料亭からダイナーへそれとも飲茶レストランか
幸雄が不慮の死を遂げてから三ヶ月後に外祖父は心筋梗塞を起こし、急死した。料亭の経営は不景気もあり、また戦後アメリカ文化の影響もあってか、料亭を利用する人は日を追うごとに右肩下がりとなっていた。それに伴い、山倉家の生計も日々苦しくなって行った。しかし、幸子は里子として山倉家へ迎え入れてくれた外祖父に対する感恩報謝の気持ちから、そして今後地元での自分の存在を確固したものとするためにも外祖父の葬儀は盛大に執り行った。地元の市長や市役所の幹部職員、地元に大きな工場を持っていた大手自動車会社の工場長、市議会の議長、地元医師会長や農協の会長、地元信用銀行の支店長などかつては外祖父と親交があり、また料亭の常連客であった人々も参列した。
幸子はここで思い切り借金をして、かねてから夢見てたように料亭を廃業して、お店を大幅に改装し、アメリカ風のダイナーを開店する計画を立てた。料亭を廃業する計画を外祖母に説明したら、二つ返事で幸子の計画に賛同した。ダイナーとは何やら全く理解していない外祖母だったが、料亭の経営の悪化に歯止めがかからないことと二十年もの長い間、外祖父のもとで働いてきた板前長の泰造が不満を募らせていたことで外祖母は頭を悩ませていて、神経症の状態にあった。外祖母はもう外祖父が開業した料亭に未練はなく、体力と気力の低下も手伝ってか、しっかりものの幸子に全てを任したい、というのが本音であった。ダイナーとは北アメリカに特有のレストランであり、当初はアメリカの北東部に多くの店が存在したが、今ではアメリカ及びカナダ全土で見られるレストランの一種である。ダイナーの主な特徴は、アメリカ料理を中心としたメニュー、一見してそれと判る外観、気取らない雰囲気、店内にカウンターがあること及び深夜営業である。アメリカではダイナーは地元の幅広い層の住民を惹きつける場所で、ダイナー自体がアメリカ文化の一端を担っていると言っても過言ではない。エドワード・ホッパーの代表的な絵画「ナイトホークス」は、深夜の孤独なダイナーと、その内部の客達を描いている。ハリウッド映画の「ダイナー」は1982年に製作されたアメリカの青春映画。ダイナーを溜まり場にする、大人に成りきれない五人の若者の悪ふざけと、他愛のない会話をオールデーイズナンバーにのせて描写している。映画「バックツーザーフューチャー」にもダイナーが若者の行きつけの場所として映画の重要な背景の役割を果たしている。
戦後、日本にもアメリカ風の民主主義が根付き始めた。(それが良いことなのか悪いことなのかまた別の話である)そのようなときににダイナーを開店するのを幸子はチャンスを呼び込む一種の商業的なかけだと思った。幸子は自分は生まれながらにして幸運の女神がついていてくれていると信じていた。ダイナーはアメリカにおいては大衆的な食堂であったが、日本においてはダイナーの伝統がなかったため、必ずしも大衆的なレストランになるとは限らない。但し、幸子はダイナーを料亭のような特定の常連客だけに飲食や談話の空間及び料理を提供する飲食施設にはしたくなかった。また、幸子は料理屋に芸妓が出入りすることを嫌った。地元だけでなく、近隣の町からも様々な人たちが家族団欒で食事をしに来るような料理店にしたかった。加えて、地元に戦前から陸軍の基地があったが、前に書いたように戦後その基地は米軍基地に変身した。そこからの米兵たちの来店もかなり期待していた。スシ・ブームのはるか以前、当時の米兵たちは日本食を食べようともしなかった。食事は基地内の食堂で食べるしかない。故郷の味が恋しくなり、ダイナーを訪れる米兵も多く見込めるだろう。従来の日本の和風化したエビフライ、ビフテキ、コロッケのような洋食屋でもなく、帝国ホテルの高級フランス料理とも違うアメリカ本場のアメリカ料理を提供すればその新鮮さからダイナーの開業は大きな商業的成功になると信じて疑わなかった。
ダイナーではハンバーガー、フライドポテト、各種ピザ、アメリカクラブハウスサンドイッチ、パンケーキ、グリルドチーズサンドイッチなど、一般的なアメリカ料理を提供する。当時、ほとんどの日本人が食したことのないメニューである。今までにないものを世に出し、それが大衆に受け入れられれば、傾きかけた一家の生計はまた繁栄すること間違いない。
