You gotta chance!
「ああもう! 納期直前に仕様変更とかありえないんですけど!」
がんがんという鈍い音でキーボードを叩きながら、沙由は薄く光る画面に言葉をぶつけた。
時刻は十九時二十五分。本来公休と指定されている土曜日のオフィスには、私と沙由以外の姿は見られない。
今日だけでも二桁回は聞いた彼女の呪詛通り、納期直前になってクライアントからの仕様変更要望があったため、私たちは休日を返上してパソコンの画面と睨めっこを続けている。
平たく言えば休日出勤。慣れてしまった私とは違い、入社して数か月の沙由の機嫌を損ねるには十分な出来事だったようだ。
インスタントコーヒーで喉を潤わせ、私はなだめる様に彼女の頬を突いた。
「もう何回も聞いたよ。耳に胼胝がたくさんできちゃう」
「だってぇ。あんなにたくさん会議もしたのに……」
「そうだよね。でも、仕様変更は珍しいことじゃないから」
「せっかくの休日が台無しですよぉ」
膨らんだ頬の弾力が、私の指を押し返す。まったくもってその通りであるけれど、代休も貰えるし手当もしっかり支給されるから、労働力の前貸しと思えば痛くもない。
むしろ徹夜を避けられる猶予があるだけ、この仕様変更はマシな部類に入るのだ。この感性が会社からの洗脳に近いことは、沙由の反応を見て何となくわかった。
今回の私は彼女の教育係として作業を手伝っているだけ。私としては可愛い後輩が憤慨している以外のマイナス要素は見当たらない。
私はデスクの一番下の引き出しからチョコレート菓子を取り出し、むくれる彼女の口にそれを放り込んだ。
キーボードから手を離した沙由は、「あまぁ」というとろけた声を漏らし、黙々とチョコレートを咀嚼し始める。彼女の動きに合わせて、椅子が低い金属音を奏でる。
「おいしい?」
「おいひいでふ。お菓子くれる雪さん好きー」
「ふふっ、よかった。ちょっと休憩しようか」
「わーい」
もう一かけら沙由の口にチョコレート菓子を放り込む。彼女は一口目のような多幸感に溢れた表情を浮かべて口を動かした。
小動物に餌を与えているような気分だ。ナチュラルにこういった仕草が出来る彼女は、同性の私から見ても可愛いと思える。おまけでいえば、こういう可愛げが自分にもあれば、なんてことも思う。
――そんなものがあったってどうせ持て余すくせに。
一日オフィスに張り付いていた疲れは、しっかりと私に無駄な思考をもたらしているらしい。
一服しに行こう。私は沙由の頭を撫でて立ち上がり、ポーチを片手にオフィスの出口へと足を進めた。私の背中に張り付くように、沙由も腰を上げる。
「煙草ですか?」
「うん。コンビニまで行くけど、何か買ってこようか?」
「いえ、あたしも行きます!」
鞄から財布とカードキーを取り出した彼女は、私の背中にぴったりと張り付きながら足を動かした。
非喫煙者の彼女をわざわざ温い空気の中に連れ出すのは気が引けるけれど、本人がそう望むのであれば遮ることもあるまい。
私は小さく笑みを返し、彼女を連れ近所のコンビニへと向かった。
ビルから出ると、溶けたチョコレートのようにどろりとした湿気が私たちを包み込んだ。
八月も終わりに差し掛かっているけれど、夜にはまだまだ涼しさがない。いっそ空気がからりと乾いてくれていればいいのに、水分を多く含んだ空気が息苦しさを後押しした。
私が意地でも口にしなかった言葉を、沙由はあっさりと吐き出した。
「蒸し暑い……」
「そうだね。欲しいもの言ってくれれば代わりに買ってきたのに」
「いいんです! 雪さんと一緒なら、この暑さももはやご褒美です!」
沙由はアスファルトを力強く蹴り、私の腕に絡みついた。じっとりとした汗の感触を覆うほどさわやかな香水の香りが流れる。
コンビニまで徒歩五分。懐いてくれるのは大いに結構だけれど、暑いので勘弁して欲しい。
そんな彼女越しに駅のほうを見ると、休日というだけでは説明がつかないほどの人の流れが、駅から溢れている様子が映った。
浴衣で歩くカップルや笑顔を咲かせる家族たちが、どこか一点を目指し足を進めている。
