8.失いたくないもの
それからアンナはエヴァンと全く口を利かなくなってしまった。
夕餉もその次の朝も、アンナは黙っている。
エヴァンはどうやら自分が彼女の機嫌を損ねる真似をしたらしいということには気づいたものの、仕事が忙しいので放置しておくしか術がない。
今日も仕上げなければならないスケッチがたくさんある。彼女の機嫌に構っているわけには行かなかった。
食事の後、エヴァンは何も言わずに出て行き、アンナだけが食堂に残される。
コリンは彼女の背後で、じっと待っている。
「……辛いわ」
アンナの吐露が始まり、コリンは黙って聞く。
「私はあの人にとって、何なんだろう。今のところ、妻扱いされていないみたい」
コリンは頷いた。
「コリンさんにだけ話すけど、私、あの人を割に気に入っているの。素晴らしい絵を描くし、貴族男性特有の束縛や干渉を全くして来ないし、私の趣味にも理解を示してくれたし」
「……そうですか」
「だから余計に辛い。せっかくの新婚期間なんだから、もっと女性扱いされてみたいわ」
「……」
「あの人はきっと私を〝観察対象〟や〝実験台〟みたいに思ってる。学者の性なのかしら。私の言葉をいちいちメモしてるのよ?信じられない!」
「ご苦労お察し致します、奥様」
「うわべでもいいから、甘い言葉をくれたりしないのかしら。このままじゃ、私、もう限界……」
コリンは天を仰いだ。
その頃、エヴァンはデスクに向かっていた。
いつものように新種の植物を紙に描いて行く。
繊細な線。
ふつと途切れた。
エヴァンは顔を上げる。
いつもと筆圧が違う。自分の手が、どこかおかしい。
「……疲労かな?」
エヴァンは手を揉んだ。
もう一度ペンを取る。
だが、思うように指が動かない。
「……おかしい」
エヴァンはペンを置き、椅子にもたれた。
集中力が続かない。何かが心に引っかかり続けている。
エヴァンは自らの不調に答えを探し出そうとし、壁面のスケッチに視線を移した。
そこにふとよみがえったのは、アンナの笑顔だった。
──あなたが素敵な絵を描くことを知れてよかったわ。才能のある男の人っていいわよね。
その言葉を反芻してから、エヴァンは得心した。
アンナのこと。
あんまり悲しそうに黙っているものだから、何だかんだ気になっているのだ。それで、自身の集中力に陰りが出ている。
「困った……アンナの機嫌を直さなければ、仕事が捗りそうにない」
エヴァンは彼女に再び笑顔が戻れば、また絵を描けそうな気がした。
彼は目を閉じて、今まで読んで来た恋愛小説の頁を繰った。
「……何かを贈ろうか」
しかし今は手元に何もない。出掛けている時間も、今は惜しい。
エヴァンの目の前には真っ白な紙。
彼は閃いた。
するすると、記憶を頼りにアンナの横顔を描く。
光の計算をして、影を入れて行く。
妻の顔を凝視したことはないが、描いてみると詳細に描けた。
大人しそうな唇に、少し太い意思のある眉毛。金色の透き通るような髪。けれど意外とこしのある固い髪。
出来上がったデッサンを眺め、エヴァンは悦に入る。
非常によく似ている。
「アンナは……寝室か」
エヴァンは指で描き上げた紙をひらりとつまみ上げると、まっすぐに妻の寝室へ入って行った。
アンナは寝室で、小説を読みふけっていた。
厳しい現実を生き抜くには、物語で自分を慰めるしか道はない。
変わり者で、分からず屋で、無口で、不愛想な夫。
物語の中には、そんな男性など存在しないのだ。みんな女心を分かってくれて──
コンコン。
ノックの音に、アンナは空返事する。
「どなた?」
「私だ、エヴァンだ」
アンナは飛び起きた。
「な、何の用……?」
「君に渡したいものがある」
アンナは不思議に思って歩いて行き、扉を開けた。
そこには少し神妙にしたエヴァンがいる。
アンナが怪訝な顔で夫の出方を待っていると、彼は一枚の紙を差し出した。
それを受け取り、アンナの瞳が輝く。
肖像画だ。線描の、アンナの横顔。下方にはエヴァンのサインが入っている。
「えっ。これ……私!?」
「そうだ」
「凄い!そっくりだし、それに……」
アンナは顔を赤くした。
「これが、あなたから見た私なのね……とってもきれい」
エヴァンは頷いた。
「アンナは正面より、横顔の方が描きやすかった」
「本当?」
「多分、鼻が上向いているのと、後頭部の形がいいからじゃないかな」
「ありがとう、エヴァン……早速額縁に入れようっと。私の部屋に飾るわ!」
言いながら、アンナは踊り出す。が、はたと足を止めた。
「でも、何で急にこんなものをくれるの?」
エヴァンは少し弱った顔で答えた。
「今日は、デッサンの筆が乗らなくてね」
「ええ!?こんなにいい絵が描けるっていうのに、どこが……?」
「恐らく、アンナのことが気になって仕事が捗らなかったんだと思う」
アンナの時が止まった。
「私のこと……?」
「ああ。だってずっと黙っているから……気になって」
少し怯えるようにこちらを見下ろすエヴァンに、アンナは胸を押さえた。
「エヴァン……気にしてくれたの?私のこと」
「そりゃ気になるよ」
「どうして?」
「……どうしてって……」
エヴァンは急に混乱した。自分の気持ちなど、突き詰めて考えた経験がないからだ。
「とにかく今この瞬間、アンナに笑っていて欲しい。それだけなんだ」
アンナは笑顔で頷いた。
「ありがとうエヴァン。でも、ちょっと私からも言いたいことがあるの」
「……」
「私、あなたの妻なのよ。〝観察対象〟や〝実験台〟ではないわ」
「!」
「ああっ、その顔……図星なのね?あなたが学者気質なのは分かるけど、私の感情をそれらと同列扱いするのは、もうやめて欲しいの」
エヴァンは後頭部を掻いた。
「……分かった」
「でも意外だったわ。あなたが私の機嫌を気にして仕事が出来なくなるなんて」
エヴァンは赤くなった。
「自分でもよく分からないんだ」
「……ふふっ」
「どうやら君がうちに来てから、私は今まで考えたこともないようなことを考えるようになったらしい」
それを聞いてアンナは嬉しくなった。
「きっと、ようやくエヴァンは〝学者〟から〝人間〟になろうとしているのよ。私が来たことで、一方通行ではない関係性を学んでいる最中なのね」
「〝関係性〟……?」
エヴァンは首を捻った。
「……とても大事なことだな」
しかし彼はもう、メモを取らなかった。
エヴァンは再び急いで書斎に引き払う。そして鍵つきの引き出しを開けた。
〝令嬢クリスティーヌの婚姻・5〟原稿をパラパラとめくる。
「……駄目だ。こんなんじゃ」
今日のエヴァンの目には、その原稿の内容はとても色褪せて見えた。
これは小説などではなかった。全て、事象の羅列に過ぎない。
「これをもっといい作品にするには……どうしたらいいんだ?」
アンナの笑顔。
そこにヒントが隠されている気がするが……