しかし、ダイナーの文化、ダイナーが提供する食事が日本人の口に合うかどうかを幸子は大いに心配した。まだマクドナルドも日本に進出していなかった。横浜の元町まで行けば、ハンバーガーを提供するジャーマン・ベーカリーという外国人もよく訪れる西洋料理店があったが、地元アメリカのハンバーガーの味とはかけ離れていた。ダイナーを大量の開業資金を融資してまで用意して、客足が確保できなかったら、どうしよう。自分の趣味だけで新たな事業に着手するのは無謀ではないかとの危惧感が幸子の脳裏を去来した。地元の米軍基地の米兵だけに頼る商売にだけはしたくなかった。当時、日米安保反対の運動が盛り上がっていて、いつ米軍が撤退するかも知れないことも憂慮した。
料亭はどうしても廃業したかった。幸子が里子として山倉家に迎え入れられた頃の暗い時代、幸雄が非業の死を迎えるまでの鬱々たる経緯などが思い出される。前にも書いた通り、幸子は当初アメリカ風の大衆食堂ダイナーの開業を考えたが、外祖母に一度料亭の顧問弁護士に相談したらどうかと提案された。この弁護士はダイナーの文化は日本に根付かないだろうと自分の意見を述べた。白髪混じりの髪型をした清潔感があり、長身で誠実な印象を与える弁護士だった。彼は飲食店の経営に詳しく、外祖父は法律に関する相談以外に料理店経営についての相談もこの弁護士に度々アドバイスして貰っていた。弁護士は最近、同業の弁護士三人と香港へ旅行したらしいが(ちょうど飛行機による海外旅行が可能になった時代だった)、そこで食べた広東料理の一種の飲茶が「偉く美味しかった」、「ダイナーよりは飲茶店の方が日本人の好みに合うかも知れない」と自分の意見を幸子に話した。
幸子は顧問弁護士の話に真剣に耳を傾けた。話し方に説得力があった。弁護士の依頼者の多くが飲食業関係者であったということもあり、飲食業界の動向を絶えず探っていて、この領域については先見の明があった。幸子も一度だけだが、赤坂の中華料理店で高校の同級生とヤムチャを食べたことがある。日本に従来からある、ラーメン、餃子、ニラレバ炒めなどの町中華と比べ、何と味が洗練されていておいしいのだろうと感心したことを思い出した。比較的広い国土を持つ中国では各地方の気候・地理・歴史・食材・食習慣の違いにより、独自に形成された調理法、味付けの料理法がある。中国では八大中華料理という地域分類が最も一般的に用いられている。日本においては、四大中華料理という分類が一般的だ。ヤムチャは広東省広州市の料理を基本に中国各地の手法を取り入れて発展した。広東、香港やマカオ地区では朝に点心を食べながら茶を飲む習慣が根付いており、後には午後のおやつや昼食として点心を食べ、併せて茶を飲む。点心と各種の茶がヤムチャの重要な要素である。お茶の主流はプーアル茶、水仙・鉄観音などの烏龍茶、菊花茶、寿眉茶などだ。今では広東や香港以外にも各国の広東系華僑が多く住む地域においては家族、友人らとの様々な会話が飛び交うヤムチャの店は、なくてはならない文化となっている。
幸子は廃業をするにあたり、事前準備をした上で、廃業後に各役所へ届けを出しに行かなければならない。そしてから、長年お世話になった取引先に廃業する旨の連絡をする必要がある。何度も書くが料亭の経営状態は思わしくなく、生計は苦しかったが金融機関から融資を受けるほどは困窮していなかった。最も辛いのが従業員を雇っていたので、廃業する旨を伝えないといけないことだ。使用人の中では二名ほど幸子が里子として迎え入れられたとき以来、幸子の世話をして来たものもいる。その二名は残ってダイナーかヤムチャ店になるのかまだ分からないが、残って働いて貰いたかった。それ以外に、廃業してから一ヶ月以内に税務署への届けも済まさなければならない。廃業を決めた年、幸子はJ大の二年生だった。私学なので学費も決して安くはない。大学は都内の中心部にあり、幸子の南神奈川にある地元から通学するのにはそれなりの交通費がかかった。幸子は決断するときは疾風の如き早かった。思い立ったら吉日と次の日には大学の教務課へ退学願いを出しに行った。幸子は語学に関しては格別の才能を有していたので、英語教育で高く評価されていたJ大は何とか幸子を引き止めたかったが、幸子の決意は固く、教務課まで退学を思いとどまるよう説得に来た外国学部長の説得にも耳を貸さなかった。