浴衣、団扇、首元の涼しげなアップヘア。夏だな、と思った。蒸し暑さでは想起されなかった感想が、瞬く間に私の気分を上げる。
近くでお祭りでもやっているのだろうか? 私は腕に絡まり続ける沙由に尋ねる。
「人が多いね。何かのイベントかな?」
「きっと琴川の花火大会ですよ!」
「ああ、なるほど」
琴川、会社から二十分程歩いた場所にある一級河川。毎年この時期になると、有名な花火大会が開催されており、遠方から足を運ぶ人間も少なくない。
私と同じように人混みに顔を向けた沙由は、小さく息を吐いた。
「いいなぁ花火大会。今年は全然夏っぽいこと出来なかったし、彼氏と行きたかったなぁ」
つまらなさそうな言葉尻に合わせ、彼女の腕にきゅっと力が入る。休日出勤に何度も文句を言っていたのはそういうことだったのか。
私は薄く笑みを返し、薬指にはめた指輪をそっとなぞった。
「なるほど。そりゃクライアントに毒も吐きたくなるよね」
「いえいえ、あの毒は純粋な毒ですよ」
「えっ」
どうやら早計だったようだ。沙由は私から身を離し、堂々と胸を張った。
「この問題の焦点は、あたしに彼氏がいないことなのです!」
「ああ、そっちか」
目視できる距離まで迫ったコンビニを背に、沙由は器用に足を動かした。
「仕事ばっかりで出会いもないし、職場には恋愛の気配もないし……。はぁ、恋がしたい」
「同期の金山君は? 仲良さそうじゃん」
「あんなクソガキ、恋愛対象として見られませんよぉ」
「ひどいこと言うね」
そう言いながらも、私は肩を揺らして笑った。沙由は時折とても言葉が汚い。でも私は沙由のそういう取り繕っていない俗っぽいところも嫌いじゃない。
私たちはそのまま冗談を言い合い笑いながら、いつもより混みあったコンビニで買い物を済ませ、灰皿の元へと向かう。
ただ灰皿が一つ置かれただけの喫煙所には、珍しく人影が見られなかった。
私がポーチから煙草とライターを取り出すと、それに合わせるように沙由はパックジュースにストローを通した。
誰かが吐いたであろう唾液の痕、名前も知らない気味の悪い虫の死骸、立ち込める紫煙の匂い。景色のどれを切り取っても美しいとは言えない喫煙所から眺めると、未だ途切れず踊るように流れる人混みが、異国の風景のように遠く見えた。
火を着けようと煙草を咥えたところで、沙由が私の左手で光る指輪を見て呟いた。
「雪さんは彼氏さんと花火大会に行かなくて良かったんですか? 仕事に付き合わせちゃったあたしが言うことじゃないとは思うんですけど……」
申し訳なさそうにそう言った沙由の視線から逃げるように、私は煙草に火をつけた。
彼氏という言葉で、私の背中に汗が湧いてくる。じわりと燃える葉先から、ゆらゆらと煙が漏れる。
一吸い。バニラのような甘い香りが肺へと流れ込む。大きく吸い込んだ息を吐き出すと、紫煙が人だかりの姿を隠した。
「今日のことは気にしないで良いって言ってるでしょ? これでも私、沙由の教育係なんだから」
あえて話題を選別して、私は言葉を返した。それを聞いて沙由の眉が更にへの字に曲がる。
「でも、わざわざ休みの日に手を借りて……。すいません」
「謝らなくていいって。そもそもたった半年であの仕事を任されることがすごいんだから」
「いえ、そんな」
「沙由の呑み込みの早さは、教育係としては鼻高々だよ。いつもありがとう」
「雪さぁん」
沙由は微かな鳴き声を上げ、上目づかいで私を見つめた。私の言葉に嘘はない。入社当初の私に比べたら、沙由のなんと優秀なことか。……その本心を逃げ口上に使ってしまったことは問題だろうけれど。
私は煙を吸い込んで、ゆっくりとそれを空気に潜らせた。
「それでも申し訳ないって言うんなら、代休に食べ歩きしたいから付き合って。パワハラで手打ちとしましょう」
「食べ歩き……。行きます! 行きたいです!」
「ふふっ。じゃあ決まりだね」
気持ちの悪い笑みを浮かべ、沙由はストローに口を着けた。
こういうところで「行きたい」という言葉を発してくれるから、私はこの子が可愛く思えて仕方がないのだ。素直で、楽しいも辛いもすんなり吐き出せて、だから助けてやりたいと思える。煙を吐き出すだけの私とは違う。
