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6.才能のある男>強い男

 アンナは段々心配になって来ていた。


 エヴァンの奇行に。


 今日も朝食をひとりで食べるアンナは、目の前のコリンに尋ねた。


「エヴァンって、ちょっと変わってるわね」


 執事は答えた。


「はい、かなり」


 アンナはくすりと笑う。


「女性に不慣れだからどうしたらいいのか分からないのかしらね。悪い人ではないと思いたいんだけど……」


 するとコリンが意外なことを言う。


「奥様。別にエヴァン様のことを待っていなくてもいいのですよ」


 アンナは目を丸くした。


「……待ってなくて、いい?」

「はい。あのような方ですから、奥様がリードしてもいいわけです。エヴァン様はめったなことで腹を立てたりはしませんので、大丈夫ですよ」

「そうなの?」

「私はエヴァン様を幼少期からつぶさに拝見しております。ご両親の躾が厳し過ぎたのもあってか、子どもの頃から大変大人しくていらっしゃいました。ですがご自身の興味のあることにはとても真っすぐで、好奇心に忠実なところもございました」


 アンナはあの偏屈エヴァンにも当たり前に幼少期が存在していたことが、何だか面白かった。


「そう。本当は無口で大人しいのね」


 そう聞くと、何だか奇行夫の本性を暴きたくなる。


「ずっと部屋で待ってないで、私から行ってみようかしら」

「それがいいと思います」

「決めたわ。食事が終ったらエヴァンの書斎へ行ってみる」

「……かしこまりました」


  食事を終えると、アンナは足音を立てぬよう夫の書斎へ歩いて行った。


 執事に扉を開けてもらい、中に入る。


 エヴァンはデスクに突っ伏して眠っていた。


 アンナはその無防備な寝姿に驚く。


 しかし、それより更に驚いたのは──


 顔料を乾かすために無造作に壁に貼ってある、おびただしい枚数の花のスケッチだった。


 アンナはその狂い咲くような美しい花々に引き寄せられ、壁を見上げる。


(……きれい)


 全てのスケッチに顔料で色がつけられ、静かに壁に貼り付けられている花の絵の数々。


 どのスケッチも見ごたえがあり、さながら額縁のない美術展会場のようだ。


 アンナは壁から目を離すと、そうっとエヴァンに近づいて行った。


 眼鏡を外し、小さな寝息を立てて眠っている。


 思えば、彼の寝顔を見たのは初めてだった。


 アンナは膝をつくと、その寝顔をじっと眺める。


(黙ってれば、いい男なんだけどな)


 昨日、急に顔を近づけて来た夫。


(行動がいちいち突然なのが心臓に悪いのよね)


 なぜかアンナの語る〝理想の初キス展開〟を熱心にメモっていた男。


(あのメモ、いつ何に使うのかしら……)




