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4.落ち込む奥様

 夕餉はようやく二人で食堂に揃うことが叶った。


 食事を終え、食後のコーヒーを飲むや、エヴァンの眼鏡が曇る。


 それを外して執事に渡しながら彼は言った。


「アンナ。今日のそのドレスだが──」


 アンナは怪訝な顔でコーヒーカップから顔を上げた。


 夫のエヴァンは真剣な表情で問う。


「どんな気分でそれを選んだ?」

「……はい?」

「いいから答えてくれ」


 アンナは夫の表情を注視する。今朝まではまるっきりこちらを無視していたというのに、急にどうしたのだろうか。


「これは使用人が持って来たのを着ただけです」


 夫は額を押さえた。


「……そうか」


 なぜかめちゃくちゃ残念そうである。


「あの……いけませんでしたか?」


 エヴァンは顔を上げた。


「いや……」

「そうですか」


 アンナは目の前のコーヒーカップが下げられたのを合図に、伝えようと思っていたことを言う。


「あの」

「何だ」

「私の部屋に本棚を造ろうと思うのですが」


 エヴァンのこめかみがぴくりと動いた。


「本棚?」

「はい。私、本が好きなんです」

「どんな本だ」


 エヴァンの勢いに恐縮しながらアンナは答えた。


「お恥ずかしいのですが……恋愛小説です」


 がしゃん、とカップを取り落とす音がした。


「何だと……!?」


 急に前のめりになる夫に、アンナは大いに慌てた。


「ご、ごめんなさいっ!結婚したばかりなのに恋愛小説を読んでるなんて、おかしいですよね……」


 エヴァンは青い顔で我に返る。


「い、いや別にそんなことは……」

「分かってます。年の割に幼いし、変ですよね。あなたが嫌がるなら私、この趣味を辞めますし本棚も造りません!」

「だから別に……」

「学者のあなたはさぞかし崇高な本に囲まれていらっしゃることでしょうね……私、子どもっぽい趣味を持つ自分が恥ずかしいです」


 エヴァンは少し苛ついて立ち上がる。


「別にいいと言っているだろ……好きにしろ」


 彼は頭を掻きむしりながら食堂を出て行く。


 アンナはぽかんと彼の後ろ姿を見送ってから、緊張に心臓の鼓動を速くする。


 やはりだ。


(……彼を怒らせてしまった)


 アンナは絶望した。


(きっと世の中の奥方はこんな幼稚な趣味など持っていないんだわ。それにエヴァンは学者様だもの。余計に私の幼稚な趣味に腹を立てたに違いない)


 新婚早々、すれ違ってしまった。


(これがいわゆる〝価値観の違い〟というやつなのね……)


 アンナは恋愛小説の主人公よろしく、絶望に打ちひしがれた。


 エヴァンは無口で表情もないし、女性慣れしていない。きっと先程髪を触ったのも、愛情表現などではなく、気まぐれだ。


 肩を落とすアンナの様子を、老執事コリンは背後から静かに観察していた。




 エヴァンは自室に籠るとデスクに向かって熟考した。


 恋愛小説を読む妻。


(まさか、彼女は私の本を……?)


 この結婚は、家と家との取り決めでしたものだ。お互いのことを何も知らずに結婚した。無論エヴァンはそれまで親族以外の女性と会話したことなどほとんどなかったし、ましてや触れ合いだのとは無縁。ひたすら勉強と研究をして、合間に唯一の趣味である小説を書いていた。彼は自分の人生はそれでよかったし、それ以上を望まなかった。


 正直、妻は人生の添え物。


 多くの貴族男性のように、彼は今の今までそう考えていた。


 しかし〝恋愛小説を読む妻〟となると、状況は変わって来る。


(一番身近な読者だ)


 貴重な新種の植物を手に入れた時のように、エヴァンは興奮した。


(彼女がどんなことで感情を揺さぶられるかを知れば、作家人生の突破口が開けるかもしれない……)


 実験台が手に入ったのは僥倖だ。


(〝作家〟で居続けるには……)


 エヴァンは作家でいたかった。


 たとえ書きたくないジャンルの作家であったとしても、彼はその肩書きに憧れがあったのだ。


 ブライアンが言う通り、人には得手不得手があり、それと好き嫌いとは両立しないことがある。


 エヴァンは女心など分からなかったが、様々な恋愛小説の切り張りでいつも小説を仕上げていた。それでも読者はついて来る。そう思っていたが、意外なところで躓いた。


 少しでも前とは違う展開を、と考えるのはどの作家も同じだ。しかし彼がその色気を出した途端、読者から急にそっぽを向かれてしまった。こういうことが続けば、その内〝作家〟ではいられなくなるだろう。


 苦悩に頭を巡らしていた、その時だった。


 ノックの音がする。


「失礼致します、エヴァン様」


 コリンの声だ。


「入れ」


 老執事はうやうやしく入って来ると、単刀直入にこう言った。


「奥様のことですが……」


 エヴァンは振り返る。


「さしでがましいようですが、もう少しお優しい口調で話しかけられた方がよろしいかと」


 エヴァンはぎくりとする。


「……そうか」

「はい。この世は、男性の方が力が強いのです。奥様から見ればエヴァン様は腕力と地位のある大男。畏怖の対象です」

「大男?俺はそんなにデカいか……?」

「エヴァン様」


 コリンははっきりとこう言った。


「今まで男性社会で暮らして来られたので無理もないかと思いますが、女性との付き合い方を見直して下さい。もう一度言います。あなたは腕力と地位のある大男。体の小さな奥様の目には、そう映っています。あなたが腕力と地位のある大男に何をされたらどう思うか、それを常に考えて行動して下さい」

「……分かったよコリン」

「私はエヴァン様を幼い頃から知っていますから、あなたが悪い人間でないことは分かっています。しかしアンナ様はあなたの性格を知りません。下手をうって、家と家との契約に亀裂を及ぼすような行動は避けるべきです」


 言いながら、コリンは磨き込んだ銀縁眼鏡をエヴァンに渡す。


 エヴァンはそれを受け取った。


「……アンナはどうしてる?」

「部屋に戻られました」


 エヴァンは眼鏡をかけると立ち上がった。


「……少し、見て来る」

「かしこまりました」


 小説を書く上で、見落としている視界がどうやらたくさんありそうだ。


 エヴァンは妻からそれを見出そうと覚悟を決めて、部屋を出た。

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私あの時、不幸でよかったです。
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