5.急にメモを取らないで
アンナは部屋に戻ると、ベッドに横になった。
「つ、疲れた……」
暗い部屋で、悶々と一日を回想する。
夫はやはり変わった男だ。
無視していたと思ったら急接近して来るし、妻の服装を気にしたかと思えば恋愛小説に苛立つ。
(振り回されてるわ、私)
夫に関して知らないことが多すぎる。
(そういえば、植物学者って毎日何をしているのかしら……)
ペンドリー出版のブライアンと、今日は何を打ち合わせたのだろう。
(でも、聞いたところでさっきみたいになるだけだわ)
アンナの心は早くもくじけ始めていた。
と。
ノックの音と共にエヴァンが入って来た。アンナは驚いてベッドから半身を起こす。
「……エヴァン!何の用?」
エヴァンは険しい顔でこちらを睨むと、ずかずかとベッドまで歩いて来た。
彼はすとんとアンナの隣に座る。
それから手を繋ぐと、真剣な表情でこちらに顔を近づけて来た──
ぐいっ。
アンナは驚いて夫の顔面を押し返した。
エヴァンは呆然としている。
「あのっ……やめてください!」
アンナは顔を真っ赤にしてそう言った。エヴァンは憮然とする。
「……駄目か?君と早く仲良くなれれば……と思ったんだが」
アンナは喉から飛び出そうになる心臓を押し込むと、夫から一人分離れて話を続けた。
「私と初めてキスをなさるおつもりなら、もう少し別のやり方があると思いますが……」
「〝やり方〟だと?」
彼は負けじと一人分詰めて来た。
「ではその〝やり方〟とやらを、具体的に教えてくれないか」
アンナはきょとんとする。言われてみれば、確かに言葉足らずだった。
彼女は少女の頃夢見た、憧れのシチュエーションを思い起こす。
「そうですね……まずは、キスをする場所が私としては不満です」
「……場所?」
「初めてのキス。それは人生に一度しかないものです。それを寝室で終えてしまうのは、私は味気ないと思います」
すると、エヴァンはサッとポケットからメモを取り出した。アンナはその必死な様子に仰天する。
「ちょっ……!何でメモなんか取ってるの……!?」
「メモのことはいい。その話を続けてくれ」
「えーっと……つまりですね、女性ひとりひとりに、きっと憧れの場所やシチュエーションがあるはずで」
ペンの鋭い音がカリカリと部屋中に響く。
「なるほど……憧れ、か」
「は、はい。それはお花畑だったり、海だったり、旅先だったり、結婚式のその日だったり……」
「ちなみにアンナはどこでキスがしたいと思う?」
「えっ……」
夫のペン先が、妻の次の言葉をじっと待っている。
アンナは観念したように答えた。
「お、お花畑……ですかね」
エヴァンは待ち構えていたようにペンを走らせた。
「なるほど、その視点はなかった!キスそのものが嬉しいわけではないんだな?」
「そ、そうですね。それそのものも勿論大事ではありますが、場所、相手、交際の進行状況などによってされた時の嬉しさは上下すると思います。ですからなるべく少しでもお互い好きになってからの方が」
「……新しい視点だ」
「は?」
「ありがとうアンナ。やはり君に試して正解だった」
「え?」
「こうしてはいられない……」
言うなり、エヴァンは部屋を出て行った。
取り残されたアンナはぽかんとする。
「……何?何なの!?」
何もかもが予想通りに行かない夫、エヴァン。
「ど、どうしよう……ここまで変人とは思わなかった……!」
エヴァンは地下へと下りて行く。
地下の書庫には、びっしりと恋愛小説が詰まっていた。
「シチュエーションに着目して読み直そう」
何度も何度も読んだ恋愛小説は、アンナの言葉を踏まえると更に輝きを増した。
エヴァンは目を見開く。
「こういうことか……!」
今まで読み飛ばしていた、恋愛小説にありがちな詳細な情景描写。なぜこのように密に書かれていたのかが、ようやく彼の腑に落ちる。
「そうだ。恋愛小説はいちいち描写が細かいと感じていたが、それは愛情表現をより高みに押し上げる効果があったんだ。この描写はただの背景ではなかった。心情と深く結びついている……!」
エヴァンはそれから何冊も取り出し、燭台の灯りを頼りに読み込んだ。
夜が更けて行く──