香港への研修旅行の準備
その年の夏は暑かった。外祖父の百カ日法要を無事に取り仕切った幸子は、料亭の改装に取り組む心の準備ができた。しかし、実際のヤムチャ館の運営、出す料理の研究、お店の建築方式などを現場で自らの目で確かめる必要があった。それには香港に行く必要がある。単なる観光旅行とは違う、研修旅行だ。期間はあまり長く取れないので、十日間の旅行にした。この短い研修旅行の間にヤムチャのシェフの採用もしたかった。幸子は高校時代の同級生に父親が横浜中華街でヤムチャを含む高級広東料理の店を経営する林梅蓮がいた。頭脳明晰で幸子と同じく語学に関しては格別の才能を有していた。父親が広東中山の出身だったので、林梅蓮は広東語にもよく通じていた。中学までは横浜山手のインターナショナル・スクールに在籍していたので、英語もネイテイヴ同然だった。今は、幸子が最近退学したJ大のポルトガル語学科に通っていた林梅蓮がポルトガル語を学習しているのには理由がある。
彼女の父のお店の調理スタッフは全て広東語圏の本場の料理人であった。「本場のシェフが産み出す味は日本人のシェフと比べたら、雲泥の差よ」とよく彼女は幸子に言っていた。ビザや家庭的な理由で日本に長期滞在できないシェフも少なからずいて、お店は絶えず一流の料理人を補充する必要があった。そのため、香港に限らず林梅蓮は彼女の父親に連れられて香港や台湾(台湾にも広東人がいる、蒋介石が大陸から台湾に渡って来たときに一緒に広東から台湾へ逃亡して来た人たちだ)へ旅してシェフや食材探し、有名料理店での試味をした。マカオも広東語圏でヤムチャの一流料理人が豊富にいる土地だ。当時はポルトガル領のせいだったからか、人柄も香港人に比べ、純朴でおおらかな人が多かった。林梅蓮の一家は広東中山の出身でマカオとは隣接している。従って、彼女のお店にはマカオ出身者が多い。マカオ出身者は広東語以外にもポルトガル語を話す。マカオ出身の職員の信頼感を得るために林梅蓮はポルトガル語を学んでいるのだ。
その年も晩秋になり、香港へ旅するのには最適の季節を迎えた。香港は東京、ロンドン、ニューヨーク、シンガポールと並ぶ世界都市の一つである。(今は上海もここに含まれる)。ヤムチャ(飲茶)は中国広東省、香港、マカオを中心に行われている習慣で中国茶を飲みながら点心を食べることである。華僑や華人が多い、中国国外のチャイナタウン、例えばサンフランシスコやニューヨークなどでも本場さながらの飲茶が楽しめる。ヤムチャの習慣は起源をたどれば、喫茶の習慣が本格化した唐代にまでさかのぼることができる伝統と歴史のある習慣でもあり、料理法でもある。
林梅蓮に香港への旅行の目的を説明し、電話で同行を依頼したら、林梅蓮は運良く快諾してくれた。幸子は良い友に恵まれた。ヤムチャ・レストランを開くのなら、まず一流のヤムチャ料理人を雇い入れることが順序だ。一流のシェフは一流のヤムチャ・レストランの要だ。これでシェフは何とか確保できる可能性が高くなった。幸子は香港の研修旅行への件や、林梅蓮が同行してくれることなどを外祖母に伝えた。林梅蓮に同行して貰えることは本当にラッキーなことである。林梅蓮は横浜中華街の老舗高級広東料理店の成華楼社長の林雄国の愛娘だ。一人っ子なので、父の林雄国の監督のもとマンーツーマンで大学から帰宅次第、後継者になるため特訓を連日を受けていた。従って、この頃、林梅蓮はとても忙しい毎日を送っていたのである。林雄国は横浜中華街の長老で当地の華人協会の会長でもあったが、最近になり、糖尿病およびその合併症が悪化して来ており、後継者の育成を急いでいた。林雄国にとって、自分の後継者になるのは一人っ子の林梅蓮しか考えられなかった。
最初、林梅蓮から同級生の山倉幸子の香港旅行に同行したい、と聞いたとき、林雄国は反対した。店の経営者が十日も店を空けてはいけない、と娘を説教した。滅多なことでは父には反抗しない林梅蓮は幸子の要請を断ることは全く考えられない、と父に反論した。父親との一時間にもわたる言い合いの末、林雄国はある用事を娘に託し、娘がその要請を応じてくれたら幸子との香港旅行を許可するということになった。ちょうど成華楼には一人広東料理の料理人が病を発症し、病状が長期化しそうな状況になったので、林雄国は娘に新たな料理人の候補を香港で探し求めて来て欲しいということだった。
高校時代、幸子と仲の良かった林梅蓮は頻繁に山倉家に遊びに来ていた。南神奈川の海は若者の憧れの夏の遊び場である。サザン・オールスターズの地元でもある。よく、幸子と梅蓮と二人で南神奈川の海で遊んだ。外祖母は香港旅行に香港の事情に詳しい林梅蓮が同行してくれると聞き、安心し、また大変喜んだ。外祖母は高校時代の林梅蓮をよく知っていて、素直で清楚な彼女のことをとても気に入っていた。林梅蓮も学業と実家のお店の仕事で多忙なのだ。それにもかかわらず、十日もの長い旅行に付き合ってくれるという。外祖母は林梅蓮の善意に感謝した。しかし、外祖母が心許なく感じたのは幸子が林梅蓮の好意に対し、スズメの涙ほどの感謝心も感じていない様子だった。まるで自分のためならそうすることが当然と言わんばかりの幸子の得意げな表情を外祖母は不気味に感じた。この頃になると、幸子は改装を待つ、料亭の中のどこかの部屋に用があって顔を出したら、たまたまそこで仕事をしていた使用人は決まって直立し、幸子のために急いで急須にお湯を注ぎ、新茶を入れるほどの威光を身につけていた。外祖母も使用人たちも幸子の顔色を伺いながら料亭廃業の準備を進めて行くようになって来ていた。