸雄に無用の警戒心を抱かせぬよう配慮した。
日曜日の夕方に明夫は父の又三をともなって、外祖父の料亭を訪れた。その日は料亭を休みにし、板前に外祖父自慢のフグ料理で又三父子を接待した。幸雄も夕食会に同席させたが、終始不機嫌で何が気になるのか、目が泳いでいた。何か突っ込まれるのではないかと動揺し、その動揺を隠したいという心理が働いていた風にも見えた。幸雄は明夫とそれほど親しくはないが、外祖父の影響もあってか、明夫を幼少の頃からライバル視していた。2歳年上の明夫がT大の医学部に合格したと聞いたとき、自分もT大の医学部を受けると言い出した。「自分の才能をもってすれば世界的に有名な外科医になる」などと自分が偉大な医師になるのは自然の理であるとでも言うように触れ回った。