空いた手で沙由の頭を撫でると、ほぼ同時に少し離れた空から、割れるような音と歓声が聞こえてきた。
花火大会が始まったのだろう。開始に間に合わなかった人達が、空に向け携帯電話を構え始める。
高々と上がる花火が、次々と空を彩っていく。絵の具を流し込んだバケツのように、夏の夜が色を変えていった。
――また吐き出す機会を逃しちゃったな。
じわりじわりと手元の灰が伸びていく。同じ火なのに、こちらには花火のような美しさはまるでない。
「花火が始まりましたね! ああんもう、ビル邪魔ー!」
「オフィスからならもうちょっと見えるかも。戻ろっか」
「はい! 雪さんと花火デート、ふひっ」
「おばか。まだ仕事が残ってるよ」
最後に大きく煙を吸い込み、私は灰皿に火種を擦りつけた。人の流れ混ざらず、オフィスのほうへと足を進める。
花火に対し嬌声をあげる沙由の傍ら、私の頭には白いもやのような思い出が浮かび上がってきた。
『雪乃は最後まで俺を頼ってくれなかったね』
元彼氏が別れ際に言い放った最後の一言。正直思い当たる節は山ほどあった。
弱い自分を見せてがっかりされるのが怖くて、私は誰にも弱音が吐けない。それが良くないことだと思いながらも、嫌なことや辛いことを表面には出さず、平気な顔をしてしまう。おそらくこういったところが可愛くなかったんだろう。
要は臆病者の見栄っ張りなんだ私は。
この指輪だってそう。
別れてから二週間経った今も、私は何食わぬ顔をして薬指にペアリングを付け続けている。
断言できるが、未練などではない。これを外すと周りに弱い自分を露呈してしまうような気がして、外すことができない。結果として残ったのは、彼氏に振られたという劣悪なカードを出し渋っている私。
事実、さっき私は「彼氏と行かないのか」という沙由の言葉から逃げた。しかもかっこいい先輩という隠れ蓑を使って。卑怯な逃げ方をしてまで、弱みを煙に巻いてしまったのだ。
こんな状況がいつまでも続くわけがないのに。
次から次へと花火が上がる。こつりこつりという靴音の隙間から、花火の音が心臓を叩いてくる。
――かっこわるいなぁ、私。
沙由の言葉と花火をきっかけに、情けない自分の姿が浮き彫りになってしまった。
表面を綺麗に取り繕っても、中身は怖がって弱音を吐けない不格好な私。そのギャップに苦しんでいるのは、他でもない自分自身なのだ。
導火線が湿気て打ち上がらなかった想いたちが、ちりちりと音を立てて胸を焦がし始める。
出来もしないのに弱い自分を隠しながら生きるのはもうやめよう。
花火の音に背中を押され、私は薬指にはめた指輪に手をかけた。
「あのさ、沙由」
「なんですかぁ?」
「私が弱音を吐いちゃうような先輩でも、ちゃんと尊敬してくれる?」
あまりに唐突だった私の言葉を、沙由は意外にもあっさりと飲み込んだ。
「あったりまえです! あたしは強い雪さんが好きなんじゃなくて、後輩思いで優しい雪さんが好きなんですから。弱音を吐いてもらえたら、むしろもっと好きになっちゃうかもしれないです!」
沙由は満開の笑みを咲かせて、自信満々にそう言った。最初から台本が用意されていたような、私の欲しいものがたくさん詰まった言葉だった。
最後の一歩を踏み出させるには、十分すぎる一発。私はそっと指輪を外した。
「そっか。ありがとう」
沙由に背を向け、私は空に向けて勢いよく指輪を投げた。明かりの少ない闇に浮かんだシルバーは、瞬く間に目で追えなくなってしまう。
あの先はおそらく川だっただろうか。あんなに軽い物だったのに、私の身体はとてつもない重量から解放されたように軽くなった。
「ゆ、雪さん? いったい何を? ……ゆ、指輪を投げたんですか?」
「うん。あれはもういらないから。雪乃流打ち上げ花火だよ」
「ええー! なんでぇ?」
「実はね――」
大きく息を吸い込み、私は初めて弱みを吐き出した。
目を丸くする沙由の背景で、色鮮やかな光彩がぱちりと弾ける。
心臓を打ち抜くような花火の音は、新たな私を祝うファンファーレのように小気味よく鳴り続けた。