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9.君の笑顔

 エヴァンは原稿を読みながら、こう考える。


 アンナなら、ここを読んでどう思うだろう。


 それは彼が作家として書き続けながら、初めて手にした視界だった。


 一体これは誰に対して書いているのだろうか。


 不特定多数の少女に向けて?


 いや──


 エヴァンは両手で頭を押さえた。


「そうだ、これは……今までの話は……私が〝作家になるために〟書いていたものなんだ」


 彼は〝作家になるため〟に小説を書いていた。


 様々な人気作品から読者に好まれそうな展開をピックアップしてつぎはぎにし、そこから心情を逆算して当てはめ、小説としての形を整えて──


 確かに読者はあるところまではついて来た。だが、やはりそれだけでは限界が来たのだ。


「本当は、〝誰かのために〟書かなければならないんだ」


 かつての幼い自分が、誰かの本に救われたように。


「あの本たちは、きっと作者が〝作家になるために〟生み出したものではなかったはずだ」

 

 〝誰か〟に届けたい。


 一番身近な読者は、アンナだ。


「アンナが喜ぶような話を書けなければ、私に作家としての未来はないだろう」


 エヴァンは部屋から外を眺めた。


「アンナを喜ばせるものって、何だ……?」


 そこには誰かを待ちわびるような、花畑──




「ええ!?一緒に植物園に行こうだなんて、どういう風の吹き回し!?」


 アンナの部屋に再び現れたエヴァンの申し出に、彼女は素っ頓狂な声を上げた。


 エヴァンは妻の放言に憮然とする。


「いいだろ。行きたくなったんだ」

「今度は何の観察?」


 エヴァンはショックを受けた。


「……断じて観察などではないっ」

「またそんなこと言って、どうせ私を使って女の反応の研究でもするんでしょう。ふむふむそうかぁ、なんてね。あのね、私は解剖されるヒキガエルじゃないのよ。もう観察のために私を色々と試すのはやめて下さい。せっかく似顔絵を貰ってうきうきしてたところだったのに、幻滅だわ」

「ち、違……」


 エヴァンはしどろもどろになってから、大きなため息をついた。


「この前アンナが、初めてキスをするなら花畑がいいと言っていただろ」


 アンナはそれを聞くや、愕然と口を開ける。


「え!」

「だから誘ってみたんだが」

「えええどうしたの急に。何かうしろめたいことでもあるの?」


 エヴァンの表情が曇った。


「そんなつもりはなかったが、来たくないならいい……また夕食で会おう」


 踵を返す夫を、アンナは慌てて捕まえた。


「待って。せっかく忙しいあなたが誘ってくれたんだもの、やっぱり行くわ」


 親し気に寄り添って来る妻に、エヴァンは気を取り直したように微笑む。


「……来てくれるか?」

「ふふふ。何だかんだ言って、あなたから動いてくれるのを待ってたの。前みたいにムードもへったくれもないのは御免だけど、今日みたいな誘い方なら乗る気になるわ」


 とはいえ、彼は妻を観察する。女性は順序を大切にするものらしい。


 二人は執事に見送られ、屋敷から植物園までの長い道のりを歩いて行った。




 日は傾き、植物も木も人も、長く影を伸ばしている。


 人のいない植物園は、花の色だけがけたたましい。


 アンナは結婚式以来、久しぶりに見る植物園をうっとりと見回した。


 世界中から集められた植物がここにある。


「シェンブロの植物園はどのように運営されてるの?」

「一族で共同経営している。植物園を守る派閥、学者派閥、プラントハンター派閥があり、年齢や所帯の状況で持ち回りをしているんだ。私は今は学者としてここに残っているが、君と結婚する前、二十三歳ぐらいまでは世界を船で回り、新種を持ち帰るプラントハンターをしていた」


 アンナは目を丸くした。


「まあ。そんな大冒険をしていただなんて、聞いてないわ」

「言ってなかったからな」

「外国を旅したのなら、それで一本小説でも書いてみたらいいわ。私、読むわよ」


 エヴァンは苦笑いする。


「……書いたこともあった」

「え!本当に?」

「だが、出版社に持ち込んでみたら却下された。実体験を元に冒険小説を書いたが、突拍子もなさすぎてリアリティ皆無と言われて」

「事実は小説より奇なり、だったと……?」

「どうもそうだったらしい。こっちは事実を元に書いているものだから、編集者に、冷静過ぎる文と過激な状況との乖離が激しいと指摘された」

「へー難しいのね、小説を書くのって」


 エヴァンは口をつぐむ。


(本当に、難しい)


 実体験が弾かれ、虚構のつぎはぎが好まれることもある。読まれるかどうかということは、作者の努力や意思ではどうにもならないものなのだ。


「……どんなに努力しても、駄目なことがあるんだ」


 それを聞くと、アンナは微笑んだ。


「何?エヴァンったら、もしかして小説家になりたいの?」


 エヴァンが赤くなって黙っていると、アンナがずいと懐に入って来た。


「分かった!あなたがずーっと私を〝観察〟してたのは、小説を書きたいからなのね!?」


 エヴァンは真っ赤になって固まる。


「そうならそうと早く言ってよ!私も小説が大好きだから、エヴァンを応援する。誰だって本業以外の夢や趣味くらいあるわよ、何も恥ずかしいことじゃないわ」


 察しの良すぎる妻。


 しかしエヴァンはこうも思う。


 その察しの良さは、彼女に計り知れない想像力があるからではないか、と。


 危うく相談しそうになったが、エヴァンは秘密を飲み込んだ。


(……こんな察しの悪い変人があんな恋愛小説を書いているなんて、気持ち悪いと思われるに違いない)


 みだりに読者の夢を壊してはならない。彼は深く息を吸い、自戒した。


「……ところで、あのー」


 アンナは沈黙している彼の前で、もじもじと身をよじる。


「初めてのキスは、まだかしら」


 エヴァンは我に返る。


「……いいのか?」

「何言ってるの?誘ったのはあなたの方じゃない」

「……ごめん」


 彼は脳内の恋愛小説を総動員した。


 慣れない指先で少しアンナの顎を持ち上げると、彼女はぶっと吹き出す。


「エヴァンったらかっこつけちゃって、変なの」

「……悪かったな」


 顎に触れた指を、彼女の艶やかな頬に滑らせる。


 アンナは化粧を施した自らの顔にぶつからないように、夫の眼鏡をすいと取った。


 花畑の中、アンナは理想通りのキスをする。


 まだぎこちない二人は、今起きたことが信じられないと言った気持ちでお互いを見つめ合った。

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私あの時、不幸でよかったです。
― 新着の感想 ―
[一言] >実体験が弾かれ、虚構のつぎはぎが好まれることもある。読まれるかどうかということは、作者の努力や意思ではどうにもならないものなのだ。 なんて含蓄のある言葉( ˘ω˘ )
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