起点-2
『拝啓 金木犀の香りが格子の間を抜けて届く季節に季節の移ろいを感じます今日この頃、先生はいかがお過ごしでしょうか。俺は相変わらず病気のひとつもなく元気です。牢獄では体力と時間ばかり有り余ってしまうので、前回の先生からのお手紙にありました屋敷の掃除、俺も手伝いたかったです。俺と過ごしていた時も執筆活動ばかりで運動をまともにしなかった先生が一日中掃除など、正直あんまり想像ができません。
……すみません。言いすぎました。
閑話休題。今月ですが、そろそろ先生の誕生日が近くなってきましたね。先生の歳がいくつか分からないまま、今年も離れた牢獄からでしかお祝いできませんが、次の手紙の解禁月だと誕生日が終わってしまうので、せめてこのいつもの手紙の中でお祝いさせてください。手紙でお祝いをするのももう十回は超えていると思いますが、いつか出られたら、たくさんお祝いさせてください。おめでとうございます。
いつも腹出して寝ていたので朝夜の冷え込みにはご注意ください。お体をお大事になさってくださいませ。 敬具
玲治三十五年 十月一日 截』
丁寧に皺の寄らぬよう三つ折りした手紙を茶封筒に滑り込ませ、封をする。封筒の表側に書いた宛名が間違っていないか確認して、截はそれを待ってくれていた看守に手渡す。
「お待たせしました。よろしくお願いします」
「遅い。手紙くらいさっさと出せ」
古木が端正に並ぶ格子の隙間から差し出すと、ぶっきらぼうに取られる。最速で皺の寄った封筒を上着の内側に押し込めながら、藍色の軍帽を深くかぶった看守は酷く不機嫌そうに鼻息を鳴らした。
「すいません。気を付けます」
三ヶ月に一度しか書けぬ手紙だ。もう少しくらい大事にしてくれーー。青年はそう思ったが、口に出すことはなかった。看守には逆らわないほうが良い。囚人として過ごした十二年で得た常識が、齢十九の青年から謝罪を引く出させる。例え己に悪気がなくとも、看守に迫られたらとりあえず謝っておけと、年上の囚人も言っていた。ちなみにそいつは何度も看守に対し暴力を振るった上、巷では禁書と呼ばれる本を警備倉から勝手に盗み読み、今は独房に入れられている、らしい。
なんにしても部を弁えろ、ということだ。
一人頷いていると、もうこの場を去っていたとばかり思っていた看守が帽のひさしの下から訝し気な目線を寄越していた。
「な、なんですか」
さも「お前のような囚人とは話したくもない」と言いたげな視線を受け流しながらおずおずと返す。
「囚人番号一〇八七番、お前、名前はなんと言ったか」
「せ、截です」
「本日の仕事はあるか」
「えと……工場で作業があります」
「工場は免除だ。午後に面会がある、覚えておけ」
「えっ、わかりました」
淡々と言うだけ言って去ってしまった。カツカツと響く足音が遠ざかるまで青年――截は黙ったままだった。この牢に閉じ込められて長らく番号だけで呼ばれていた為、久しぶりに口にした己の名前に少し違和感がある。せつ、截。そうだ、俺の名前はじいちゃんから貰った大切な名前だ。截は声に出さず、ゆっくりと口の中で噛み締める。直截、直截簡明。真っ直ぐで、迷わず躊躇わず生きろ。そういう願いを込めてやったと、じいちゃんは言っていた。截はこの名前を大切にしていた。
でも、そんな自分に面会しに来る知り合いなんて、截はまるで心当たりがない。なんせその唯一の記憶にある人物がじいちゃんしかいないのだ。
「……もしかしたら、じいちゃんが会いに来てくれたのかな」
小窓から金木犀の香りが漂ってきた。ひとつの希望に辿り着いた気がして、截は期待に少し胸が膨らむのを感じた。