幸子の台頭
泰造の暴力行為は刑事事件と検察官により判断されされ、起訴されることになった。幸子や外祖母は、事件が起こる前から、泰造を解雇することを決めていた。もし料亭をダイナーかヤムチャ・レストランに改装したら、泰造の仕事場がなくなる。外祖母は料亭の実際のオーナーだったが、泰造に解雇を言い渡す勇気と度胸を欠いていた。外祖母は泰造を鬼のように思い、恐れていた。幸子がその任務を果たすしかなかった。しかし、刑事事件を起こしたが故に、泰造を即解雇することがはるかに容易になった。泰造は自分で自分の首を絞めたような格好でこの騒ぎの幕は降りた。
もう昭和の時代も三十年目に入ろうとしていた。アメリカからジーンズなどのファッション、ポップス、ブルース、ジャズなどの斬新な音楽、日本映画になかった躍動感のあるハリウッド映画などがどんどん日本に入って来た時代であった。幸子はこれらの新しく、格好の良いものを愛好した。勢いあまって、アメリカの食文化を代表するダイナーの開業まで一時は考えたが、今ではむしろ料亭を廃業したあと、中華料理系のヤムチャ・レストランを開業することに考えが傾いていた。日本には明治の時代から横浜や神戸に中華街が形成され、そこから派生した中華料理が全国に普及した。しかし、時代とともにそれらの中華料理は日本人の好みに合うように修正が加えられ、本場の味は幾分か形骸化されつつあった。それでもダイナーの料理よりは中華系の料理の方を日本人は好むだろう。(その後、中国が文化大革命に終止符を打ち、新たに改革開放政策が採用されるようになってから、たくさんの中国人の移住者が主に横浜と東京に移住し、再び本場の中華料理の味を普及させた。中国大陸だけではなく、台湾からの新来者もこの時期に増加し、本場の中華料理の味を提供した。因みに、ヤムチャを日本に普及させたのは香港出身の中国人である)。
ヤムチャの本場は香港やで、その発源地は中国の広東省である。香港は当然ながら中華の文化的要素が最も濃い地域だが、香港はアヘン戦争後より英国の植民地統治を受けており、西洋文化の要素も少なからず認められた。そのことも幸子が香港そしてそこの名物料理であるヤムチャを好きになる要因となった。料亭廃業の後、幸子はヤムチャ・レストランを開業する方向に心が傾いた。
伯父の又三にも相談したが、又三もヤムチャ・レストランの開業の方を薦めた。又三も弟の死後は弟の料亭の経営を維持するのは無理だということを感知していた。泰造の料理の腕の稚拙さと時代の流れに伴う料亭をめぐる環境が幸子の料亭廃業の決断を動機づけた。そんなこともあってか、幸子はダイナーの開業よりはヤムチャ店の開店の方が経営的に無難だという確使用人を解雇するのはそれほど難しくはなかった。地元の信用金庫からの借入金から一人一人に退職金を払った。料亭廃業後も新しく開店するヤムチャ・レストランに残って仕事をしたい人にはそのような選択肢を与えた。長年料亭で働いて来た人の方が気心が知れていて、使いやすい面もある。一方、絶対に解雇したいという使用人たちも多くいた。例えば、泰造と徒党を組むように調理場を支配していた板前や調理助手及び彼らに同調していた中居の幾人かの使用人。彼らはことあるごとに外祖母や幸子の意向を組もうとする使用人たちの行動を陰険に妨害して来た。幸子はその中の板前の一人の亮司をある好条件を餌にし、言葉巧みに彼を懐柔し、泰造らの一党の動きを幸子に直接報告させ、この一党を仲間割れさせようと画策した。泰造らの一党から幸子側に寝返った板前は歳もまだ二十代前半と若く、調理のセンスは群を抜いていると幸子は見たので、ヤムチャ・レストラン開業前に彼にヤムチャの調理法を仕込むため、半年間の香港留学の費用を負担することを約束した。これが幸子がこの若い板前の亮司に提示した好条件である。
誰を解雇し、誰を残すかの決断は全て幸子に委ねられた。泰造の事件の後、外祖母と幸子の関係は母子の関係から幸子が上に立つ主従関係に変わっていた。幸子は使用人を整理する過程で人の運命を支配する喜びを知ってしまった。残ることに決めた使用人の中にはまだ幸子でなく外祖母を主人とみなす人も数名いたが、今や外祖母は幸子にただただ盲従する存在に過ぎず、幸子は外祖母を如何様にも操作することができた。こうして幸子は人を操作し、巧みに扱う愉楽をも覚えてしまった。