母親の出自
このような実情もあり父は大きな不満を抱きながらも、毎日の診療や週2回、午後2時間の大学での非常勤講師としての任務を黙々とこなしていた。父はは未だに教授職に対する未練を捨てきれず、母校が無理なら地方の国立大学、いや私立大学でも構わない、とにかく教授ポストに就くよう出身校の精神科教授から声がかからないかと心底期待していた。しかし、よしんばそのような話が舞い込んで来ても母がそれを許すわけがない。ましてや母の地元を離れ、別の地方へ赴任することなど父にとって許されることではない。
しかし、父は引け目を被りながらの日々は我慢ならなかった。最高学府の出身者ならではの苦悶だ。慶応、慈恵、日本医大など私立医学部の御三家以外の私学の出身者なら、開業し、経営が軌道に乗れば自分を成功者と見なすことができるだろう。元より、父はこの程度の目標では満足するはずもない。絶えず他人の評価を気にするのが父の性質だ。国内でなくても、海外の大学から招聘されないものかとも期待を膨らませた。父は若い頃アメリカ西海岸にある医科大学に2年ほど留学したことがあり、精神疾患研究の最先端を目の当たりにした。さらに、まだ大学の医局に在籍していた頃、先代の精神科教授にチェコのパラツキー大学の精神神経研究所へ交換研究員として派遣された。父は海外滞在中に多くの英語論文を書いた。学者としての実績は英語論文の本数によって評されると言っても過言ではない。
母も父と同じく仕事人間であった。実家は、由緒ある料亭で地元においては名家と言われる存在であった。実は、母の両親能力他界後、膨大な額の財産を相続する。巨額の現金資産だけでなく、外祖父が経営していた料亭のあった土地、今診療所が立つ土地、一家が居住する山の手にある高級住宅、その他に不動産としては今は大型書店がテナントとして入っている駅前の一等地など全て母が継承した遺産だ。現金資産や不動産以外に外祖父が大量に保有していた優良企業の株券などがあった。外祖父は好色家であったが、何故か子を一人しか成せなかった。その男の子、幸雄が将来伊勢崎町の料亭の後継と目されていた幸雄であった。孤児が多かった、昭和の初め頃、外祖父は幸雄の将来の世話をするため、本家の山倉一族から子沢山の兄又三の次女を養女に迎えようと考えたが、山倉家を良く思わなかった外祖母が猛反対したため、外祖父は児童施設に託されていた女の子の孤児を養女として迎え入れようと考えた。しかし、児童施設は道楽者の外祖父の素行について良く調べていて、児童施設も家庭裁判所も外祖父はが希望した養子縁組を許可しなかった。そこで、外祖父は自分が戦前から頻繁に遊びに通っていた遊女屋から母をもらい受けて来たのだ。外祖母はこのような養子縁組を不服に思ったが、自分の産んだ幸雄を将来世話するのは身内である必要があると確信していた外祖母はこの話を渋々受け入れた。何故養女であった母が長男で実子の幸雄を差し置いて外祖父の莫大な財産を相続したかについては後に書く。