32.まだメモが必要ですか?旦那様。
数か月後。
ペンドリー出版から、大量のファンレターがシェンブロ屋敷に届いた。
エヴァンは午後のティータイムを楽しみながら、それらの手紙を広げて読む。
〝まさかクリスティーヌが婚姻を待たずに妊娠してしまうなんて、驚きました!〟
〝衝撃の展開過ぎます。けれど、あの日常回と過去編を見ているから、二人を素直に祝福出来ます。二人は信頼出来る相手をずっと探し、真っ当な家庭を築こうとしていたのですね〟
〝過去の辛かった思い出が昇華されて行く過程と、母になる決意と。どちらも本当に尊くて、読んで泣いてしまいました。失礼ながらオルムステッド先生のお話で泣いたのは今回が初めてです〟
〝二人が本当に幸せになれる日を心待ちにしています〟
エヴァンはそっと手紙の束をテーブルの端に寄せた。この人気を受け、ブライアンからは既に続刊の決定が告げられている。彼の心は、いつになく満たされていた。
食堂にアンナがやって来る。
「ここにいたのね?誘ってくれても良かったのに」
「ああ……大先生が執筆中なので邪魔をしては悪いと思ってね」
「またからかって……私も食べていい?」
「私はもういいからたくさん食べてくれ。何せ君は妊婦なんだからな」
彼女はにこっと笑って椅子に腰かけた。
数週間前、アンナの妊娠が発覚した。どこかふっくらして来た妻の体。それは、エヴァンの目に燦然と輝いて映る。
「つわりが始まったから、ちょっとずつでも食べないとね」
「……ん?つわりなのに、食べる?」
「ええ。つわりには色々なパターンがあって、吐きづわりか食べづわりに分かれるのよ。私は食べづわり。空腹でいると気持ち悪くなってしまうから、ちょこちょこ食べなければならないの」
エヴァンの眼鏡の奥が光り、その胸ポケットからはメモとペンが取り出される。
アンナはそれを見てクスクスと笑った。
「詳しく聞かせてくれ。空腹だとどんな感じなんだ?」
「そうね。ちょっと胃がキリキリする。そして、ずっと体が重いの。何か食べればそれが軽減されるわ。でも、またお腹が空くとキリキリして……でもたくさん食べると胃がもたないから、本当にちょこちょこ食べなければならないのよ」
「吐きづわりは、どんな感じなんだ?」
「前に親戚から聞いた話だと、胃がずーっと気持ち悪くて、何か胃に入るとすぐに吐いてしまうそうよ。でも、なぜか食べられる食べ物がひとつだけあるそうなの」
「不思議な話だ。胃が勝手に食べ物を選り好みしているというのか?」
「どうも、そうみたい。母体の意思ではどうにもならなくて、全部体に従わされてるみたいな感じね」
「興味深い。これでまた小説の描写に説得力が増すな」
「ふふふ。オルムステッド先生は妊娠経験がある……なんて噂が立ちそうね」
エヴァンはメモにがりがりと書きつけてから、遠くを見つめた。
「はぁ……こういうことに関しては、男に出来ることは何もないな」
「あら、そう思ってくれるだけでありがたいわ。何も出来ないのを自覚してくれてるだけまだマシね」
「六巻で妊婦のクリスティーヌに振り回されるレイモンドの情けない姿が、今から目に浮かぶようだ」
「あはは。確かに!」
二人はひとしきり笑ってから、互いを見つめ合った。
「こんな話題で二人が盛り上がるなんて、結婚当初は考えられなかったわね」
「私も、当時は妻に創作をバレないようにと思っていたんだがな……」
「なぜか言いたくなったのね?」
「君のせいだ。何もかも」
エヴァンの手が、アンナの手に伸びる。
握り合った手の温かさに、アンナは微笑んだ。
「ねえ、また私の作品に挿絵を書いてくれるんでしょ?」
「ああ。でも今度は挿絵ではなく、君の本の装丁の依頼が来ている」
「!本当に!?」
「君の小説を載せたおかげで例の雑誌は前年比売り上げ20%増らしいからな。恐らく短編集を出すんじゃないか?」
「ちょっと……!ロディさんにもまだ聞いてないのに!」
エヴァンはいたずらっぽく笑って妻の横に椅子を引き寄せる。
「どんな装丁にしようか」
「それ、編集者と話し合う案件なんですけど」
「アンナのためなら、どんな難しい絵でも描ける気がする」
「うーん。じゃあ〝幸福〟な表紙にして?」
「……ずいぶんと抽象的だな」
「私のお話は、そういうものが多いんですもの。私にはよく分からないんだけど、私の書くお話には、幸福感や透明感が溢れているんですって」
「確かに。何でもない日常を切り取っているだけなのに、なぜか泣かされる」
「きっと、私達がそういう毎日を送っているからよね」
心の闇が小説を生み出すことがあれば、幸福な日常が小説を生み出すこともあるのだ。エヴァンは感じ入るように頷いた。
「ねぇエヴァン、〝令嬢クリスティーヌの婚姻〟のラストがどうなるのか教えて?」
「最後は……幸せになる」
「そっちこそ抽象的じゃない」
「そのために書いているんだ。彼らを幸せにするために。そうだろ?」
アンナは微笑んだ。
「そうね。自分から生まれた子どもたちのようなものだから、幸せにしてあげたいわね」
「そんな気分になれたのも、君の存在が大きい」
「彼らはあなたが生みの親よ。これからどんな風に成長してくれるのか、みんなが楽しみにしてるわ」
エヴァンはアンナの、まだ膨らまない腹を撫でる。
「……私が子どもを持ったら、またきっと彼らの世界も変わるだろう」
「今度は新しい話が書きたくなったりして」
「実はもう、誰にも見せていないが冒険小説を書き始めている。君に影響されてね。自分の好きなもので勝負しようかと……新たな挑戦だ」
「本当?あなたがそう思えるようになって良かった。自分自身が心から楽しめる物語を作るのって、とても大切なことだもの」
「……アンナ」
二人は昼下がりに、薄暗い食堂で静かにキスを交わす。お互いの健闘を称え合うように、未来の幸福を祈るように。
本を捨てられ続けた二人は、今ようやく自分達の物語を紡ごうとしている。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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それでは皆様、今度はまた違う物語でお会いしましょう♪