29.渾身の最新作
一か月後、シェンブロ屋敷にて。
エヴァンから受け取った〝令嬢クリスティーヌの婚姻・5〟の改稿版を読み込んで、ブライアンは微笑んだ。
「かなりいい。いや、この段階でキャラクターの過去を掘り下げたのは、やはり英断でしたな」
エヴァンも微笑んだ。
「今まで読者を惹きつけようとか、話を早く展開させようだとか、そんなことばかり考えて書いていたんだ。けれど最近になって、私はこのキャラクターが一体何者なのか立ち止まって考えてみた。彼らは〝駒〟ではない。意思のある人間なんだ」
「ああ、ようやくそこに気がつきましたか。とするとアレですか?そろそろ〝キャラクターがひとりでに動き出す〟という経験をされたのではないですか」
エヴァンは目を丸くする。
「……ブライアン。君はなぜそれを知っているんだ?」
「やはりそうでしたか。キャラクターが完全に決まると、話の方向性が決めやすくなるんですよ。それが書き手に〝勝手に動く〟という風に錯覚させるわけですな。だからキャラを〝駒〟や〝人形〟として動かしている内は動き出さない。キャラが動いた時──それはあなたが彼らに性質や役割や方向性をきちんと与えられたからに他なりません」
エヴァンは静かにブライアンを上から下まで眺めた。
「そう……かもしれないな」
「なかなか素晴らしい。恐らくこの巻は、読者の度肝を抜くことでしょう」
「……」
「どうかなさいましたか、オルムステッド先生」
「いや……私が初めに小説を持ち込んだ時、君はなぜ拙作をけなしながら〝次は別ジャンルの小説を持って来て下さい〟などと言ったのか……今更ながら気になってね」
ブライアンは原稿を封筒に入れながら、こともなげに答えた。
「けなされたことを踏まえた上で、次回作をどれだけのクオリティで書けるかを試していたんです」
エヴァンは眉根を寄せた。
「は?」
「文学サロンでもご覧になったでしょう。普通、自作が評価されなかったり受け入れられなかったりしたら、落胆したり言い訳したり怒り狂ったりします。しかし持ち込みの際、あなたは熱心にメモを取っていらっしゃった」
「そうだったかな……よく覚えていない」
「私は衝撃的だったからよく覚えています。ちっとも凹んだり拗ねたりするそぶりがなかった。これは普通の小説書きの根性とは違うぞ、と感じましたね。あとでプラントハンターだったと聞いて、冒険家の一面を持ち合わせているからなのだ、と腑に落ちましたが」
「……」
「どうしました?」
エヴァンはぽつりと言う。
「ブライアンは人のことをよく見ているのだな」
「それも仕事の内ですので」
「今更ながら、君に感謝する。君がいなければ、私は存在していなかった」
ブライアンは少し深刻な表情を作る。
「やはりそうでしたか。小説書きには〝自己確認〟のために書いておられる方がいらっしゃいます。自尊心を取り上げられてしまった人間が、それを取り戻そうと箱庭を作るように、書く行為に走ることが」
「……」
「小説家で人生が全て満たされている人など、ひとりもいません。満たされないから埋める。または生み出す。分裂する。きっと、〝書く〟という行為で、自己を確認しているのです」
「……文学サロンに我々を誘ったのは、アンナのためではなかった、という認識でいいか?」
ブライアンは破顔する。
「……見破られましたか」
「アンナの作品を読んで、何となく分かった。今までの私の作品に、中身など何もなかったんだ」
「……そんなことは」
「面白味のある切り張りよりも、生み出さなければならないものがあった。心のこもっていないオマージュなど、誰が読むものか」
「……」
「君はアンナを使って、私に気づきを与えた。これもきっと君の作戦の内だったんだろう」
ブライアンは頷くと、窓の外に視線を移してぽつりと言った。
「実は私も……昔、小説家になりたかったんです」
エヴァンは彼の横顔を眺める。
「けれど、私は批判眼が強すぎまして、自分の生み出したものをその眼で全て否定してしまうんです。その批判眼がどこから来たのか昔からずっと思案しておりまたが……掘り下げて行くと、両親のことに突き当たりまして」
エヴァンは目を見開いた。
「両親は〝お前のためだから〟と理由をつけては、何かと私の欠点をあげつらって否定する人たちでした。その経験を自分の力ではどうにも処理出来ず、そこに蓋をしました。そうしたら、小説を書けなくなってしまって……」
今のエヴァンには、彼の苦しみがよく分かる。ブライアンは少し声を詰まらせながらも続けた。
「色々な職業を経験しましたが、巡り巡って出版社に滑り込みました。その時に、得意の批判眼で色々な小説を手直しして、世に出すことに成功しました。誰かの小説を出す手助けが出来たんです。そうやって自尊心を取り戻して行く内に、私は気づきました。私は、持ち込まれる物語に心を回復させられている。どんな作品にも、その力がある。売り上げは芳しくなくても、下手で出版出来なくても、誰かの心には必ず残り続けている──ということに」
エヴァンは頷いた。
「……そういうものだよな、小説って」
「ええ。だからですね、書けるだけでも本当は素晴らしいんです。大抵の人は小説なんて書けませんから。書き切れただけでその小説はある意味、成功しています。あとは他人の読む目や出版に耐えうるか、というだけの話です」
「……そうだな」
「今思えば、私はあなたに自分を重ね合わせていたのかもしれません。だからあなたには、どうしてもご自身の心から生まれる小説を書いて欲しかった」
「ありがとう、ブライアン」
二人の間に心地良い沈黙が訪れた。
「ところで……今日、アンナの元にもモロー出版から編集者が来ているとか」
「噂はかねがね。何でも少女雑誌に読み切りの短編を連載されるそうですね」
「大丈夫かな……」
「月刊誌ですから、新聞の連載小説よりは楽だと思うのですが……」
一方のアンナはモロー出版の編集者の前に、ずらりと短編原稿を並べていた。
「色々書いてみたんですが、いかがでしょうか」
編集者は飛びつくように、手前の原稿から目を通す。
「……凄いぞ、これは……!」
アンナは小首を傾げた。