30.作者夫婦の心
モロー出版の編集者ロディは瘦せこけた若い男だ。
彼はむさぼるようにアンナの作品集を読んでから、天井を見上げた。
「……こんなに心が満たされる作品に出会えたのは、久しぶりです」
アンナは思わず笑う。
「大袈裟ですね」
「いや、あなたの小説は謎のエネルギーに満ち溢れてますよ。幸福感、多幸感というのか」
「そうなんですか?自分では意識していないです」
「なら尚更すごい。いや……この幸福感のからくりに気づけば、もっとすごいものが書けますよ」
アンナは斜め上を見上げた。幸福感のからくり。
「そうですね……最近は、満たされた毎日を送っているからでしょうか」
ロディが前のめりになる。
「ほー、それは?」
「結婚したのが大きいですね。主人は小説を読むことを咎めたりしませんので」
「女性ならではの悩みですね。ほかの女性作家でも割と聞きますよ。女が本の虫になることを許容出来ない旦那様や親御さんが多いんです。そうか、旦那様が……」
アンナのような女性は、この世にごまんといるらしい。
「小説を書くことを勧めてくれたのも、彼なんです」
「そうなんですか?ペンドリー出版のブライアンさんが『公爵夫人に執筆を勧めたのは私だ』と自慢気に触れ回っておられましたけれど」
「あら、うふふ。それもありますけど、夫のゴーサインが何よりの後押しでしたわ」
ロディは椅子にもたれた。
「難しいですね。創作は、時に周囲の妨害に遭いますから」
「ロディさんもそのような経験が?」
「私は基本的に読むことしかしないんですがね。出版後に作者の親族に怒鳴り込まれることもありますよ。女性なら〝目立つようなことをするな〟。男性なら〝将来の足かせになったらどうする〟などと。書く自由って、誰にでもあるわけじゃないんです」
アンナは感じ入るように頷いた。
「んー、確かに……」
「こういう風に、編集者と話し合うことも嫌がる旦那様は多いですね」
「では、私は恵まれている方なんですね」
「と思いますよ。それに、自分の気持ちを自由に書ける人って少ないんです。やはり小説家と言うのは、読者受けを考えるのが当たり前になっていますからね」
アンナはエヴァンのことを思う。
書く側に回ってみて分かった。自分の作品について、誰かに何かを言われる恐怖。けれどそれを何度繰り返しても書く快感には抗えなくなっている。褒めて貰ったり批評して貰ったりすることが、そこに〝ない〟とされるよりも明らかに幸福であることを知ってしまった。
別の欲が自分を支配し始めている。孤独な作業なのにそれが晒され、国中に行き渡る快感。
自分の中身が、どんどん外へ拡大して行くスリル。
しかしその拡大された中身が、時々自分の心に襲い掛かって来る恐怖。
(もっとエヴァンに優しくしてあげよう)
アンナは静かに夫を思いやった。もっと自分の作品にプライドを持てと口では言ったが、それがどんなに彼にとって難しいことだったのか、自分が原稿を他人に託した今だから分かる。
「では原稿は持ち帰らせていただいて、後日改稿案をお持ちしますね」
アンナは顔を上げた。
「はい、よろしくお願いします!」
「これにて失礼致します」
執事に伴われ、ロディは出て行った。
同じようにブライアンもちょうどエヴァンの書斎から出て来るところだった。
アンナとエヴァンは両編集者を見送って、ふとお互いの顔を覗き合う。
「……どうだった?モロー出版の編集は」
「そうね。細かいことは言わない、優しい人だったわ」
「……今度から私も同席した方がよさそうだな」
「まあ。エヴァンったら」
二人は少し笑ってから、ふと真面目な顔つきになる。
「……お疲れ様、エヴァン」
「アンナこそ」
「私、あなたにズケズケ言い過ぎたことを、今更だけど詫びるわ。あなたはとっても難しいことに挑戦していたのね」
二人は踵を返して書斎に戻った。
エヴァンの書斎の壁からは花のスケッチが既に取り払われ、別の紙が貼ってあった。
アンナはその紙に近づく。
そこには、男女の絵が飾ってあった。
「エヴァン。これってクリスティーヌとレイモンド?」
「ああ、そうだが」
「人物画もお手の物ね」
「それを挿絵にするんだそうだ」
「私の頭の中の二人とほとんど一緒よ」
想像を文章で伝える方法もあるが、絵で伝える方法もあるのだ。
「私の小説集がもし出たら、あなたに挿絵を描いてもらおうかしら」
「喜んで」
「……ねえ、エヴァン」
「何だ」
「〝令嬢クリスティーヌの婚姻・5〟は上手く行った?」
「ああ。過去を描く方向性は変えず、衝撃のラストで乗り切った」
「衝撃のラスト?」
エヴァンは得意げに鼻を鳴らす。
「発売を待っているがいい。さぞかし読者は驚くことだろう」
「オルムステッド先生。また読者を振り回す癖が抜けないのね」
「……切り張りからは脱しているから安心してくれ。ただ、最近よくよく考えたんだ。切り張りするにも、明らかな意志が必要だったことに」
アンナは虚空を眺め、「ああ……」と言った。
「確かに切り張りするにも、どの作品の何を切り取るかは作者の意向が反映されているわけね」
「自分の作品を見つめ直して分かったことだ。そこでやはり切り張りは〝ナシ〟であるという結論に至った。切り張りはいたずらに自分の心を〝借り物〟扱いして疲弊させるだけなんだ。何も生み出さないばかりか、自らの作品で自らを傷つけることになる」
アンナは微笑むと、エヴァンに寄り添った。
「満点の解答ね」
「自分で選択したことを〝切り張り〟などという言葉に変えて逃げずに、もっと責任を持つべきだった」
「かっこいいわ、エヴァン」
「……どこが?」
「その歳で自分の悪いところを見つけて直す勇気があるって、かっこいい」
「……そうか?」
「だから、もっと自信を持って」
アンナは勇気を分け合うように、エヴァンに抱きついてその頬にそっとキスをする。
「……私も一緒に頑張る」
「ありがとう、アンナ」
「書店に夫婦そろって書籍を並べる日が来るのが、今から楽しみだわ」