 一方、エヴァンは眠りながら夢を見ている。


 子どもの頃の夢だ。


 目の前には寄宿学校に入るための問題集や参考書が積み上がっている。


「お前は本ばかり読んで!勉強しなければ我がシェンブロ家を嗣ぐ人間にはなれないのだぞ!分かってるのか!」


 勉強が出来なければ、親から鞭で折檻されるのは当たり前だった。


 今は亡き厳格な父と母。


 幼い自分に逃げ場はない。


 あるとすれば、妄想の中だけだった。


 小さなエヴァンはどんなに鞭打たれても本を燃やされても、妄想だけはやめなかった。小説が読めなければ、隠れて書いた。少年が持ち得た、唯一の娯楽。


 それが自分の命を繋いでいたのだ。


「小説がなければ……生きている意味がない」


 シェンブロの美しい植物園と折檻の日々がオーバーラップする。


「小説を書けなければ……死ぬしかない……」




 その時だった。


 ぱちっとエヴァンの目が見開かれ、アンナは「ぎゃっ」と叫んだ。


 エヴァンはアンナを認めるや、がたんと跳ねるように立ち上がってきょろきょろと周囲を見渡す。


 机の周辺を見渡し、ここが現実であることを確認すると、エヴァンは嘆息しながら椅子に再び腰を下ろした。


 アンナが床で腰を抜かしていると、エヴァンが手を伸ばして来て言った。


「……何の用だ」


 アンナはその手に引っ張ってもらい、ようやく立ち上がる。


「あ、あの……」


 アンナはこちらを真っすぐ見上げるエヴァンに言う。


「ちょっと、あなたの部屋に入りたくなって」


 エヴァンは何度か頷くと、デスクの上に放り投げていた眼鏡をかけた。


「何か面白いものでもあったか?」


 アンナが満面の笑みで頷くので、彼はついに原稿が見つかってしまったのだと観念した。


「そうか……見つけてしまったのか」

「はい!あなたの絵の才能を!」


 エヴァンは目を見開いた。


「……は?」

「これ、全部あなたが描いたんでしょ?」


 アンナの指さす方向を見れば、そこには大量の花のスケッチが貼られている。


「……ああ、あれか」


 エヴァンは安堵した。


「あれは図鑑に載せるためのスケッチだ。新種の紹介をする図鑑を執筆中でね」

「とってもきれいね。本物みたい」

「植物学者なら、スケッチが出来なければ使い物にならない。新種を発見しても持って来る間に枯れたりが常だからな」

「それにしてもきれいだわ。額縁に入れても全然遜色ないわよ」

「絵は仕事の範疇なので、別に好きではないが……」

「えー!そんな悲しいこと言わないで。私あなたの絵、本当に素敵だと思う!」


 褒めちぎられて、エヴァンは初めて妻の前で少し笑った。


(……笑った)


 アンナはそれを見て嬉しくなる。


「この内のいくつかは植物園にも生えてるよ。興味があるなら見てみるといい」

「あの広大なお庭ね?行ってもいいの?」

「学者や庭師がうろついている時間は遠慮してもらいたい。夕方なら誰もいないからおすすめだ」


 アンナは窓から庭を眺めた。


 いくつも連なっているガラスの温室。めいいっぱい咲き誇っている花の数々。謎の果樹。


「夕方、行ってみたい」

「今日は……無理だ」


 がっかりするアンナを見上げ、エヴァンは続ける。


「いつか仕事が一段落ついたら、連れて行こう」


 アンナはにこりと笑った。


「今日、あなたが素敵な絵を描くことを知れてよかったわ。才能のある男の人っていいわよね」


 エヴァンはそれを聞くや眼鏡の奥を光らせ、すっと音もなく胸ポケットからメモを取り出した。


 アンナは固まる。


「……詳しく聞かせてくれ。才能のある男がいいという話を。どんなところがいいんだ?」

「またですか?そんなのメモしてどうするんですか?」

「例えば君はどんな才能なら〝いい男〟という判定を下すんだ?強さが〝いい男〟の指標のはずだが」


 アンナはその前時代的な価値観を聞き、やれやれと首を横に振った。


「強さなんか、今の平和な世にはそんなに必要ありません。これからは芸術的な才能が女性を惹きつけると思います。絵もそうですが、音楽や工芸の才能などです。時代によって、求められる男性像は変わって来るものですから」

「なるほど……戦乱が治まって大分立つ。フェーズは既に移行していたか……」

「今の世は、騎士や軍人は人気の対象になりませんね。強さは男性の中でだけ争うものになってしまいました。女性が入って行きにくい分野となって久しいです」

「……経済力なんていうのはどうだ?」

「あればあるだけいいでしょうけど……しかしそれだけを追い求める女性は、今は少ないのではないかと」

「ふむ」

「とにかく、今時の男性はプラスアルファで〝芸術性〟があればモテるでしょうね。何かに特化し過ぎた人は現在、避けられる傾向にあるかと」

「プラスアルファ……?見えて来たぞ!」

「な、何がですか……?」

「ありがとうアンナ!君はいつも私に新しいインスピレーションを与えてくれる!」

「はあ?」


 エヴァンが何やらぶつぶつと呟いていると、急に彼の腹が鳴り出した。


「腹が減った……さらばだ」

「えー!ちょっと……!」


 エヴァンは部屋を出て行き、アンナは取り残された。


「も、もう……!」


 腹は立ったが、再び壁を見上げると、そこには満開の新種の花畑。


 繊細な線が、淡い色が、アンナの心を虜にする。


「こんなに素敵な絵を描ける人なら……悪い人じゃないはずよ、多分」

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私あの時、不幸でよかったです。
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